第16話
凛の突拍子もない発言は今更だ。それはこの1年でよくわかっている。むしろこれくらいなら可愛い方だ。それでも今はそんな気分になれない。じっと見つめてくる彼女の視線から、逃れるように顔を背ける。
「でも、何の準備もしてないし」
「私の服着ればいいじゃん、サイズ一緒でしょ。明日休みだし、すっぴんで帰れないなら私の化粧品使えばいいし。はい決定」
凛が言い出したら聞かないのも、この1年でわかったことだ。私は諦めて彼女の言葉に頷き、なんとか1日の授業をやり過ごす。最後の授業が終わった瞬間に彼女は私の腕をつかんで、逃げないように凛の家の方向へと引っ張って行かれた。
「そんなことしなくても逃げないよ」
「わかんないよ、だいやのことだから急にいなくなるかもしれない」
私の腕をつかんでいた手は、いつの間にか私の手に絡められて恋人つなぎになっていた。凛はこういうスキンシップが多い。同性のはずなのに、思わずどきっとしてしまう。
帰り道の途中にあるコンビニに立ち寄り、最低限必要な下着だけ放り込んだ。凛はそれを見ながら別に私の貸すのに、と口を尖らせていたが、聞こえないふりをした。凛は薄っぺらい下着だけが入ったかごにお菓子やらカップ麺やらを放り込む。
「ね、だいやってもうお酒飲めるよね?」
アルコールの並んだ棚の前に立って、彼女がそうたずねる。私は2週間前に誕生日を迎えて20歳になったばかりだった。頷くと、凛は慣れた手つきでひょいと缶を手に取ってかごに入れる。凛だって1か月前に20歳になったばかりだろうに、どうしてその光景が当たり前のように見えるのだろう。
「でも私、まだお酒飲んだことない……」
そう言うと、凛はなぜだか嬉しそうに笑った。
「じゃあ、初めて一緒に飲む相手が私なんだ」
凛はご機嫌に、私のためのお酒を選んでいる。少し悩んで彼女が手にしたのは、私でも知っている、ラベルにフルーツのイラストが描かれたチューハイだった。
「ほかに買うものない?」
そう確認されてまたうなずくと、凛は中身の増えたカゴを持ってレジに向かった。気だるそうな店員が、袋に物を入れていく。お金を出そうと思ったのに、凛が年齢確認ボタンを押した流れで電子決済をしてしまったから、私の財布が行き場を失った。
「ごめん、後で払うから」
「いらなーい」
凛はあっけらかんと言うが、さすがにそんなわけにはいかない。後でこっそりでも家に置いて行ってやろう。レシートは捨てられたから、表示されていた金額を焼き付けてコンビニを出る。さっきまで西日が差していたのに、いつの間に沈んだのか、外は薄暗かった。
「荷物、持つよ」
細い腕でその荷物を持たせるのは心苦しかったからそう申し出ると、凛は素直に袋を渡した。お酒の缶やらペットボトルやらが入った袋は想像していたよりも重い。袋を左手に持ち替えると、空いた右手にまた凛の手が滑り込んでくる。
マンションまでの道は、もうすっかり覚えてしまった。打ち合わせやらなんやらで、彼女の家に行く機会は増えた。推しの家に通う生活にこんなに慣れてしまっていいのだろうかと、時折不安になる。
エレベーターを降り、凛の後に続いて彼女の家に入る。1年前はあんなに何もなかった部屋には、緑色のソファとローテーブルが増えていた。家に私が来るようになって、座る場所がなくては不便だと思ったらしい。去年の秋ごろ突然凛に好きな色を聞かれて、緑だと答えたらいつの間にかこの色のソファが置かれていた。
自意識過剰なのはわかっている。家具や生活用品に興味のない彼女は自分だと決められなくて、私の意見を参考にしたかっただけだろう。でも、このソファを見るたびに嬉しくなった。
ローテーブルの上に買って来た荷物を置く。冷やさなければならないものだけ取り出して、冷蔵庫を開けた。最初は人の家の冷蔵庫を開けるのに躊躇していたけれど、最近は差し入れなんかを勝手に入れている。凛の家の冷蔵庫は、水とゼリー以外何も入っていなかった。ちゃんと食べているのだろうか。
「ねー、だいや、部屋着これでいい?」
彼女の不摂生を叱ろうとしたとき、そう声をかけられ、諦めて冷蔵庫を閉じる。叱るのは後にしよう。
「なんでもいいよ」
凛が手渡したのは、彼女がよく来ている猫の描かれたピンク色のTシャツと短パンだった。借りていいの?と聞くと、彼女は笑顔で頷く。
「もう着替えておいでよ、楽でしょその方が」
でも、と躊躇っていたらぐいぐいと洗面所の方に背中を押されて、着替えるまで出てきちゃだめ、と扉を閉められた。強引だなあと思いながら、自分では絶対に選ばない色の部屋着に着替える。
きっと彼女なりに励ましてくれているのだ。お気に入りの部屋着を貸してくれたのも、そのうちのひとつかもしれない。昨日の夜から沈みっぱなしだった心が、ほんの少し軽くなったような気がした。
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