第5話

 学院の授業は午後の早い時間に終わる。そこからは寮の門限である夕刻まで自由時間となり、自習するも帰宅するも生徒の自由となる。

 この学院の特色として、この自由時間に行われる特別講義がある。魔法科、騎士科、政治経済科でそれぞれ行われる特別講義には、科を越えての受講が許されている。少しだけでも魔法の才がある騎士科の者が身体強化を学ぶため魔法科の講義を受けたり、将来領地の経営をせねばならない魔法科の者が政治経済科の講義を受けたりすることが多い。

 エスメラルダ──エメは自身が連れ込んだ愛馬のこともあり、毎日のこの時間を騎士科の馬術講義を受けるのに使っているらしい。見学は自由であるので、今朝の誘いは講義を見にこないかとのことだったのだ。

 アドリアーナ──アディはというと、エメの馬術を見学する傍ら、日によって様々な講義を見学したり受けたりしているらしい。シグラス男爵家の末娘で家を継ぐのは一番上の姉と決まっており、自由な気風の両親から強制されていることもない。やりたいことを見つけるために一生懸命悩んでいるところ、とはアディ本人の言だ。

 ローズマリー──マリーはと言うと、本来であれば将来オリーブ男爵家を継ぐことが決まっているゆえ、政治経済科で領地経営の講義を受けるのが妥当であるだろう。

 それを重々承知の上で、マリーは今日も旧図書館を訪れていた。


「そういうわけで、水の神殿の見習いの方とお友達になったんです」

「そうか」

 午後の強い日差しは重く茂る梢に遮られ、旧図書館の前庭に優しく落ちている。水の気配が多い空気は森の奥から緩やかに漂い、土と親しいマリーにとっては心地よい空間となっていた。

 授業を終えたマリーが訪れた時、ジョバンニはいつも通り旧図書館の玄関脇テラスに出されたテーブルに掛けていた。その前には魔物由来のものであろう、爪やら牙やら魔石やらの各種素材が並べられていた。

 ジョバンニ曰く、王都近郊の街道沿いに生息する魔物の討伐依頼の成果だそうだ。


 魔物とは「魔法を使う生き物」の総称である。人間に害をなすものなさないもの、家畜化されたもの野生のもの、獣に近いものから意思の疎通ができるものまで多岐に及ぶ。ちなみに大きく括れば魔法使いも魔物の一種であるのだが、学者以外には馴染みのない概念だ。

 魔物はその肉から皮から血の一滴まで利用価値のある生き物だ。もちろん、価値の高い素材であればそれだけ討伐難易度が高い魔物のものである。

 この世界にも冒険者という概念と冒険者ギルドというものは存在する。魔物の素材は主に冒険者ギルドから魔法道具工房や薬師へ卸される。

 ジョバンニは魔法学院に籍を置くと同時に、王都の冒険者ギルドに所属する冒険者でもある。


 魔法学院でのジョバンニの立場である「特別研究員」には学院側から給与も研究費も出されない。学院の施設利用や資料閲覧に許可が要らないというだけの、職業とは言い切れない名ばかりの存在だ。通常は実家からの援助がある貴族の子女が就く、道楽に近い職だ。

 イルモーブ侯爵家から疎まれているジョバンニにはもちろん支援は望むべくもない。そもそも斜陽も斜陽である上に当主が放蕩の限りを尽くすイルモーブ家にそんな余裕はないだろう。

 ゆえに、ジョバンニは自身の生活費と研究費を自分自身で捻出せねばならなかった。稀有な闇属性と溢れんばかりの魔力でジョバンニは凄腕の冒険者となり、魔物を狩っていたのだ。


 初めてそれを聞いた時のマリーはジョバンニを尊敬し、また同時に哀れんだ。


 ジョバンニを尊敬するマリーは「前世のマリー」だ。自身の持つ闇魔法を研究する傍ら、必要な費用を己の力のみで稼いでみせる姿勢に彼の熱意を改めて感じ取った。それと同時、誰ともパーティを組まず一人で数多の魔物を狩ってきたというその腕前に感服したのだ。

 ゲームの中のジョバンニは、序盤でラスボスに取って代わられるただのモブだ。「今の」ジョバンニはラスボスであるところの闇の精霊王の召喚を成していない。ラスボスの片鱗があるはずもないのに、たった一人で魔物狩りを──それもいわゆる雑魚ではない、爪や鱗で決して安くはない研究費とジョバンニ自身の生活を賄える値が付けられる上位種の討伐を、日帰りでこなしてしまう。一体彼のどこが「序盤にいるモブ」なのだろうか。

 他方、ジョバンニを哀れんだマリーは「今世のマリー」だ。この世界では貴族が冒険者になることは稀だ。そもそも冒険者とはどこの街にも籍を持たない流れ者。ギルドに所属し、危険な仕事を請け負うことでようやく一時の居住権を得る、貴族とは真逆の存在だ。

 貴族が魔物を狩るのは己の領地や領民を守るためであり、積極的に魔物を狩りその素材を売って糊口を凌ぐ行為は卑しいものとされている。地方の痩せた土地を領地とする下位貴族ならまだしも、高位の貴族であればその考えは強く、領地で狩った魔物の素材は余程のものでない限りその地域に暮らす住民に下げ渡されるのが慣例だ。

 貴族が冒険者としてギルドへ所属するのは、貴族としての体裁を保てないほどに没落したか、婿入りも領地財産の分与も望めない第二子や第三子であるか、もしくはよっぽどの変わり者の物好きであるか、だ。

 没落気味であるとはいえ、元は王族の血を引く侯爵家だ。ジョバンニが冒険者に身をやつすまでに相当な葛藤があったのではないか。

 マリーはそうジョバンニを労ったのだが、当のジョバンニはこともなげな様子であった。

「魔物も強いものは目に見える魔法を使うだろう? 魔物の使う魔法に何か闇魔法に纏わるヒントがないかと思ってね。

 それに魔物の凶暴化は闇の精霊のせいだと言われているが、裏付けの研究がなされていない。ならそもそも闇の精霊が原因ではないんじゃないかと思って。

 魔物自体の研究は多いが、魔物の凶暴化についての研究というのは数が少なくて……」

 ジョバンニは自身の境遇よりも闇魔法の研究の方が大事であるようだった。


 授業後の時間を、マリーはほとんど毎日ジョバンニの下で過ごしている。

「闇魔法を教えてほしい」とマリーが願った通り、ジョバンニはマリーへ自身が知る闇魔法についてを望むだけ教えてくれた。

 とはいえ、マリーに闇魔法は扱えない。ほとんどジョバンニが扱う魔法を見せてもらうだけに留まった。

 ジョバンニが使う闇魔法は多彩だった。

「思うに、魔法とは想像力だと僕は考えている」

 初めて実際の闇魔法を見せてくれた時、ジョバンニは喪服にも見える黒の上着を着崩しもせず、旧図書館の前庭に立っていた。その姿勢は何の気兼ねも力みもなく、誰かを待つようにもただ春の終わりの気持ちの良い陽気を楽しんでいるようにも見えた。

 ジョバンニが腕を振ると、彼の足元に落ちていた影が伸びた。まるでそれ自身が生き物であるかのように、影は質量を持った触腕となって素早く伸び、ジョバンニの腕の動きに合わせて踊った。

 影の触腕は鋭く、一閃で太い枝を切り落とした。ジョバンニ曰く、ある程度であれば木の幹ですら一太刀にでき、刺突の威力は騎士の胸当てですら貫くらしい。

 また影の触腕は繊細で、伸びた先にある花を散らすことなく摘み取り回収することもできた。

 ジョバンニは主に影を手の延長として使役していたが、他にも広げて壁として使ったり、固めて踏み台として使ったりもできると言った。その鋭さや硬さはジョバンニの意思次第で、ジョバンニの影の濃さや大きさには影響を受けないのだそうだ。曰く、「他の影を吸い取って使っている」らしい。

 ジョバンニの影は変幻自在だ。

「闇魔法についての資料はほとんど無い。だから僕はできることを手探りで見つけていったんだ」

 ほとんどの魔法使いは魔法を親や教師から学ぶ。それらの魔法は親や教師が彼らの親や教師から学んだ、体系立てて伝えられてきたものだ。魔法が新しく創造されることは少なく、新しい魔法が後世に伝わることはもっと稀だ。

 魔法使いは、先達が扱う魔法以外を知らない。それ以外はできない、と思い込んでいる節さえある。今ある魔法でこの世界は回っているのだ。創造の必要も想像の余地もないのだ。

 闇魔法は違う。先達はなく、体系立てられた魔法は喪失している。ジョバンニは自由に、それこそなんの制約もなく闇魔法を「想像」した。そうしてできたのが、影を自在に扱うという他属性にはない発想だ。

 それと同時、ジョバンニは影に「沈む」ことができるようになったのだそうだ。

 文字通りジョバンニが影に「沈んだ」時、マリーは大慌てでジョバンニが立っていたはずの地面を叩いた。

「僕が他の属性の魔法について学んだのは学院に入学してからだ。驚いたよ、あんまりにもできることが少なくて」

 影に沈んだジョバンニは、マリーの真後ろ──旧図書館の中から現れた。言うなれば瞬間移動だ。そんな魔法を見たのが初めてだったマリーは、驚きのあまり頭のてっぺんから悲鳴をあげ、叩いていた地面にへたり込んでしまった。

 ジョバンニはひどく申し訳なさそうな顔をしながら、マリーを影の触腕でもって立たせてくれた。

 ジョバンニの瞬間移動は、影から影へ移動する魔法であるらしい。移動先は「ジョバンニが知る場所にある影」であればどこでも良く、影の大きさや濃さに条件は無い。

 それでもってジョバンニは学院から王都の冒険者ギルド、はたまた王都の外にまで一瞬で移動しているらしい。王都の警備を担う者たちが聞けば泡を食ってジョバンニの魔法を禁止しそうだが、今のところそういった話は来ていないのだとか。

 誰しもが使えれば大問題だが、今のところは闇魔法使いにしか使えない魔法だ。翻ってこの瞬間移動はジョバンニにしか使えない。

「とはいえ、僕の闇魔法は魔物狩りにしか使えないのだけどね」

 そんなことはないと思えども、その時のマリーはただただ「闇魔法ってすごい」としか言えなかった。


 マリーは土属性の魔法使いだ。土の精霊と親しむようになって以来、同じ土魔法使いの父から魔法を教わってきた。

 マリー──ローズマリー・オリーブの生家であるオリーブ男爵領は農業が盛んだ。その姓の通り、オリーブとその加工品を主産業としている。

 土地を治める貴族の仕事は土地を魔物やならず者から守ること。とはいえ、今の時代にそうそう平民の手に負えない魔物や侵略者が現れるものではない。

 ゆえに、マリーが父から手ほどきを受けた土魔法は、土地を耕したり造成したりといった非戦闘用のものばかりだった。そういった生活に根ざした魔法は、それなりに力のある平民も扱っている。ただ、平民が使う魔法は規模が小さい。土を耕すにしても、手でやるよりもまあ早く、牛馬と同じか少し劣るかくらいの規模だ。

 魔法学院へ入学できるマリーのそれは、もっと大規模なものだ。牛馬が一日がかりで耕す土地を、それこそ瞬く間に耕しきってしまう。開墾前の土地に埋まった石ころを一息に掘り出し、居座った大岩を手も触れずに退けられる。

 使いようによっては、そういった魔法も一瞬で落とし穴を作ったりだとか、壁を作って攻撃を凌いだりだとかに使えなくもない。

 しかしとにかく地味だ。前世の記憶が蘇る前から、マリーは自身の扱う魔法を地味だと嘆いていた。母や妹の扱う水属性の魔法の方が良い、と幼い時分に溢した覚えがある。

「地味だけど、大事な魔法だよ」

 そんなマリーを父は幾度も諭した。その時の、眉を下げた困ったような笑顔をマリーは覚えている。

「私たちがこうやってみんなのところを回って、土地をきれいにするから、みんなが効率よく作物を育てられるんだよ」

 魔法学院へ入学する以前、父と共に領地を回っていた馬車の中で、マリーは何度もその言葉を聞き、優しく頭を撫でられた。


 同じことをジョバンニは言った。

「地味だというのは、無駄がないということ。それに必要な魔法であるからこそ、きみの魔法は後世にまで伝わったんだ。真に必要とされていなければ、その魔法はきっと途絶えている」

 マリーがジョバンニの闇魔法を見た直後、自身の土魔法が地味だと腐した時のことだった。

「すまない。確かに僕は他属性はできることが少ないと言ったが、だからと言って劣っていると言いたいのではない。

 僕は効率よく魔物を狩れるが、僕の魔法ではきみのように土地を耕せない。今の時代、どちらの魔法が有用かといえばきみの方だろう。

 きみの家の領民はきみの存在に感謝しているだろう。

 誇るといい。きみはきみの土地になくてはならない魔法使いだ」

 その時のジョバンニは、癖の強い前髪の間からまっすぐにマリーを見下ろし、闇色の瞳に真摯な光を灯していた。


 前世のマリーがジョバンニに抱いていたのは、どうして彼は救われなかったのかという憐憫交じりの好意だった。そもそもの始まりが「推し声優のデビュー作キャラ」であるというだけで、そこにジョバンニ当人の人格はなかった。

 今世のマリーがジョバンニに抱いていたのは純粋な尊敬だ。闇魔法という失われた魔法を、たった一人で誰に認められずとも求め続けたその姿勢に対してのもので、やはりそこにジョバンニ当人の人格はなかった。

 あらためてジョバンニの為人を知った今、マリーの中に生まれたのは。

 ただ、彼に幸せであってほしいという祈りにも似た好意だった。

 ひたむきで、朴訥として、高位の貴族でありながら貴族らしい肥大化した欲や慢心は無く、あるのは自身の魔法に対する小さな矜持だけ。

 ジョバンニを知って、彼に報われてほしいと願わずにいられる人はいないだろう。 それが恋であるかはマリーにはわからない。前世でも恋は物語でしか知らなかったし、今世はまだ十五年しか経っていない。

 ただ。マリー──ローズマリー・オリーブは、学生生活のわずかな自由時間の全てを彼に捧げても良いと思う程度には、ジョバンニを大切に思っていた。


「魔力循環の授業か。懐かしいな」

「先輩の時にもありましたか?」

「ああ……あったはあったが、僕が闇属性だと知られていたから。相手は教師だったな」

「あ……」

 マリーは気まずさを覚えるが、ジョバンニはまるで昨日の天気を思い出すかのように気軽な風であった。

 マリーの脳裏をよぎったのは、つい先刻の授業時間。教師の背後で肩を丸めたシズクの姿だ。マリー自身の記憶の片隅にもある寄る辺のない心細さ。

「や、ってみますか? 今」

「ん?」

 咄嗟にマリーが差し出してしまった両の手を見下ろし、ジョバンニはマリーの目を見た。ジョバンニはマリーの問いに答える前にいつもマリーの目を見ていた。月のない夜の空を思わせる深い黒の瞳に見つめられるたび、マリーはどうにも尻の座りが悪いような気恥ずかしさを覚えていた。とはいえ目を逸らすのは失礼であろうし、ジョバンニに他意はないだろうと思い、その理由を尋ねたことはない。

 ふ、と。ジョバンニは吐息を漏らした。その口元がわずかに弧を描いているように見え、笑ったのだろうか、とマリーは思う。

「ああ。頼む」

「はい!」

 白い、というよりかはいっそ青白い肌を晒した手の甲がマリーの手のひらを覆う。長い指に乗る短い爪は色が薄く、形は貝殻めいて整っているものの所々に欠けやささくれが目立っていた。触れた手のひらと指の皮膚は一部が固く、働く人の手だ、とマリーは察する。

 触れた瞬間はひやりと冷たかった手が、じわりと温もる。優しい熱を感じると同時、圧倒的な魔力の流れがマリーの右手に走った。

「わ」

「すまない。平気か?」

「ちょっとびっくりしただけです」

 あまりにも膨大な魔力の流れはマリーの肌に静電気が走ったような痛みをもたらしたが、そこからは穏やかだった。故郷の川を思わせる、底が深くゆったりとした力の流れ。受け取ったそれを反対側の手から返す。一連の流れは淀みなく、魔力が通る指先から心臓までもが芯から温まるようだった。

「上手いな」

「そうですか?」

「ああ。量の乱れも引っかかりもない。安定してこの量を流せるのは中々できることではない」

「昔から、友達とやっていたので」

 授業では聞けなかった褒め言葉を正面から渡され、マリーは面映くなった。ジョバンニの視線は相変わらず感じるが顔を上げていられない。

 俯いたマリーの視界には白皙の手がある。小さな頃から外を走り回り、土と親しんできたマリーにはない透けるような色だ。

 ふとマリーは気付く。マリーは生まれてこの方親族以外の肌に触れたことがない。友人の兄に遊んでもらったことはあれど、記憶が霞むほど幼い頃の話だ。

 マリーに婚約者はまだいない。とはいえ「そろそろいい人を……」と親や周囲が言い始める頃合いである。もちろん、すでに婚約者がいる者もちらほらと出てくる年だ。

 これはまずいのではないだろうか。マリー自身は闇魔法を教わっている立場であるし、ジョバンニだってマリーを「闇魔法を教わりたがる変わり者」くらいにしか思っていないだろう。事実、今だってなんの衒いもなくマリーの手に手を重ねている。それこそ教師が生徒にするように。

 しかし外から見てそれが通じるかは別だ。何も知らない者が見れば、今の状況は年ごろの男女が両手を取り合っている親げな様子に見えるだろう。──エスメラルダやアドリアーナに見られたら、後で何を囃し立てられるか。

 せっかくジョバンニがテーブルを外に出し、密室で二人きりなどという状況にならないよう気を利かせてくれているのに、こんなところを見られたら台無しだ。

 内心で冷や汗をかきまくっているマリーの心中を察したか、ジョバンニはごく自然に手を離した。手に触れる空気が冷たく感じられ、マリーはジョバンニの手が離れるのを惜しいと思ってしまう自身の心境が不思議になった。先ほどまでの焦りはどこへやら。もっと触れていたかった、などと不埒な思いが芽生えてしまう。

 それは色恋の甘やかな感情には思えない。純粋にその手の温度を心地よく感じる、魔力に惹かれる精霊のようなもっと根源的な欲求に思えた。

「お茶にしようか」

「手伝います!」

 どこからともなく取り出した茶器をジョバンニは影の触腕でテーブルへ並べる。曰く、それらは影の中にしまっているらしい。神出鬼没な彼にも彼の持ち物にも慣れてしまったマリーは、頬の熱を誤魔化しながらティーカップを手に取った。

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