第10話 ねえ、カディオ。ちゃんと約束して。

 出陣を前に久しぶりの帰宅をしたカディオに、来客があった。

 前回のモーグ遠征のときのような壮行パーティが開かれる状況ではない。

 今こうしているときでも、表通りはモーグから避難しようとする市民たちで溢れかえっているのだから。

 王宮と練兵所を行き来する毎日で、カディオはここ数日ろくに帰宅もしていなかった。

 出陣を前に、誰か友人でも激励に来てくれたのだろうか。

 心当たりはなかったものの、そう考えていたカディオは、使用人から客の名を聞き絶句した。

「ユエナ様というご婦人にございます」

 まさか。

 ユエナだと。

 そんなはずはない。

 信じがたい気持ちで、それでもカディオは使用人に、応接間へ通すよう命じた。

 ユエナは、ビケにいるはずだ。

『ビケを出るときは、堂々と胸を張って。それまでは、私はここで生きる』

 彼女はそう言っていたではないか。

 王は赦免を認めてくださったが、それがユエナの元に届くのはもう少し先のことだろう。

 だから、ユエナがこんなところにいるわけはないのだ。

 つまり、ユエナを騙る何者かが訪ねてきたということだ。

 カディオが軍を率いることが面白くない人物の手の者だろうか。

 黒幕は、ジャック王子か、エルスタッド卿か。

 カディオは油断なく懐に短剣を忍ばせて応接間に入り、そして呆然とした。

「……ユエナ」

 そこに待っていたのは、紛れもなくユエナだった。

 薄汚れた旅装姿だったが、ビケで別れたときよりも顔に少し丸みが戻ってきていた。

「カディオ」

 彼の姿を認め、ユエナが立ち上がる。

「ごめんなさい、こんな格好で」

「いや、格好なんてどうだっていい」

 カディオはユエナに歩み寄る。

 ここに彼女がいることが、信じられなかった。

「どうしたんだ、ユエナ。どうやって王都まで」

 目の前にいるというのに、まだ半信半疑だった。

 もう赦免の命令がビケまで届いたということか。いや、だとしても、ビケからこの王都まで何日かかると思っている。

「あなたが軍を率いてモーグと戦うと聞いたわ」

 カディオの混乱に構わず、ユエナは言った。

「敗れたジャック王子の代わりに」

「……ああ」

 カディオは頷く。

「そうだよ」

 そうか。その報せが遠くビケまで届いたのか。

 国王に、自分が軍に加わることを宣伝するよう依頼したのはカディオだった。

 それは国内に散らばっているかつての自分の部下たちを集めることが目的だったが、ユエナの耳にまで届いていたとは。思わぬ副次効果を生んでいたようだ。

「あなたがモーグと戦うと聞いたら、いてもたってもいられなくて」

 ユエナは言った。

「あなたに会わなくちゃって思ったの」

 その気持ちは、カディオにも理解できた。

 ユエナが流罪に処せられたと聞いた時のカディオも、いてもたってもいられなかったからだ。

 だが、それにしても。

 自由に行動できるカディオとは、実行に移す覚悟が違いすぎる。

「私には譲れないものがある。ビケを出るときは、こっそりと逃げるような真似はしない。胸を張って堂々と出ていく。それが今の私を支える誇り」

 そう言って、ユエナはカディオを見上げた。

「ビケで、私はあなたにそう言ったわね」

「ああ」

「でも、私にはもっと譲れないものがあるの」

 カディオを見つめるユエナの瞳に秘められた思いがけない強さ。それはカディオを圧倒するほどの力を持っていた。

「それは、あなたの命。あなたを死なせないこと。それだけは、もう何があっても絶対に譲れない」

 ユエナは言った。

「あなたが王都に戻ってから、こっそりと援助を送ってくれていたことは知っているわ。ベルは私に内緒にしようとしていたけれど。でも、彼女はそのお金を貯めておいてくれたの。いつかこういう時が来るだろうからって」

 ユエナは微笑む。カディオは返す言葉を失っていた。

「そのお金でビケからここまで来たの。馬を二頭乗り潰したわ。それでもどうしてもあなたに会って、伝えたいことがあったから。それを伝えるためなら、流刑地を抜けた罪で罰されることなんて何でもない。王都の門をくぐれるかだけが心配だったけれど、モーグが来るからって避難する人たちで溢れていて、門番たちもそれどころじゃなかったわ」

 王都にたどり着くまでの苦難の道のりを、そんなさらっとした言葉で言い表したユエナは、何も言えないでいるカディオの手を取った。

 幼い日の柔らかな温かい手とは違う、固くひび割れてしまった冷たいユエナの手。けれど、そこに込められた感情は、きっと昔から変わることはない。それがカディオにも分かった。

「どうせあなたのことだから、この国を守るためにモーグと戦って、それで死んでもいい、なんて思っているんでしょう」

「いや、そんなことは」

 ようやくカディオは反論しようとした。だがユエナは優しく首を振った。

「隠してもだめよ、知ってるんだから。あなたは昔からそういう人だもの。私、あなたを見ているとずっと怖かった。頼りになるのに、どこか危なっかしくて。ある日突然遠くへ行ってしまいそうだった。急に、私の前から幻みたいに消えてしまいそうだった」


『私から離れないでね。カディオ、ずっとそばにいてね』


 カディオの耳に、幼い日のユエナの言葉が蘇る。

「あなたはいつか、私を残してぱっと死んでしまうんじゃないか。ずっとそんな気がしていたわ。だから私、小さいときずっとあなたの手を握っていたの」

 カディオを見上げるユエナの目に、涙がいっぱいに溜まっていた。

「あなたがアシュトン帝国の援軍の指揮官としてモーグに赴くと聞いた時は、ああ、ついにこの時が来てしまった、と思ったわ。けれど、あの時の私はあなたに行かないでなんて言える立場ではなかった。あなたの武運を祈ることしかできなかった」


『どうか、ご武運を』


 あの夜の、静かなユエナの声。

 ユエナにそんな葛藤があったなんて、俺はちっとも知らなかった。

 知ろうとも思わなかった。

「だから今回は絶対に譲れないと思ったわ。もう後悔はしないって決めたの。私は、私の意志で王都まで来た。誰に命令されることもなく、一番大事なもののために」

 カディオの手を掴むユエナの手が、いつの間にか熱を持っていた。

 熱い。

 生命力にあふれていた幼い頃のように、彼女の手は熱かった。

 ユエナの中で、命の炎が燃えている。

 カディオは思った。

 この痩せた身体の中で、こんなにも強く。

「カディオ。あなたは自分の意志でモーグと戦うことを選んだんでしょう。だから私も、戦わないで、とは言わない。でも、約束して」

 ユエナの強い瞳がカディオを真っ直ぐに見ていた。

「絶対に、生きて帰ってくるって。あなたのいない世界に、私を置いていかないって」

「……ユエナ」

 俺はお前のために、死ぬつもりでいた。

 そうすることが自分の望みでもあったからだ。

 だけど、お前は俺よりずっとよく知っていた。

 俺が本当に求めていたもの。

 本当に言ってほしかった言葉。

 どうしようもなくやるせない気持ちに駆られて、カディオはユエナの身体をかき抱いた。

「ユエナ。……ユエナ」

「カディオ」

 少し困ったように、カディオの腕の中でユエナが声を上げる。

「ねえ、カディオ。ちゃんと約束して、絶対に死なないって。生きて帰って来るって、ちゃんとあなたの口から」

 ユエナの言葉は途中で途切れた。

 カディオの唇で口を塞がれたからだ。

 長い情熱的な口づけの後で、カディオはようやく顔を離し、言った。

「約束する。ユエナ、俺は必ず生きて帰る。だから、その時は」

 カディオは上気したユエナの頬を両手で優しく包む。

「俺と結婚してくれ」

「するわ」

 潤んだ瞳で、微塵のためらいもなくユエナは答えた。

「あなたが生きて帰ってきてくれるなら、私、何だってするわ」




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