第14話 俺はきっと、こんな風に。

 レイン王子の軍勢がモーグ軍を完膚なきまでに撃破したという捷報は、直ちに王都にもたらされた。

 リオット家の屋敷で、ユエナはカディオの父である前リオット卿とともにその報を受け、カディオの帰還を待った。

 だが潰走する敵の追撃戦に移行したレイン軍は、すぐには王都に戻ってこなかった。

 そうこうしているうちに、先に王都に戻ってきたのは自領に逃げていたジャック王子とエルスタッド卿のほうだった。

 レイン王子にモーグ撃破の功績を全て奪われることを恐れた彼らは、モーグが敗れたと聞くや手勢を率いて王都に入り、手際よくさっさと主要施設を押さえてしまった。

 モーグの進撃路となって略奪を受けた街や村の復興もこれからだというのに、王都には早くもきな臭い雰囲気が漂っていた。

「どういうことなのでしょうか」

 ユエナは、前リオット卿に尋ねた。

「ジャック王子の軍勢が王都の門までも押さえているようですが、これではカディオたちは帰ってこられないのではありませぬか」

「うむ、ジャック王子もまさかレイン王子の軍勢といきなり戦ったりすることはないと思うが」

 前リオット卿はすっかり白くなったあごひげを捻る。

「王都に入る前に、武装解除くらいは求めるつもりかもしれぬな。殊勲の兵士たちを相手にそれはなかなかやりづらかろうが」

「ジャック王太子ならやりかねません」

 ユエナは頷く。

「そういうことが無慈悲にできるお方ですから」

 婚約者でもあったユエナは、ジャックの計算高さをよく知っていた。

 この時点では、ユエナはカディオの心配はしていなかった。

 ラダラの村での会戦は大勝利だったと聞いている。副将であるカディオが、まさか安易に最前線で戦うようなことはしなかっただろう。そう考えていた。

 実際にはカディオは最前線どころか敵陣に一番乗りで飛び込み、敵将と大立ち回りまで演じていたのだが。

 続いて王都に流れてきたのは、カディオ・リオット戦死の一報だった。

 レイン軍の副将カディオ・リオットは、敵将デオハンと戦い、奮戦虚しく戦死したのだという。

 前リオット卿は落胆したが、自分のことよりもユエナが抜け殻のようになってしまうのではないかと危惧した。

 しかし、ユエナはきっぱりと言った。

「カディオの遺体を見るまでは、私は信じません」

 カディオは生きている。

 ユエナはそう確信していた。

 だって帰って来るって約束したのだから。

 私を置いて死ぬわけがない。



 レイン王子の軍勢が、王都へ戻ってきた。

 モーグ軍を構成していた各国のならず者たちは、怒りに燃えたファズメリア兵によってそのほとんどが討たれた。

 生き残ったモーグの戦士数人の行方は杳として知れなかったが、彼らはデオハンほどの高名の戦士ではない。一軍を成すほどの力はないだろうと思われた。

 そこまでの始末をつけてから、レイン王子は王都に帰還したのだ。

 だが彼らを出迎えたのは、門の外で武装を解除せよ、というジャック王子からの非情な命令だった。

 モーグ来襲という非常時だからこそ、王太子でもないレイン王子が軍を率いた。だが、もうその危機は去ったのだから、速やかに軍を解散してその指揮権をジャック王子に返納すべし。

 というのが、ジャック王子の見解だった。

 自分達は逃げておいて、殊勲の軍に労いの言葉の一つもないのか。

 あまりに人間味の無いやり方にレイン王子の軍勢は怒りに燃えたが、まさか王都を攻めて同胞同士で戦争を始めるわけにもいかなかった。

 こういうやり口の巧みさでは、ジャック王子はレイン王子よりも一枚も二枚も上手だった。

「やむを得ぬ」

 レイン王子は決断した。

 兵たちも、疲労の極みにある。いまや副将のカディオに相談することも叶わない。

 政務に復帰した父王も、またジャックによって病床に戻されてしまったのだろう。

 モーグの略奪に遭った地域の被害は深刻だ。住民全てがいなくなってしまった村もあると聞く。

 こんなときに王子同士が争っている場合ではない。

「武装を解こう」

 そう決めた時、彼の周囲に控える古参兵の一人が声を上げた。

「王都の方からこっちに騎馬が来るぞ」

「本当だ」

 ほかの兵も声を上げる。

「ジャック王子とエルスタッド卿の使者か」

 レイン王子もそちらを見ると、確かに王都の方角から一騎の騎馬が土煙を上げてこちらに向かってくるところだった。

 だが、騎馬が近付くにつれ、兵たちの間には驚きが広がった。

「女だ」

「女が一人で来るぞ」

 ゆったりとした服をまとっているせいで身体の線は見えないが、それは確かに若い女だった。

 モーグとの激しい戦いと、王都からの理不尽な仕打ちによる興奮と疲労ですっかり殺気立った男たちの中に、若い女が一人で駆けこんでくるのだ。尋常ではない。

 だが、レイン王子は気付いた。

「あれは」

 見覚えがあった。

 あれはジャック王子のかつての婚約者だ。確か、名前は。

「ワイマー家のユエナ嬢ではないか」

「王子、どうしますか」

「射落としますか」

 兵たちに尋ねられ、レイン王子は慌てて「通せ」と言った。

「決して手を出してはならぬ」

 それでも殺気立った男たちに周囲を囲まれながら、その女は怯える様子もなく馬を下りるとレインの元までやってきた。

「お久しゅうございます、レイン王子」

 すでに覚悟を決めた静かな表情で、ユエナはそう挨拶した。

「ユエナ嬢」

 レインは困惑した表情を隠さなかった。

 流罪になったはずの女性が、なぜこんなところに。

「なにゆえ、このようなところに一人で。そなたはジャックのかつての婚約者ではないか」

 カディオが王にユエナの赦免を申し出た時、レイン王子は同席していなかった。それゆえ、彼には彼女がやってきた意味が全く分からなかったのだ。

 しかも。

 レインは己の目を疑っていた。

 この美しさは何だ。

 ジャックの婚約者として王宮にいたときも、彼女は美しかった。

 だが、今はその比ではない。

 内側から輝くような、この美しさはどうしたことだ。

 流罪となってさらに美しくなるなど、聞いたこともない。

 王子を守るように取り囲む兵たちも、ユエナの美しさに気圧されていた。

 だが、レイン王子がジャック王子の婚約者と言ったのを聞いて雰囲気が一変した。

 この女、ジャック王子の婚約者だと。

 ぬけぬけと何をしに来やがった。

 兵たちの怒気が膨れ上がる。

「非常識な振る舞いであることは、承知の上でございます」

 ユエナは、凛とした声で言った。

「けれど、どうしても婚約者の安否を知りたくて、やってまいりました。ジャック王子の軍勢が門を固めているので、お会いできるのはここしかないと思ったのです」

「婚約者」

 レイン王子はますます困惑した顔をした。

「そなたの言う婚約者とは、誰だ」

「カディオ・リオット」

 その名を口にするとき、ユエナは誇らしげに胸を張った。

 自分の婚約者として、カディオの名を答えられることが嬉しかった。第二王子の婚約者であったときよりも、遥かに。

「何だと」

 レイン王子は目を見張った。

「カディオ将軍の」

 そう言って、改めて目の前の美しい女性を見つめる。

「そなたはカディオ将軍の婚約者なのか」

「はい」

 ユエナは頷いた。

「カディオが死んだという情報が王都に流れていますが、私は信じておりません。カディオは今、いずこに」

「こちらです」

 そう叫んだのは、王子ではなかった。先ほどまで殺気を漲らせていた兵士たちだった。

「婚約者様、俺たちのカディオ将軍はこちらです」

 すでに彼らの殺気は霧散していた。

「どけどけ、こちらはカディオ将軍の婚約者様だぞ」

 案内されるままに、ユエナは彼らの間を抜け、そして粗末な木の板の上に寝かされたカディオと対面した。

 モーグたちの木の盾を繋ぎ合わせた即席のベッド。

 その上に横たわるカディオは、血に塗れて目を閉じていた。

「……カディオ」

 ユエナは歩み寄り、ひざまずいた。

「モーグのデオハンと戦ったときの傷が深くて」

 案内してきた古参兵が言った。

「それからずっと目を覚まさねえんです」

「カディオ」

 呼びかけても反応がない。

 カディオは眠っているように見えた。

 ユエナはその頬に触れた。

 冷たい肌。けれど、まだ呼吸がある。生きている。

「カディオ。ばかよ、あなた」

 またこんなに傷ついて。

 それが私の幸せに繋がると信じて、また無茶をしたのでしょう。

 ユエナの目から涙が溢れた。

「あなたという人は、本当に」

 モーグのデオハンですって? どうして副将のあなたが、敵の一番強い戦士と戦っているの。

 どっしりと後ろで構えて指揮を執ればいいじゃない。

 でも、それがカディオだった。ユエナのよく知る、幼い日から変わることのないカディオという男だった。

 分かっている。

 分かってはいるけれど。

「だけど、約束は守ってくれなきゃ許さないわ」

 ユエナはカディオの頬をそっと両手で挟んだ。

「起きて」

 涙声で、ユエナは言った。

 カディオ。起きて。

 私と結ばれる時間よ。

 ユエナはカディオに口づけた。




 意外なほどすんなりと武装解除に応じたレイン王子の軍が、王都に入って来る。

 ジャック王子は完全武装した兵を率いて、広場でレイン王子を待ち構えた。

 広場にはモーグを撃破した英雄たちを一目見ようと多くの市民が集まっていた。

 ジャック王子には、市民たちが見守るこの場所でレイン王子を屈服させ、自分の方が彼よりも上であることをはっきりと示す狙いがあった。

 やがて、レイン王子の一行が近付いてくると、市民たちの歓呼の声が大きくなる。

 ジャック王子は渋い顔でそれを見つめた。

 まあいい。市民どもの見ている前で、レインの指揮権をこちらに返納させてやる。

 そのとき、王子の隣に控えていたエルスタッド卿が、

「あれは」

 と訝しげな声を上げた。

 レイン王子の後ろに、一組の男女が付き従っていた。

 そのうちの一人は副将を務めたカディオ・リオットだ。

 生きていたのか。

 ジャック王子は舌打ちする。

 カディオはデオハンと戦って生死不明、という情報を得てからすぐに、カディオが戦死したという情報を流させたのはジャックだった。

 カディオには求心力がある。さっさと死んだことにして、兵たちがレイン王子側になびくのを防いだのだ。

 続いてカディオの隣の女性に目を向けたジャック王子は、驚きのあまり小さな声を上げた。

 それが自分のかつての婚約者だったからだ。



「よくぞ無事に戻った。大儀であった」

 レイン王子を出迎えたジャック王子は、一通りねぎらいの言葉を述べた後、彼の背後に控えるユエナに目を向けた。

「ところで、ユエナ・ワイマー」

 ジャック王子は言った。

「そなたがなぜここにいる。流刑地のビケから脱走してきたのか」

 ユエナはひどく美しかった。

 厳しい環境のビケにいたにしては、あまりに不自然な美しさだった。

 この場でわざと彼女のことに触れたのにも、無論、ジャック王子らしい理由があった。

 レイン王子は罪人の女を同道していたのだという悪印象を、見ている者に与えるためだ。

「国王様より、赦免をいただきました」

 ユエナは懐からその書面を取り出した。

 それは、カディオの父の前リオット卿が無理を押して国王と謁見し、手に入れてくれた直筆の赦免状だった。

「貴族の身分に復帰しております」

「ふん」

 ジャック王子は鼻を鳴らす。

「戦のどさくさに紛れて、卑劣な真似を。次はレインの婚約者に収まろうという腹か」

「ジャック王子」

 突然に大音声が響いた。

 声の主はカディオだった。

「我が婚約者を侮辱するのはやめていただきたい」

「婚約者?」

 ジャック王子は目を丸くした。

「リオット卿。そなたのか」

「はい」

 カディオは大きく頷く。

「ユエナは、私の婚約者です」

「そうか」

 ジャック王子は嗤った。くだらん。

「まあせいぜい仲良くするといい」

「ありがとうございます」

 そう言った後でカディオは不意に、にやりと笑った。

「それよりもジャック王子。一言、よろしいですかな」

 カディオは、ずい、とレイン王子の前に出た。

 たかが中位貴族のくせに、不遜な態度だった。

 この木っ端貴族が。多少の勲功があったからと、図に乗っているのか。

 ジャックは不快そうに顔を歪めた。

「なんだ」

「モーグの戦士はいかがでしたか」

 そう言ったカディオの笑顔が大きくなった。

「なに」

 その顔を見たジャック王子の顔が引きつった。

 カディオは笑顔のままだ。だが、彼はいまや明らかな殺気を身にまとっていた。

 目の前のカディオは丸腰だというのに、まるで抜き身の刃物を首筋に突き付けられているかのような感覚に、ジャック王子は青ざめた。

 六年間、命を削りながら身に着けたカディオのその殺気は、モーグの戦士たちと比べても遜色のないものだった。

「ひ」

 カディオの笑顔が、先日の戦場でその恐ろしさを深く刻み込まれたモーグたちの姿とかぶった。

 いつの間にかカディオの背後に、古参兵たちが並んでいた。

 彼らはカディオのように笑ってはいなかった。険しい顔で、その殺気を発散させていた。

 完全武装したジャック軍の兵士たちが、丸腰の古参兵に怯えて後ずさる。

「モーグは恐ろしゅうございましたか」

 そう言いながらカディオが一歩前に出た。

 ジャックの背後でどさりと音がした。

 エルスタッド卿が腰を抜かしてへたり込んだ音だった。

「我らが戦ってきた本物のモーグは、あんなものではありませんぞ」

 そう言ってカディオがさらにもう一歩前に出る。

「今、アシュトンと戦っているラスコットなら、たとえ丸腰であろうと」

 カディオは不意に真顔になって、ぱん、と手を叩いた。

 まるで素手で首をねじ切られたような感覚があった。ジャック王子の膝から力が抜けた。

「ひ、ひい」

 ジャック王子は無様に尻もちをついた。

 周囲に立つ兵たちも、古参兵たちの殺気に呑まれて王子を助け起こすこともできない。

 カディオは腰をかがめてジャック王子に顔を近付けた。

「私は、貴族の身分になど別に未練はありません」

 カディオは言った。

「この意味はお分かりでしょう」

 涙目のジャック王子はかくかくと頷いた。

「カディオ将軍」

 レイン王子がカディオの肩に手を置いた。

「もうその辺でよかろう」

「承知しました」

 素直に引き下がるカディオ。

 無様に腰を抜かして立ち上がれないジャック王子と、それを堂々と見下ろすレイン王子。

 どちらが次の王に相応しいか、市民の目には明白だった。




「あの程度の脅しでジャック王子が引き下がるとは思えないけど」

 カディオは言った。

「まあ、多少の牽制にはなったかな」

「ええ、そうね」

 ユエナは頷く。

「簡単には手を出しては来ないと思うわ」

 屋敷へと帰る道。カディオの隣にはユエナがいた。

 まるで幼い日のように、二人は従者も連れずに歩いていた。

 俺は今日、ユエナと二人で家に帰る。

 カディオがそう宣言したからだ。


 この国は、まだしばらくの間混乱するだろう。


 カディオは考えた。

 今はジャック王子が王太子だが、今回の一連の事件での振る舞いで、国王は彼を見限り始めている。

 その国王の命も、いつまで持つかは分からない。

 対するレイン王子は誠実で聡明だが、ジャック王子に付け入られる甘さがある。

 とはいえ、カディオはもう旗幟を鮮明にしてしまっていた。

 二人の王子の争いに、否応なく巻き込まれていくのだろう。

 そうしたら、俺は。

 カディオは隣を歩く婚約者を見た。

 守れるのだろうか。

 何よりも大事な、ユエナのことを。

「あ、カディオ」

 ユエナが少女のようにいたずらっぽい目でカディオを睨んだ。

「あなた、また私をどう守ろうかって考えてたでしょ」

「あ、いや」

「いい? 私はあなたに守られたいわけじゃないの」

 そう言ってユエナはカディオの手を取った。

「あなたと一緒に歩いていきたいの」

「うん」

「ベルだって来るし」

 ユエナの侍女のベルは、ビケを出て間もなく王都に着く予定だった。何歳か分からないくらいの老婆だというのに、恐ろしく達者だ。

「私たち、もうどこでだって生きていけるでしょ」

 ユエナの言う通りだった。

 この国がだめなら、貴族の身分など捨ててどこへでも行けばいい。それができるということを、カディオは知っている。

「だから、ね。カディオ」

 ユエナはカディオの手を握る。

「一緒に生きよう。ずうっと一緒に」

 温かい手。

 幼いころからずっと欲しかったものはこれなのだと、本当はカディオにも分かっていた。

「ああ」

 だから、カディオはその手を離さないように、しっかりと握り返す。

「なあ、ユエナ」

「なに?」

「また、キスしたい」

「えっ?」

 そして、真っ赤になった婚約者の顔を見て、思うのだ。


 ああ。俺はきっと、こんな風に生きていくんだな。







 ラダラ村でのモーグとの戦で生き残った古参兵たちが皆、必ず口にする逸話がある。

 ありゃ傑作だったな、と誰もがこの話を語るときは笑顔になる。


 モーグの首魁デオハンと戦って深く傷つき、意識を失っていたカディオ将軍。

 彼は、女だてらにただ一人馬に乗って駆け付けた勇ましき婚約者の熱い口づけによって目を覚ましたとさ。


「キスで目を覚ますのは、普通はお姫様の方じゃねえのか」

「目を覚ました時のカディオ将軍の顔ったらなかったな」

「ユエナ様は、いきなり泣きながらビンタするしな」

「わけ分かんねえが、まあ、あれが」

 彼らの意見はそこでいつも一致する。


 あれが、愛の起こした奇跡ってやつかもしれねえな、と。





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