第32話

 エントランスに辿り着く。ぜえぜえと体を上下させながら、リュックをひっくり返す勢いで彼女の家の鍵を探した。合鍵はもらったままだった。


 インターフォンを押すのもじれったくて、必死に取り出した鍵を差し込んでエレベーターへ向かう。1階まで降りてくるのを待つのも、6階まであがる時間も、やけに長く感じられた。


 凛の家の扉を開けると、玄関先にうずくまっていた黒い塊が顔を上げた。凛だ。最後に見たあの日よりも随分痩せている。ずっと綺麗に染めていた髪も色が抜けて、無造作に伸びていた。



「凛、どうしたの、何があった……」



 私が彼女の前にしゃがみ込むと、言い切る前に凛が私の体にしがみついた。腕を首にぎゅっと回して、子供のように泣いている。



「……凛?」



 しゃくりをあげ続けるだけで凛は何も言ってくれない。落ち着かせるように彼女の背をさすりながら、手のひらに当たる骨の感覚にぞっとした。


 しばらくそのままじっとしていると、凛のすすり泣きが小さくなった。様子を窺っていると、彼女がぽつりと吐き出すように話し始める。



「ずっと、1人だったの。1人で、寂しくて、おかしくなりそうだった」



 震える声を、静かな玄関に溶けて行ってしまいそうな声を、ただじっと聞く。私を抱きしめる彼女の腕に力がこもった。



「ReLiじゃない、私を覚えてくれてる人がどこにもいなくて、怖かった」



 刺されたように、胸がずきんと痛んだ。



「凛のこと、忘れたことなんてないよ……」



 私もぎゅっと凛を抱きしめ返す。数カ月の孤独に耐えてきた、頼りない細い体の輪郭がはっきりとわかる。ここに来たときは冷たかった彼女の体が、少しずつ体温を取り戻していた。



「だいや、もうどこにも行かないで」



 子供のようにそうせがまれて、思わず涙がこぼれた。


 凛の方が遠くへ行ってしまったと、勝手にそう思い込んでいた。けれど、彼女を置いていったのは私だ。


 彼女は1人の方がいい。私たちがいるよりも、1人の方がきっとのびのびと活動できる。そんな言い訳をして、彼女の名前を一緒に背負う重圧を捨てたのだ。全部凛に押し付けて。


 不安だっただろう。何も知らない、新しい場所で1人で歌い続けるのは。この静かな部屋で、自分の歌と向き合い続けるのは。


 凛をここまで弱らせてしまったのは私だ。私を頼りにしてくれて、夢まで与えてくれたのに、あんなにあっさり捨てられるなんて、どうかしている。全部私のせいだ。



「もう、どこにも行かないよ」



 そう言うと、ほっとしたように凛の体がゆるんだ。しばらくすると腕の中から寝息が聞こえてくる。背中に背負ったままのリュックサックを置いて、彼女を抱きかかえた。貧弱な私でも抱き上げられるぐらい、軽い体だった。


 寝室に入り、ベッドに彼女を横たえる。相変わらずこの部屋はがらんとしていた。すやすやと眠る凛の体に毛布をかけて、寝室を出る。


 リビングに入る。荒れているかとも思ったが、荒れる程のものがそもそもこの部屋にはなかった。最後に見たときから変わっていない部屋。けれどどこか、殺伐としている。


 冷蔵庫の中には、やっぱり何もなかった。水の半分入ったペットボトルがあるだけで、生活感が何もない。しばらく何も食べていなかったりするんだろうか。やつれた彼女の体を思い出して胃が痛んだ。



「凛、買い物行ってくるから」



 寝室に顔を出して、凛にそう言う。深い眠りについているのか、返事どころか身じろぎすらしない彼女に不安を覚えて、傍らに跪いた。静かな寝息が聞こえる。



「……行ってきます」



 玄関に置きっぱなしだったリュックを背負って家を出る。いつの間に夕方になったのか、空が燃えるように赤かった。

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