境界線

 大学4年の12月25日土曜日。私達の学部では国家試験を控えている学生が多くいた。就職先が決まっても、国家試験に受からなければ、就職はなしになるか、受かるまでアルバイト又は資格なしの安月給で働く事になる。

 クリスマスなんておかまいなしに、その日も大学の仲間数人とファミレスで勉強をしていた。


 携帯を見れば、20:03。田舎の終電が近づく頃、彼から、着信があった。私は、マナーモードで振動する携帯をただ眺めていた。


 着信がありました、の通知の後、『ごめん。忘れてた。今日クリスマスだよね』と携帯のディスプレイに連絡の通知が映る。既読はしない。携帯電話を裏返してテーブルの上に置く。

 近頃、ずっとこんな感じだった。今年は誕生日も忘れられていた。

 3つ年上の彼、須郷奏人すごうかなとは、社会人だった。仕事がこの所、忙しいようで、余裕がなさそうだった。大学生の私はまだ社会の厳しさを知らず、彼の大変さなんて分からなかった。私は私で、実習や国家試験で余裕がなかった。

 その頃の奏人は、久しぶりに会っても死んだ魚のような目で仕事の愚痴をするだけだった。そして、ただ私を激しく抱いて世の中の嫌なことを全て払拭していた。本人も「自分は猿みたいだ」と、本能のまま私を抱く自分に気を落としていた。私はただそんな奏人を受け入れ、私自身もそうすることで奏人の愛を探していた。お互いに心の闇を埋めているようだった。


 私は、自分を忘れられていく事が怖かった。誕生日も、運動会も、大事な日に全ていない父と奏人が重なった。小さな行動1つ1つが父と重なる度に奏人を嫌になっていった。



 私が帰り支度をしはじめると、中野が「モモもう少し勉強したい?」と、私に聞いた。


 帰ろうかなと、私が言う前に中野が、「車で家の近くまで送っていくよ。星田と山中ちゃんも最寄り駅まで送っていくし」と、言ってくれた。


 私の家は、大学まで車で30分で行けるが、公共交通機関を利用すると大学まで1時間半かかる。家から駅が遠いのと、電車とバスの乗り継ぎの時間を要するからだ。駅から家へ方へ向かうバスは最終21:50だから、20:23発の電車に乗らなくてはならなく、皆より終電が約2時間早い。

 車を買いたいくらいだけど、そんな余裕ない。大学3年冬まで原付きで通っていたが、寒い日に路面凍結した道をカーブして転んでからは、乗っていない。たまたま車の通りの少ない道だったが、転んで、顎を縫った。

 

 国家試験が迫り余裕がなくなってからは、中野に送ってもらう事が増えた。家で勉強ができるタイプでもないし、中野と話す時間がストレス発散だった。中野は、気を遣ってくれたのだろう、ありがたい言葉に甘える事にした。


 そして、中野、星田くん、山中里美ちゃんと私は日付が変わるまで勉強した。

 帰りは中野がおばあちゃんから譲り受けたというクリーム色の軽自動車に乗った。

 星田くんと里美ちゃんは、最寄り駅が同じだからと、二人で車の後部座席に乗った。駅から自転車で自宅に帰るらしかった。

 乗った時は寒かった車内はすぐに暖かくなり、蒸し暑いなぁっと感じるくらいになった。車のフロントガラスに水滴がポツポツついている。着ていた上着をモゾモゾ脱いで、膝にかける。脱皮する前の蝶はこんな感じなのかななんて思う。

 私は蝶にはなれない。だけど、いつかなってやると、思っていた。自由な人は羨ましい。


 二人の最寄り駅までは、勉強していたファミレスから20分の所にあった。二人の最寄り駅につくと、二人は中野に「なかのん、ありがとね。勉強教えてもらって、送ってもらって助かったよ」と、感謝を伝えて車を降りていった。

 お迎えラッシュで通行量の多い、ロータリーをぐるっと周り、道路の方に出た頃には、星田くんと、里美ちゃんは駐輪場を出て向かい側の道路を自転車で走っていた。車は交差点の信号で赤になり、動かなくなった。二人の後ろ姿が見える。


「中野、あの二人付き合ってんの?」二人を見ながら私が言った。

「そうみたいだねぇ」中野は間の抜けた答え方をした。

「ねぇ、あれ付き合ってるよね」

「うん。そう思う」

「ねぇ、青春ぽく二人乗りはじめたよ」

「そうだよねぇ」

「私、てっきり自転車2台かと思ったけど」

「自転車1台しかないみたいだねぇ」中野は、間抜けな返事ばかりする。二人は二人乗りをして、爽快に走っていた。

「なんか青春してない? ズルくない? あっ、コンビニに入った」コンビニに入った二人を見送りながら、車は交差点を曲がっていった。幸せそうな二人が目に入った。

「さっきさ、俺、バックミラーで後部座席みたらラブラブだった」

「えっ? どうして教えてくれなかったの? どーいう気持ちで黙ってたの?」

「後にいるのに教えられないし。ラブラブだねぇと、思った」

「うん。まぁそうよね。2人がいるのに教えられないよね」

 ラブラブか。頭に奏人の顔がよぎる。もう奏人とはラブラブじゃない。でも、就職して都内へ行ったら奏人と、同棲する。上手く行っても行かなくても、奏人と将来結婚するものだと思っていた。奏人を追いかけて、今まで学生生活を頑張ってきた。奏人は、私の憧れていた人だった。今は、憧れていた奏人とは、違う人になってしまったけど、家から出たかったし、安心や安定が欲しかった。すがるものが欲しかった。

「モモは、今、幸せ?」

 中野は、意味ありげに聞く。

「今は、国家試験辛い。中野、ごめんね。星田くんと、里美ちゃんの最寄り駅よってからだと帰り遅くなるよね。気を遣わせたよね」私は話題を変え、中野に謝った。

「大丈夫」と、中野は、ゆっくりしたテンポで話し始める。

「こんなに切羽詰まって、勉強できない子を早く帰らせられない」中野の言葉がグサッと胸に入った。

「あぁ、私が1番マズイって言われてるらしいよね。模試の成績も良くないし」

「うん。それにモモ家じゃ勉強しないよね?夜弱いし」

「確かに…」

「モモはさ、夜弱いから皆で勉強した方がいいんだよ。家では寝るだけにして」

「そうだよね。どうにか頑張りたいんだけど、夜は一人じゃ耐えられん」


 中野は、本当に一緒にいて楽だ。中野は大学の中で1番の友達だ。中野が心に秘めている気持ちには気づかないふりをしてきた。中野は、他の男子と違う。2人でいても、色気なんかない。私も、女としていなくていい。

 中野の気持ちなんて置いておいて、私は中野を信頼していた。今思えば、それは中野にとっては酷な事で、自分の甘さだったと思う。

 中野に向ける自然な笑顔も中野には、無防備な女に見えてしまったのだと思う。



 他愛のない会話の途中で私は寝ていたらしい。上着を布団代わりに、気持ちよく寝ていた。

 自宅近くのコンビニに着ていた。私は中野に肩を揺らされていた。中野の車は安心する私のゆりかごになっていた。

 起きなくちゃと、目を開けようとした。

 __私の肩を揺らしていたはずの手が、セーターの前襟を超え、胸元へ来ていた。

 声を出させず、ただ爆睡しているフリをした。

 私が動揺するより先に中野が動揺し、手が震え始めた。「俺どうしちゃったんだろう」普段言わない大きな独り言が漏れ、胸元から手が離れた。

 すぐに起きられず、横目で見ると、小刻みに震えた左手を必死に右手で押さえていた。

 こんなことあるだろうか。ドラマじゃあるまいし。気の迷い、気のせい、疲れているんだ。色々と理由を並べてみた。うん、気のせい。


 何事もなかったように起きて、車を降りる準備をする。中野はひたすら「ごめん、ごめん」と、謝っている。言葉が出ず「大丈夫」とだけ言って降りた。


 心の何処かで、好きだと思ってくれている、中野と側にいたら楽なんじゃないかと逃げに走った私がいた。中野の手を振り払う事だって、嫌だと言う事だって中野と私の関係なら出来た。

 

 この時、中野が私に作っていた境界線が壊れたようだった。私は、距離を作れたはずなのに、作れなかった。

 国家試験が迫っているから頭のいい中野と気まずくなっては困る。きっと国家試験によるストレスや、気の迷いだ。勉強しなくちゃいけない。色々な言い訳をした。大学で1番の友達が、友達ではなくなってしまった。


 中野が送っていくよと行っても、終電で帰り、自分で頑張って勉強をするべきだった。距離を取って一緒に勉強するのをやめるべきだった。


 その日から、抜けられない底なし沼にはまっていった。

 寂しかった私は、そうなるようにしていたのかもしれない。最低だってどこかで思ってるのに、気づかないフリをして蓋をした。


 奏人と一緒に笑っていたかった。それだけだったのに、心の中では、奏人を求めているのに、奏人から身体は遠ざかっていった。奏人と会っても疲れているフリをした。罪悪感からなのか、本能なのか、1つの身体に2つは、いらないシステムに私はなっているらしかった。

 

 中野と私は、身体の関係はない中途半端な関係になっていき、1つの境界線が壊れると、次の境界線も壊れていった。

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