第18話

 それから1週間、凛の期待に応えたくて必死で絵を描いたけれど、やはりどうしようもない絵らしき何かができあがるばかりだった。だんだんと自分が何を描いているのかすらわからなくなって、ついにはペンを持っただけで涙が出た。タブレット用のものだけではなく、ボールペンでもダメだった。何も描けなかった。


 描けないことが申し訳なくて、学内では凛のことも避けていた。できるだけ授業の始まる直前に教室に入ったり、終わった瞬間に席を立ったりと、彼女と顔を合わせないように必死だった。けれど、凛はそんな私に気が付いてしまう。彼女から1番遠い席に座った私を、誰よりも早く立ち上がった私を、じっと見ている。


 ある日の5限終わり、いつの間にか私の隣に立っていた凛に腕をつかまれた。逃げようとしても無駄だ、彼女はまっすぐ、私を見下ろしている。



「だいやに、会わせたい人がいるの」



 私の腕をつかんだまま、凛はそう言った。怒られると思っていた私は、動揺しながらも立ち上がる。



「……着いてきてくれるの?」



 さっきまで鋭い眼光で私を見ていた凛の目が、突然不安そうな子供のようになって、私の方が驚いた。



「うん、行くよ」



 少し迷いながらそう返事をすると、凛はふにゃりと目じりを下げて、強く握っていた手をゆるめた。それから何かをためらうように私の腕をなぞって、彼女の左手は私の掌の中におさまった。


 手をつないだまま、教室を出る。私は人の目が気になったけれど、自分のことで必死な大学生たちは誰もこちらを見てはいなかった。



「だいやに、嫌われちゃったかと思った」



 喧騒の中でかき消されそうな凛の声を、私の耳が拾い上げる。



「そんなわけ、ないじゃん」



 私が凛のことを嫌いになれるわけがない。凛にもReLiにも救われているのに、私がどうして嫌いになったなんて思ったのだろう。



「じゃあ、なんでずっと話してくれなかったの」



 ぐずるような声をして、凛は口を尖らせる。



「ごめん。何も描けないの、申し訳なくて」



「だいやのイラスト目的で一緒にいるわけじゃないって、私言ったのに」



 そう言われ、私は言葉を詰まらせた。あの日の凛は酔っていたから、あのとき言ったことを覚えていないのだと思っていた。



「ひどい、だいやのばか」



「ご、ごめん」



 凛はぎゅっと私の左手を握っている手に力を籠める。いて、と顔を歪ませると、愉快そうに笑った。



「もうしないなら許してあげる」



「もうしない、ごめんなさい」



 素直に頭を下げると、凛は満足そうに笑った。どうして私にそこまで構うの、という言葉が喉まで出かかって、でもきっとそんなことを言ったらまた怒られるだろうから口を噤む。イラストを抜きにしたら凛が私と一緒にいる理由がわからない、と言ったらこの手を振り払われるだろうか。


 凛はそのまま黙って私の手を引き、辿り着いたのはいつかのカフェだった。時折高橋くんとの打ち合わせに使う場所とはいえ、まだやっぱり慣れない。凛の後に続いて店内に入ると、いつもの席に高橋くんと、もう1人女の子が座っている。


 その子はこちらに気が付くと、高橋くんの方と目を合わせながら何やらはしゃいでいた。肩くらいまである紫色の髪が揺れている。まさに芸術学部の子、という感じだった。あの子が、凛の言う紹介したい子、だろうか。



「お待たせ、ごめんね」



 凛と並んで空いていた方の席に座る。私たちが着席すると、女の子はしゃんと背を伸ばした。その表情には緊張の色が見える。高橋くんと目が合って、彼は軽くうなずくと口を開いた。



「この子は俺の後輩の笠井愛衣、1年生」



 高橋くんの紹介を受けた笠井さんは深く頭を下げる。見た目によらず、真面目な子なのだろうか。



「初めまして、笠井愛衣です! よろしくお願いします!」



 私と、それから凛も彼女に向かって頭を下げる。どうやら凛とも初対面らしい。



「カバーの動画のイラスト描いてくれる人探してるときに、蒼介がいい後輩がいるって教えてくれたの」



 凛は私に向けてそう付け足した。一瞬心臓がぎゅっと掴まれたようになったのが、誰にもバレていないといい。



「今日、描いてきてくれたんだよな?」



「はい!」



 笠井さんは明るい声で返事をして、椅子にかけてあったリュックサックからタブレットを取り出した。私が使っているものよりも、新しいモデルだ。緊張しているのか、少し震えている手で画面を操作している。



「あの……これです」



 恐る恐る見せてくれた画面の中に映っていたのは、私のよりも色鮮やかで、私のよりもずっと綺麗なイラストだった。

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