第9話
「エスメラルダ・メノー殿。昨日の私の振る舞いは騎士を目指す者にあるまじき、礼を失したものだった。あなたの愛馬の美しさに目が眩んだがゆえの無礼、深く反省しここに謝罪する。
どうか許してもらえないだろうか」
「あなたの謝罪を受け入れます。ダニエル・アンブロイド様」
「ありがとう。メノー殿」
「わたくしのシシィはお譲りできませんが、いずれ劣らぬ駿馬のご用意が領地にございます。
ご要望とあらば、ぜひ当家に」
「ああ、その時は頼む」
ほぼ初めて見る貴族然とした友人の振る舞いに、マリーは圧倒されただただ立ち竦むばかりだった。
その日の朝。ローズマリー・オリーブはいつも通りエスメラルダ・メノー、アドリアーナ・シグラス、そしてシズク・ブルーの寮暮らし三人と共に学び舎へ向かっていた。
薄曇りだが心地よい気温で、風の精霊がさざめく空気は穏やかだった。
そんなレンガ道の途中、詰襟制服の男子二人から唐突に話しかけられ──訳知り顔のエスメラルダが件の対応を行ったのだ。
寮から校舎へ続く道は生徒の姿が多い。突然の謝罪は結構な声量で、否応なしに周囲の目を引いていた。立ち去る男子生徒二人とマリーたちの間を多数の視線が往復する。潜めてはいるが好奇心を隠しきれない囁き声と共に。
「な、なんだったの? 今のだれ?」
「騎士科の人だったよね? エメどこで知り合ったの? ていうか謝罪されてた?」
「何か失礼なことをされたのですか? 本当に謝罪だけで許して大丈夫なものですか?」
「うん、一人ずつお願い」
詰め寄る三人をエメは前へと促す。歩きながら説明してくれるらしい。
エメの語るところによると。先ほどの男子生徒は騎士科の一年生で、エメとは授業後の特別講義が一緒なのだそうだ。
「まー、そんなに大それたことじゃないよ。昨日の馬術講義でシシィがあんまり良い子だから、ちょっと揉めただけ」
「一緒にいた人は?」
「馬術では一緒じゃなかった気がするから、付き添いの友達じゃない?」
友達であるかもしれないが、立ち居振る舞いが従者に近かったような気がする。
マリーはそれをそのまま口にした。
「そういえば彼、伯爵家だったかも」
「かもじゃなくてアンブロイドは伯爵家!」
納得顔で頷くエメへ、大きな瞳を一層輝かせながらアディが続ける。
「侯爵家と親戚のけっこうおっきい伯爵家だよ! 南東の国境を守護する騎士の家系で、最近は農業にも力入れてるの!」
「そうなんだ」
「反応薄ーい!」
アディがここまで興奮するのはオシャレに関係すること以外では初めてかもしれない。エメはというと右から左に聞き流しているが、これだけ詳しく他家の情報を知っているとは。マリーも初めて知ったアディの一面だ。
ふっくらとした頬を紅潮させ、アディはさらにエメへ詰め寄る。
「エメはもっとこう、自分を売り込もうとかないのぉ?」
マリーを含め、三人は貴族家の娘たちだ。だというのに浮いた話のひとつもないのだから、普通の貴族であれば焦って当然だ。相手が伯爵家ともなれば妻候補にと自身を売り込むものなのだろう。
普通の貴族であれば。
「だって馬の扱い悪いし」
「あー」
エメの一言でマリーは納得した。自分の大切にするものを粗雑に扱われるのは誰が相手だろうと気分が悪い。たとえ爵位が高くとも友達にはなれないし、結婚ともなれば尚更だ。家の事情が絡んでどうしても必要であれば、嫌々ながら表面を取り繕ってそれなりに仲良くはするだろう。けれどそれだけだ。深い仲にはなれない。
あれだけ貴族的な結婚に前向きであったアディもそれは同じと見えた。
「うーん、そっかぁ」
先ほどまでの高揚具合は鳴りを潜め、是非もなしといった様子で頷いていた。
そんなアディの頭越しに、深い藍色の瞳がエメを伺う。
「エメ、本当に大丈夫なんですよね? 伯爵家のご子息だから遠慮してるとかじゃないですよね」
「そこは本当に大丈夫。ちょっと口論? っぽくなっただけだから」
シズクは心配顔だ。神官見習いらしい清廉な目元に決意を込め、しかし神官らしくなく拳を握り掲げて見せる。
「もし何かあったら、水の神殿は協力を惜しみませんからね」
これが社交辞令ではなく本気であるのがシズクだ。
水の神殿の神官見習いであり、魔法による治療を専攻し、背は高めであるがおっとりとした顔立ちで『癒しの巫女』とでもいうべき見目をしているシズク。彼女はそんな肩書きと見た目にそぐわない、ある種好戦的な面をも持ち合わせている。
授業をサボる、小テストでカンニングをする、紙屑を放置するといった行為を見た瞬間、シズクは相手を問わず真正面から注意する。確かに神官見習いとして正しい行為ではあるのだが、強い口調と正義感は反感を呼びかねない。
幸い本当に面倒な相手には当たらず、マリーたちの説得もあって正面からではなく教師を挟んで注意を促す小技を会得したおかげで、今のところ『貴族の嫌な面』を見ずに済んでいる。神殿で育ったシズクは不正や不義理を許せない性質をしているのだろう。
マリーが『前世』で見ていた時はもう少し穏やかでのんびりとしていたような気もするが、ゲームでは見えなかった部分が見えているのかもしれない。
「ほんとーにどうしようもない時はお願いするから、その時は頼むね」
「それはもう、全力で!」
握り拳をふりふり目を輝かせるシズクはどこか期待している様子でもあった。
その後はこの日の授業やら、食堂で出される日替わり定食の内容やらで話が盛り上がり、いつも通り授業開始五分前の予鈴と共に教室へ入った。
と、同時。
「ごきげんよう皆さま。わたくしの縁の者から謝罪を受けていたようですが、何か失礼があったのかしら」
侯爵家令嬢という格上も格上の相手から話しかけられ『いつも通り』は脆くも崩れ去った。
学びの上では皆が平等──とは学院の理念であるが、小さな社交界となっている現状ではほぼ建前だ。マリーを含めた男爵家令嬢プラス神官見習いの四人は即座に頭を下げた。
アレクサンドラ侯爵家令嬢であるところのソフィアは慌てたように首を振り、エメの肩へ触れる。
「いやだわ、わたくしたちクラスメートじゃない。そんな畏まらないでちょうだい」
お許しがでたところで、声をかけられたエメ以下マリーらも顔を上げる。とはいえ、きちんと背伸ばし姿勢を正している。
「その、アレクサンドラさまのお耳に入れるようなことではないです。本当に、ちょっとだけ、口論というか……軽く揉めただけなので」
「まあ……アンブロイドは武家ですから、きっと怖い思いをされたのではなくて?」
「いえ! 本当の本当に、かるーく言い合いというか、私も言い返したのでおあいこです!」
斜め後ろから見るエメは、問題の当人である伯爵家子息から謝罪された時の数倍は焦っているように見える。何せ相手はこの国で王族の次に尊い身分である侯爵家の御令嬢だ。うっかり口を滑らせれば自分の首が飛ぶかもしれないし、揉めた相手──伯爵家の息子だってきっと簡単に首が飛ぶ。
マリーは完全に他人事であるし、昨日のお茶会で話の通じない相手ではないとわかっており、ソフィア自体を恐れる気持ちは薄れていた。今はお貴族さまとはいえ、中身はマリーと変わらない『前世』持ちで、庶民感覚も持ち合わせている。そうそう簡単に強権を振るってきたりはしないだろう。
それよりも何よりも怖いのは、教室中から向けられる各貴族家子弟たちの視線だ。
侯爵家との縁はどの貴族家だって欲している。わずかでもきっかけがあれば是が非でも『お友達』になりたい者が大多数だ。とはいえ、社交界の暗黙の了解として下位貴族から上位貴族へ声をかけることはできない。侯爵家ともなれば尚更、下のものはひたすらお声をかけられるのを待つしかない。
王都近郊の名だたる貴族家子女を差し置いて、王都から遥か彼方の西南の果て、田舎も田舎の男爵家の娘たちが話しかけられているのだ。話題も気になればその後の交流の有無だって気になって仕方がないはずだ。
「なんともないのであれば良いのだけれど……」
「ええ、ええ。本当にもうお互いスッキリ誤解もとけましたし、恨みっこなしでおしまいにしましたので!」
打算混じりの好奇心から嫉妬由来の眦を釣り上げたものまで、様々な思惑の視線が降り注ぐ。せめて害意は隠してくれないだろうか、とマリーは戦々恐々としていた。
「ところでローズマリーさん」
「は、はい!?」
マリーの返答は頭のてっぺんから出ていた。話題が自分に飛ぶなんてつゆほども思っておらず、ソフィアから意識が逸れていたのだ。
「昨日『わたくしが』お出ししたお茶、気に入っていただけました?」
「あ、はい。あれすごく美味しかったです」
ソフィアは口元を押さえ嬉しそうに笑った。大輪の百合が朝露を受け日差しに輝くかのようなたおやかさだ。マリーとエメ、さらにはアディとシズク、そして教室中から感嘆のため息が漏れる。
ソフィアの笑みに見惚れ、マリーはソフィアがことさら強調していた言葉の意味に気付くことはなかった。
「上手に淹れられていたみたいでよかったわ。今回のお詫びも兼ねて、後ほど皆さまにお贈りさせていただきますね」
「え、いいんですか」
「ええ。ぜひ楽しんでほしいわ」
マリーとエメだけではなく、息を潜めるようにして立ち尽くしていたアディとシズクにも微笑みかけ、ソフィアはいつもの席へと戻っていった。
教室中に広がるざわめきの質がいつもと違う。相変わらず刺さり続ける視線たちを意識して無視しつつ、マリーたちもいつもの席へ着いた。
「マリー……アレクサンドラさまとお茶したの?」
「あ、うん」
「え、え、何で? マリー、アレクサンドラさまと知り合いなの?」
「あー……なんでだろ」
まさか同じ『前世持ち』であるとバレたがために目をつけられたとはいえない。
「なんか、一昨日図書館前でぶつかりそうになっちゃって、そのお詫び?」
「そんなことで?」
目を丸くするエメはいつもより幼く見えた。
きっとマリーがそう聞いたのであれば、やはり同じような顔をしていただろう。だが今はそれで納得してほしい。そんなことでだ。
「すごい律儀だよねぇ」
あはは、とマリーは乾いた笑いでお茶を濁す。そういうことにしてほしい。
「大丈夫ですよね? 後からお茶代請求されたりしないですよね?」
「それは大丈夫だと思うよぉ。侯爵さまだもの、そこまでセコい家じゃないと思う」
別の点で心配顔のシズクへアディが答える。貴族は体面と見栄でできている。特に相手は侯爵家だ。そんな心配を口にする方が失礼にあたる。
長机の上で頭を寄せ合うヒソヒソ話は授業開始の鐘と共に解散となる。魔法基礎理論の教師が教科書を開くよう告げ、マリーは指定されたページを開く。その頃には教室中からの視線も無くなっていた。
ソフィアとはこっそり仲良くしようと決めたはずだったが、いきなり計画が狂ってしまった。エメが絡まれたという伯爵家の子息のせいか、それともソフィアがそれに乗じたのかはわからない。
とはいえ。大っぴらになってしまったものは仕方ない。うまく利用していくしかない。
──侯爵家との縁をどう利用すればいいかは、今のマリーにはとんと思いつかないが。
その後しばらく、学内のあちこちの曲がり角でソフィア・アレクサンドラに体当たりを仕掛けようとする令嬢が増えたのは全くの余談だ。
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