第43話

 玄関の扉を開くと、凛の白いキャリーケースが目に入った。帰ってくるのは今日じゃなかったっけ、と思いながら、ただいま、と声をかける。寝室の扉がゆっくりと開いて、目を真っ赤にした凛が顔を出した。



「だいや?」



「ただいま。凛、帰ってくるの今日じゃなかったの?」



「新幹線、間に合ったからって、メッセージ……」



 だいやはよろよろと、私の方へ歩いてくる。徹夜でもしたのか、目の下の隈がひどかった。



「ごめん、昨日スマホ水没させて……午前中に修理出しに行ったついでに実家泊まってたの。あ、ライブはちゃんと見たよ! すごかった、おつかれさま」



 私の話を聞いているのかいないのか、彼女は虚ろな目をしたまま、私の存在を確認するように手を握る。いつも温かい彼女の指先が冷たい。



「出てった、とかじゃ、ない?」



「なんで凛のライブの日に出て行くの。違うよ」



 私がそう言った瞬間に凛はぶわりと涙をあふれさせた。ぎょっとしている私にしがみついてくる。体を震わせて泣いている凛の頭をそっと撫でた、



「心配した……」



 私の胸元に顔うずめながら、凛はそうつぶやく。



「ごめん、そうだよね、連絡なかったら心配するよね、ごめん」



 泣きじゃくる赤子をあやすように、ぽんぽんと彼女の背を叩く。凛は泣きながら怒っているような、でも私が帰ってきたことには安心しているような、言葉になっていない独り言をつぶやいて、私に抱きついたまま泣いていた。


 私は凛にもういらないと言われることを心配していたけれど、まさか凛が、私が出て行くことにこんなに怯えているとは思わなかった。心配をかけたことを申し訳なく思いながらも、まだ求められていることを嬉しく思う。



「あのさ、凛。凛が帰ってきたら言いたいことがあったんだけど」



 凛が落ち着いてきたタイミングで、そう話し出す。彼女は泣き顔を見せたくないのか顔をあげなかったけれど、話の続きを促しているようだった。



「就職がね、決まりました」



 そう言うと、彼女はようやく顔を上げてくれた。涙で顔がぐちゃぐちゃになっている。目の下を袖でそっと拭ってやった。



「やっぱりさ、ちゃんと胸張って凛と一緒にいたいから。ギリギリだったけどね」



 凛はぽかんとしていたけれど、その顔に少しずつ笑顔が戻った。



「ほんと? おめでとう、良かったね、だいや」



「ありがとう」



 ずっと、凛に対して劣等感を感じていた。就職したからといってそれが消えるわけじゃないけれど、でも、彼女にだけ縋り付いて生きていたくはない。ちゃんと自立して、そのうえで凛と一緒にいたい。



「これからも一緒にいてくれるの?」



 まだぐずぐずと鼻をすすりながら、凛がそう聞く。それはこっちのセリフなのに。



「凛が、一緒にいたいって思ってくれるなら」



「一緒にいてよ」



 すぐに答えが返ってきて、思わず笑ってしまう。ずっとすれ違っていた2人が、ようやく同じ場所に立っているような気がした。



「だいや」



「なに?」



「だいすき」



 照れ隠しなのか、俯いて凛はそう言う。愛おしくなって、思わず彼女を抱きしめた。



「私も、だいすき」



「もうどこにも行かないで」



「どこにも行かないよ」



 私の腕の中で、凛が頷く。なんの後ろめたさもなく、彼女の隣に居られることが嬉しかった。本当はずっと後ろめたさなんて感じる必要はなかったのだけれど、あのときの暗い感情も、今凛と一緒にいるために必要なものだったのだと思う。



「ケーキでも買いに行こっか」



「なに? 凛のライブ成功祝い?」



「違うよ、だいやの就職祝い」



 もう、と凛が口を尖らせる。そんなもの、凛からのおめでとうの言葉で十分なのに。



「じゃあ、どっちものお祝い」



「うん……ちょっと寝てからでいい?」



 自分から提案したくせに、凛は眠そうに目を擦って、寝室へと私を引っ張る。本当に彼女は自由で、相変わらず私は振り回されっぱなしだ。



「いいよ」



「だいやも一緒に寝て」



「わかったわかった」



 寝室は暖房もついていなくて、ベッドの上で毛布がぐちゃぐちゃになっていた。リモコンに手を伸ばそうとする私を、凛が布団に引きずり込む。



「暖房付けないと寒いでしょ」



「だいやが暖かいから良いの」



 でも、と言う私を黙らせるように、凛は私に引っ付く。せめて寒くないようにと、毛布を彼女の体にしっかりとかけた。



「おやすみ、だいや」



「おやすみ、凛」



 カーテンの向こうからは日が差し込んでいる。私で暖を取ると言った凛の体温の方が高くて、私も段々と眠りに吸い込まれていった。

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