第6話

 テーブルにはジョバンニの入れたお茶と、マリーが以前持ち込んだ瓶詰めの砂糖菓子、それから魔物由来の素材が並んでいる。なんとも物騒なお茶の時間だ。

「これは、なんの爪ですか?」

「大熊だ」

「大熊……私の領地にも出ますけど、この爪の大きさだとかなり大きいですね」

「ああ、駆け出しの冒険者ばかりを狙って食べてここまで育ってたそうだ」

 ひえ、と声にならない悲鳴をあげ、マリーは眺めていた爪をジョバンニの手元へ戻した。

「先輩、お一人なのによく怖くないですね」

「一人の方が気楽だ。いざとなれば影でさっさと逃げられる」

 マリーはジョバンニを「先輩」と呼んでいる。本来であれば最低でも「イルモーブ様」と苗字に様付けで呼ぶべきであるのはマリーも重々承知している。しかしジョバンニ当人が「イルモーブ侯爵家と僕はもう関係がない」と苗字呼びを拒否したのだ。であれば、「ジョバンニ様」と名前で呼ぶべきだろう。

 ここでマリーに照れが出てしまった。貴族同士では名前で呼ぶのは親しい間柄、特に男女間であれば「幼馴染」であったり、それこそ「婚約者」である場合がほとんどだ。家名が無い平民では男女だろうが名前呼びが当たり前だが、貴族では重みが違うのだ。

 名前呼びを避けたいマリーは頭を捻った。マリーはジョバンニから闇魔法を教わろうとしている。ならば「先生」はどうだろうか。思いつくと同時ジョバンニへ提案した。

「僕はまだ教職についていない。立場としてはきみと変わらないのに、先生は変だろう」

 素気無く却下された。

 そしてさらに悩みに悩んで出たのが、「先輩」という敬称であった。

 口から出た時には「この世界に先輩という概念はあるのだろうか」と少々焦りが出たマリーであるが、ジョバンニが「それなら良い」と納得したので安心した。


 マリーはジョバンニとその日あったことを報告し合っている。マリーは闇魔法を教わるためという名目でジョバンニの下へ通ってはいる。ではあるが、闇魔法を扱えないマリーは実践ができるわけでもなく、魔法基礎理論を修めていないので理論を構築できるわけでもなく、早々に教えてもらえることが尽きたのだ。

 教えることはないのだから来るな、と言われるかと恐々としていたマリーであるが、意外なことにジョバンニはマリーを邪険にしなかった。話が途切れないようにと苦し紛れにマリーが話す「その日あったこと」へ律儀に相槌をうち、授業の内容に少しでも疑問があれば丁寧に解説してくれた。

 いつの間にかそれが二人の日課になっていた。

 マリーの目下の目標はジョバンニを孤独にしないことだ。ジョバンニの孤独ゆえにゲームの世界は崩れた。

 だからマリーは毎日ジョバンニの下を訪れ、話をしている。少しでもジョバンニの孤独を和らげ、理解しきれずとも理解者でいられればと。

 闇魔法の素晴らしさを広めるだとか、ジョバンニの有能さを広く知らしめるだとか、他にするべきこともあるだろうが、一介の女子学生──しかも男爵家の娘には難しい。

 時折、ただ毎日お茶をして世間話をするだけの自分の無力さに虚しくなる。異世界転生という夢のような現実の中にいるのに、マリー自身に世界を丸ごと改変する夢のような力はない。

 しかし、日々の積み重ねこそ実りの源だ、とマリーの父親も言っていたように、この小さな行動がジョバンニの運命を変えるはずだとマリーは信じていた。無力な自分にできる最善がこれだと信じていなければ、この平和な美しい世界がいきなり終わるのかもしれないという事実に耐えられなかった。


 時計台から鐘の音が響く。学生はそろそろ寮へ帰る時間だ、と知らせるための鐘だ。

 魔力を物に込める話に夢中で、マリーは日差しが傾いているのにも気付かなかった。

「もうこんな時間。そろそろ帰りますね」

 ああ、と頷き、ジョバンニは立ち上がるとごく自然にマリーの椅子を引いた。そんなことしなくてもいいのに、とマリーは毎度思えども、気恥ずかしさの中に一抹の嬉しさがあるため言い出せずにいる。

「気をつけて帰るといい」

「はい、今日もありがとうございました」

 深々と頭を下げ、マリーはおさげ髪を揺らしジョバンニへ背を向けた。背にひしひしと視線を感じながら日の暮れかけた小道を行く。

 ジョバンニはいつもマリーが見えなくなるまで見送っていてくれる。初めて見送られたときは、何度も振り返ってしまい都度目が合っては会釈を返していたため、帰るだけでいつもの倍以上の時間が掛かってしまった。

 紳士的な振る舞いというものを父親や領地の騎士や友人の親族でしか知らないマリーは、ジョバンニの行為が一般的な仕草であるかがわからない。期待しているわけではないが、嫌われたいわけでもない。好かれているのであればもちろん嬉しい。が、「変わり者の生徒」以上を望むわけでは断じてない。「前世のマリー」は推しを恋愛対象として見たことはなく、むしろ「離れて見ている分にはいいけど近くにいるのはちょっとなぁ」と思うことばかりであったはずだ。

 これは恋愛感情ではないのだ。断じて。

 などと。マリーは口に出さずともうんうん唸りながら歩いていた。常であれば通る人などほとんどいない学院の端の端だ。目を瞑って歩いても他人に迷惑をかけることはなかったはずだった。

 この日は例外だった。建物の角を曲がった瞬間、マリーは突然目の前に現れた影に声を上げていた。

「わ、!」

「あら」

 ぶつかる、と思ったときにはぶつかっていた。衝撃は柔らかく、たたらを踏んで転倒するかと思われた体幹は細腕に支えられる。

 思わず見やった先には。ゆったりとしたローブ越しにもわかるすらりと伸びた手足、整った目鼻立ちに天を向く濃いまつ毛、豊かな髪は貴重な二重属性を示す淡い紫。

 目の前にいたのは至上の令嬢ソフィア・アレクサンドラその人だった。

「もッ……うしわけありませんでした!」

 侯爵令嬢、しかも王家の覚えめでたいアレクサンドラ侯爵家の令嬢に体当たりしてしまった。わざとではないとはいえ、マリーの首が飛んでも仕方のない無礼だ。場合によっては親の首ごと飛ぶかもしれない。

 前屈の勢いで頭を下げたマリーの肩に白魚の指先が触れる。

「気にしないで。私も不注意だったもの」

 毎日同じ教室で授業を受けてはいたものの、至近距離で声を聞くのは初めてだった。鈴を転がすような、春を告げる小鳥のような。透き通っていながらも芯のある耳に心地の良い声だった。

「こんな時間にどこへ行ってらしたの?」

「え、と……図書館、に。調べ物を」

「図書館の裏に?」

 ソフィアの声に聞き惚れていたマリーは我に帰った。

 そう。マリーは図書館ではなく図書館の裏手から出てきたところでソフィアと行き合った。図書館に用事があったのなら、図書館から出てこなければおかしい。


 ジョバンニの滞在する旧図書館は、現在使われている図書館の裏にある。老朽化と蔵書の増加を理由に新しく建てられた図書館までは、きちんと舗装されたレンガ道が続いている。図書館の裏にはこんもりとした広葉樹が立ち並び、そこにあることを知らなければ旧図書館にたどり着くことはできないだろう。

 ソフィアには、まだジョバンニの存在を知られたくない。マリーの直感はそう告げている。

 ソフィアはおそらくマリーと同じ「前世もち」かそれに近い存在だ。この世界がゲームの世界であることに気付いている可能性が高く、またストーリー通りに進んでいないことにも気付いているだろう。

 ストーリーを始める鍵がジョバンニであるかを知っているかは──マリーにはわからない。闇の精霊王の召喚を成す誰かの存在がゲームの始まりであるのは、ゲームを見ればわかる。しかしそれがジョバンニ・イルモーブという名前であることは設定資料集などを読み込まなければわからないはずだ。ソフィアがジョバンニに接触している節がないところを鑑みれば、「ジョバンニを知らない」と思っていいのかもしれない。

 ソフィアがこの世界で何を成したいのか。それがわからない以上、ソフィアがマリーと敵対するか否かは判断できない。目的のためにゲームのストーリーを始めなければならないのであれば、マリーは全力で抗わなければならない。協力関係になれるのであれば心強いことこの上ない存在ではあるのだが。敵対の可能性が少なくない今、余計な情報は与えたくない。


「そのあの調べ物が終わったので、ちょっと運動しようかなーっと思いまして! と、図書館の周りをぐるっと散歩していたところなんです」

「あらまあ。こんなに暗くて湿っぽいところを?」

「えーっと、私その方が落ち着くんです! 土属性なので!」

 どうにか納得してもらおうと言葉を重ねる。マリーは前世から嘘や誤魔化しが苦手だ。かろうじて笑みを浮かべてはいるが、口元が引き攣ってしまうのは止められない。

 貴族の社交といえば腹の探り合いや駆け引きが日常茶飯事の魔境だ。将来父親から男爵位を譲り受ける身としては、もう少し腹芸の類も学ばなければ。

 内心で冷や汗を滝のように流すマリーへ、ソフィアは小首を傾げ微笑んだ。

「うふふ。そういうことにしておいてあげる」

「そ……ういうこと、なんです」

 年ごろの少女らしく、異性との相引きだとかと勘違いしてくれていればいいのだが。

 ソフィアのおっとりとした笑みが、何かを企んでいるように見え空恐ろしい。この恐怖感が自身の焦りから来るものだとは理解しているが、怖いものは怖い。

 タイミングよく図書館から出てきた少女がソフィアへ駆け寄り、ソフィアが彼女へ気を取られた隙に。

「それでは、私はこれで失礼します!」

 おさげ髪を膝に叩きつける勢いで頭を下げ、マリーはソフィアの脇をすり抜けた。まだ何か聞きたそうな視線を感じてはいたが、マリーに話を誤魔化し続ける余裕はなかった。

 教師に見られれば「はしたない」とたしなめられそうな速歩で日の暮れた外廊下を抜ける。エメとアディはもう寮へ帰っただろうか。

 マリーは寮暮らしで、ソフィアは侯爵家のタウンハウスから通っている。まさか寮まで追いかけてはこないだろう。ここで離れてしまえば一旦落ち着ける。

 明日からの学院生活に若干の不安はあれど、エメやアディの援護があれば今日のことももっと上手く誤魔化せるだろう。

 学院でのソフィアは伯爵家の令嬢やアレクサンドラ侯爵家と縁故のある子爵家の令嬢と行動している。マリーから近付かなければ、きっと深く関わることはない。

 だからきっと大丈夫。

 一抹の不安は拭えきれないままではあったが、寮の玄関口でエメとアディに合流してからのマリーは不安を忘れ去っていた。

 寮生活は時間との勝負なのだ。食堂での夕食と浴場での入浴を済ませながらおしゃべりに興じていれば、消灯はすぐだ。教科書や筆記具の点検を済ませ、ベッドに入ればあっさりと眠気はやってくる。

 そうして迎えた翌朝、マリーはすっかり元気になっていた。楽観的すぎる、とも言われるが、前向きであるのはマリーの長所である。


 そんなマリーの下へソフィアからお茶会のお誘いが来たのは、この日の夜のことだった。

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