第9話 その程度のこと

「ラスコットだと」

 モーグの新しき王、起つ。

 王都でその一報に接した時、カディオは耳を疑った。

「生きていたのか、あの男が」

 リエント河の南岸を占拠したモーグの若き王ラスコットの名は、カディオもよく知っていた。

 モーグを構成する八つの氏族の中でも、最も険しい北限の地に住まう“槌音つちおと”の氏族。

 ラスコットは、その王ルフレイの息子で、剛勇無双の戦士だった。

 アシュトンの名のある戦士たちが果たして何人、あの剣の前に命を落としたことか。

 カディオも、彼の率いる軍とは決して正面から戦うことはしなかった。

 あらゆる策を尽くしても、その上を軽々と跳び越えてくるかのような蛮勇。

 この世に砕けぬもののない、破壊槌。

 “槌音”の戦士ラスコットとはそういう男だった。

 だが、彼はフィレン野の会戦で父王らとともに死んだはずだった。

 友軍であるルク王国の軍勢を切り裂き、アシュトン軍の本隊に側面から突っ込んできた“槌音”の氏族の軍勢は、しかし狼人将軍セナンまであと少しというところで不意に踵を返したのだ。

 それは、彼らが“玉髄”の氏族の王マースードの裏切りを知ったからだった。

 宿敵のアシュトン軍を倒すことよりも、裏切り者の首を獲ることを優先してしまう。

 それが、モーグという人々だった。

 既にごくわずかな数となっていた“槌音”の戦士たちが、王のルフレイとその子ラスコットを先頭に“玉髄”の氏族の大軍に斬り込んでいくのを、カディオも確かにこの目で見た。

 そのまま彼らは同じモーグの戦士たちに包囲されて死んだのだ。

 ルフレイ王の首は戦後、マースードが並べてみせた中に含まれていた。

 だが、ラスコットは。

 そういえばあのとき、ラスコットの首は無かった。



 事情はどうあれ、ラスコットは生き延びていた。

 集団としてのモーグはアシュトンの大敵だったが、それを離れたモーグ一人ひとりは優れた戦士として各所で需要があった。

 ラスコットもその名を変え、雇われの用心棒や傭兵に身をやつしてアシュトン各地を旅して、仲間を集めていたのだ。

 そして三年の雌伏を経て挙兵した。

 彼の建てた国は、純粋なモーグの国ではなかった。

 ラスコットという男には、人を引き付ける不思議な魅力があった。

 だから挙兵した彼の軍には、自分の国であぶれたアシュトン人もルク人もシャーバード人もいた。遥か西方の騎馬民族ゴルルパの騎兵の姿すらあった。

 そしてそれと呼応するように、各地に潜んでいたモーグたちが一斉に蜂起した。

 そのうちの一つ、ファズメリア王国とアシュトン帝国との国境地帯で蜂起した一大勢力は、ファズメリア側の街を襲い、略奪の限りを尽くした。

 手強いアシュトン側ではなく、弱そうなファズメリア側への侵攻を選ぶという狡猾さがあった。

 “牙”の氏族の戦士デオハンを首魁とするこの一軍は、ファズメリアの王都に向かって進撃を始めた。


 モーグが来ると聞き、王都は大混乱に陥った。

 ファズメリアの人々にとってモーグとは、実際に目にしたことはないがとにかく恐ろしいということだけは知っている、悪鬼魔獣の類いと同じだった。

 家財道具を持って地方へと避難を始める気の早い貴族も一人や二人ではなかった。


 病床の国王に代わって国政を取り仕切る王太子ジャックは、全てを政治的に考えることのできる男だった。

 だから彼は、この敵を撃破することで自らの立場と名声を盤石なものとすることに決めた。

 兄王子のレインは王太子争いに敗れたものの、まだ隠然たる勢力を持っている。

 ここで国内外に、決定的な差を見せつけておく必要があった。

 ジャック王子は自らを大将、妃の父エルスタッド卿を副将に据えて、七千の兵を結集した。

 対するモーグの軍勢は、およそ二千。

 カディオは自らも召集されるものと思い、その準備を進めていたが、声はかからなかった。

 ジャック王子は、対モーグ戦に長けたカディオを軍に加えることで、自分ではなくカディオ将軍のおかげで勝てた、という印象を与えることを嫌った。

 カディオ程度の人間が率いる軍が六年も戦えたモーグなど、自分であれば苦も無くひねれる、という驕りもあった。

「我が国を侵したモーグの蛮族どもは、このジャック率いる聖なる軍勢の前に必ずや打ち砕かれるであろう」

 王都を発つ前、ジャックは高らかにそう宣言した。

 無道の限りを尽くしながら王都に迫るモーグを、三倍以上の兵力で急行したファズメリア軍はバレル平原で迎え撃った。

 だが、結果は無残なものとなった。

 ファズメリア兵のほとんどは、戦の前に聞こえてきた地を揺るがすような戦歌いくさうたに、たちまち腰が引けてしまった。

 寝物語に親から聞かされた悪鬼のようなモーグの姿が、彼らの頭の中でどんどんと膨らみ、それは鎧に無数の骨をぶら下げた屈強な戦士たちがその姿を見せるに及んで頂点に達した。

 あれは、人ではない。

 どう見ても、地獄から蘇った魔戦士ではないか。

 あんなものと戦うなんて、どうかしている。

 ファズメリア軍では、開戦前に逃亡する兵士が相次いだ。

 それでもジャック王子と実際に指揮を執ったエルスタッド卿は兵を叱咤し、何とか陣形を整え、モーグを迎え撃った。

 ジャック王子の必勝の策は、主軍の左右に配した伏兵の存在にあった。

 数に勝る主軍がモーグの突進を受け止めている間に、機を見て左右の伏兵が奇襲をかけ、敵を包囲殲滅する。

 だが、実際の戦は机上の計算通りには進まなかった。

 “牙”の戦士デオハンを先頭に敢行されたモーグ伝統の突撃。その衝撃力たるや。

 ジャックたちの予想をはるかに上回るそれは、モーグとの戦を知らないファズメリア兵たちにとても耐えられるものではなかった。

 ほとんど踏みとどまることすらできず、ファズメリアの主軍は総崩れとなった。

 左右の伏兵は戦に参加するタイミングさえなく、主軍の惨状を目の当たりにして恐慌をきたし、散り散りに敗走した。

 ジャックもエルスタッドも命からがら戦場を脱出すると、そのまま王都には戻らず逃げに逃げて、遥か自領まで退却してしまった。



 敗戦の報を受け、王都では絶望的な雰囲気が広がっていた。

 この国は亡びる。ファズメリア人は皆、モーグの奴隷になるしかない。

 そういう類いの風説が広がっていた。

 そんな中、カディオは王宮に召された。

 彼を呼んだのは、病を押して政務に復帰した国王だった。

「ジャックの軍は惨敗した。ジャックめ、恐れをなして王都にも戻ってこぬ有様よ」

 長きにわたる闘病でやせ細った王は、それでもその声に威厳を乗せてカディオに語りかけた。

「だが、余はこのまま我が都をモーグどもに蹂躙させるつもりはない」

 王の傍らに立つのは、第一王子のレインだった。

「リオット卿、そなたはモーグとの戦の経験が豊富だ。レインの軍の副将を務めてもらいたい」

「兵は、いかほど」

 カディオは尋ねた。

 主だった軍勢は皆、ジャックが率いていってしまったはずだった。

「国境から急ぎかき集めた兵が、千。バレル平原の残兵が二千」

 王に代わって、レイン王子が答えた。

 合わせて三千。あまりに少ない。

 七千の軍でも鎧袖一触で敗れ去ったというのに。

「かしこまりました」

 それでも、カディオは答えた。

「お引き受けいたします。それでは、こたびの軍にはカディオ・リオットが加わると広く宣伝してくださいませ」

「よかろう」

 国王は頷いた。

「何か、策があるのだな」

「策というほどのものではございませぬが」

 カディオは答える。

「モーグとの戦には、少々慣れておりますゆえ」



 モーグの進軍は遅かった。

 代わりに、王都へと続く道中の街や村での略奪は猖獗しょうけつを極めた。

 その間に急ぎ軍を編成するカディオの元に、いずこからともなく兵士たちが集まり始めていた。

 彼らは、アシュトン連合軍で六年間カディオとともに戦い抜いた歴戦の兵たちであった。

 帰国後はほとんどの者が退役して地方に引っ込んでいたが、国の危機に際してカディオの名を聞き、駆けつけてきたのだ。

 その数は、四百に上った。

「リオット将軍がモーグと戦うっていうなら、俺たちが来ないわけにはいかねえだろう」

 彼らは口々に言った。

「俺たちの命は、とっくにあの将軍に預けてあるんだ」



「久しぶりだな、友よ」

 彼らを前にして、カディオは言った。

「知っての通り、敵の大軍はこの王都に迫っている。だが恐れることなど微塵もない。奴ら、モーグと謳ってはいるが、その中に本物のモーグなど数えるほどしかおらぬ」

 おお、とざわめきが広がった。

 それはカディオが見抜いた事実だった。

 本物のモーグの戦士たちのほとんどは、あの日フィレン野の会戦で死んだのだ。

 それから三年程度で、二千もの戦士がモーグの地から遠く離れたこんな場所にいきなり現れるはずがない。

 王都へと迫る軍勢の大半は、略奪目当てに集まったアシュトンや周辺の国々のならず者たちだった。そういった連中が、軍の中核にいる少数のモーグの教えを受けて、その戦いぶりを真似しているにすぎない。

 ジャック王子の軍勢は、目の前の敵ではなく自分たちの中の恐怖に負けたのだ。

「我ら本物のモーグの戦を知る者が、教えてやろうではないか。北の戦場での戦いが、どれだけ苛烈であったのかということを」

 おう、という威勢のいい声が上がる。

「やってやろうぜ」

「俺たちはモーグの統王にだって負けなかったんだ」

「こっちはアシュトンの狼人将軍でさえ認めた精鋭だぜ」

「モーグごっこをしてる連中ごときに、後れを取るかよ」

 退役兵がほとんどとはいえ、祖国の危機を前に彼らの戦意は高かった。

 軍の編成を終えると、カディオは王に謁見を願い出た。

 この千載一遇の好機を、逃すつもりはなかった。

「見事モーグを破った暁には、この戦の褒美として、賜りたきものがあるのでございます」

 カディオはそう切り出した。

「申せ」

 王座で苦しそうに肩を上下させながら、それでも王の目にはまだ力が残っていた。

「望みは何だ」

「どうか、ビケの地に流されたワイマー家のユエナ嬢の赦免を願いたく」

「ワイマー家のユエナ」

 王は一瞬遠い目をし、それから、ああ、と頷いた。

「許す」

 王は言った。

「戦の結果を待つまでもない。その程度のこと、今この場で許そう」

 その程度のこと。

 ユエナの人生を一変させた流刑も、王にとってはその程度のことだった。

「まことにございますか」

「そなたの言うのは、ワイマーの策謀のとばっちりを食った、あの娘のことであろう。良き王妃にもなれたであろうに、かわいそうなことをした」

 王はそう言うと、目を細めてカディオを見た。

「そなたが娶りたくば、それも自由にして構わぬ」

「いえ」

 自分と一緒になるかどうか。それは、ユエナの決めることだった。

 カディオはただ、彼女を縛る鎖を断ち切ることだけを望んだ。

「それさえ認めていただけるのであれば」

 カディオは微笑んだ。

「このリオット、一命に換えましても蛮族の軍勢、蹴散らしてご覧に入れます」

 これで手筈はすべて整った。

 この国を守ることが、再びユエナを守ることに繋がった。

 あの六年間は、無駄ではなかった。


 俺はきっと、こういう風に死ぬのだろう。


 カディオの脳裏に、あの幼き日の予感が再び蘇った。

 今度こそ、自分の戦いがユエナの笑顔に繋がることをカディオは祈った。



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