第8話 あなたはそれができる人よ。

「あのときのことを謝ろうと、ずっと思ってたんだ」

 カディオは言った。

 ユエナの家。

 古くて暗い、日当たりの悪い室内は、ユエナの今の境遇そのもののようだった。

 それでも粗末な建付けの悪い椅子に並んで腰を下ろした二人は、失った時間を取り戻そうと手探りであがいていた。

「俺のいたずらが度を越してしまって」

 そう言ってカディオは、ユエナと会えなくなる少し前にしたいたずらのことを説明したが、ユエナは首を振った。

「覚えていないわ」

 ユエナは微笑んでいた。

「だって、あなたとの思い出は楽しいことばっかり。思い出すのは、あなたの笑顔ばっかりだから」

「……ユエナ」

 カディオはユエナの手を取った。骨ばった、冷たい手だった。

「私こそ、ずっとあなたに謝らなきゃ、と思っていたことがあるの」

 優しい目でカディオの手を見つめ、ユエナは言った。

「あの日のこと。覚えてる? あなたと一緒に町の広場や市場を見て回って、その後で突然」

「ああ」

 カディオは頷く。忘れるわけがなかった。

「もちろん、覚えてるよ。あの日、ユエナが大人の男に連れ去られそうになったんだ」

「ええ。そして、カディオが助けてくれた」

 嬉しかった、とユエナは言った。

「すごく怖かったけど、あなたが助けてくれて」

「うん」

 カディオは微笑む。

「ユエナ、すごく泣いてたよな」

「驚いたし、怖かったから。本当にカディオが死んでしまうんじゃないかって」

 そう言って、ユエナは目を伏せた。

「大怪我をさせてしまってごめんなさい」

「何だ、そんなことか」

 カディオは拍子抜けした。

「それならあの時だって、何度もお礼を言ってくれたじゃないか」

「そうなんだけど……」

 ユエナは少し言い淀んだ。

「あの犯人の男。あなたには捕まらなかったって言ったけれど、本当は捕まっていたの」

「そうなのか」

 カディオには初耳だった。

「何者だったんだい。ただのならず者か」

「父上の政敵の雇った男だったわ」

 ユエナは呟くように言った。

「あの頃、父上はもう私を王子の婚約者にしようと方々で動いていたから。無理なことをして、恨みも買っていたわ」

 ユエナはうつむいた。

「父上は、その男のことも政敵を脅す材料として使ったみたいなの。娘を襲った男を捕まえたら、お前が黒幕だと吐いたぞ。公にしてほしくなければ……というふうに」

「そうか」

 カディオは、今は亡きユエナの父ワイマー卿の顔を思い出す。

 確かにやり手の政治家だった。

 だが、幼い日の自分に向けてくれたのはいつも笑顔と優しい言葉ばかりだった。

 カディオはワイマー卿に悪印象を持ったことはなかった。それは、ユエナと会えなくなってからも変わることはなかった。

「ごめんなさい、カディオ」

 ユエナは言った。

「あなたの勇気を汚すようなことを、父はしてしまった」

「お父上は、いつも俺に良くしてくれたよ」

 カディオは答えた。

「俺はお前を守りたかったから、自分で勝手に戦っただけだ。その後お父上がどうなさったかなんて、俺には関係ないよ」

「でも」

「もしかして、昔パーティで再会した時にユエナが何か言いたそうにしてたのって、それかい」

「ええ」

 ユエナは頷く。

「ずっとあなたに謝りたくて」

「そんなこと、俺が気にするわけないだろ」

 カディオは笑った。

「ユエナだって知ってるだろ。俺がどれだけ単純な人間か」

 それからカディオは、思いつく限りの昔話をした。

 楽しかったこと、面白かったこと。

 けんかしたこと、忘れられないこと。

 話すにつれ、ユエナの笑顔も少しずつ増え、その表情にあの頃の闊達さが覗き始めたころ、侍女の老婆が帰ってきた。

「おやまあ」

 椅子に座るカディオを見て、老婆は声を上げた。

「お嬢様、もうカディオ坊ちゃんを家に入れておしまいになったんですか」

 すまないね、邪魔しているよ、と言うカディオに、老婆は頷いてみせる。

「私はお嬢様に、会ってはいけません、と申し上げたんですよ。会いたくっても、ふた月は我慢なさい、と。そのくらいで音を上げるような男じゃ、今のお嬢様をどうにかできるわけがないんですから、と」

「会いたくて仕方なかったの、ベル」

 ユエナは少し拗ねたように老婆の名を呼んだ。

「私がこんな惨めな格好でなければ、すぐにでも会いたかった」

「お嬢様のお気持ちは分かっていますよ」

 ベルは鼻を鳴らす。

「でも、それで騙されてしまってはいけませんからね。念には念を入れなければ」

「おばば」

 よく喋る老婆に、カディオは呆れた声を上げた。

「耳は良く聞こえているようじゃないか」

「当たり前でございましょう」

 ベルは誇らしげに胸を張った。

「このビケで、今まで誰がお嬢様を守ってきたとお思いですか」



 それからもカディオはユエナの家に日参し、あれこれと語り合った。

 ユエナの笑顔は日ごとに増えていった。

 だがカディオの、ともに暮らそう、という提案にユエナは決して首を縦に振らなかった。

「私は罪人なのよ」

 ユエナは言った。

「あなたに迷惑がかかるわ」

「そんなこと、関係ないさ」

 もうこの時にはカディオは、貴族の地位など棄てる覚悟を固めていた。

「この国を出たって構わない。一緒に生きよう」

 けれどユエナは首を振った。

「あなたにどうしても譲れないものがあるように、私にも譲れないものがあるの」

 それは断固とした口調だった。

「あなたがどう思うかじゃない。私自身が、あなたに迷惑をかけることを許せないの」

「ユエナ。俺は迷惑なんかじゃない」

「いいえ」

 ユエナは頑なだった。

「父の罪を償うために、私はここにいる。ここで生きることは、私の意志でもあるの」

「そんなのは」

「強がりに聞こえるでしょうね、あなたには」

 カディオの言葉を、ユエナは先回りした。

「でも私は、いつかここから堂々と胸を張って出ていくと決めたの。こっそりと逃げ出すのではなくて」

 カディオがどう説得しても、ユエナは自分の意志を曲げなかった。

「来てくれてありがとう。本当に嬉しかった」

 ユエナはそう言って、カディオの手を握った。

「でもあなたは王都へ戻って。ここはあなたの生きる場所じゃないわ。ちゃんと前を向いて、自分のために生きて。あなたはそれができる人よ」

 カディオはついに彼女を説き伏せる言葉を失った。

 無理に連れ出そうとすれば、自死しかねない。そんな強さと危うさをユエナは持っていた。

「ユエナ」

 やるせない気持ちに駆られて、カディオはユエナの痩せた身体をきつく抱き締めた。

「また会いに来るよ。必ず」

「その気持ちだけで、私には十分」

 ユエナは言った。

「本当はこんなことを言ってはいけないのだろうけど……カディオ。あなたのことが大好きだった。ジャック王子の婚約者になってからも、ずっと」

「俺だって。今だって」

 カディオはユエナを抱く腕に力を込めた。このまま一つになってしまえれば、とさえ思った。

「だから、迎えに来る。必ず」

「ありがとう、カディオ」

 ユエナの声は震えた。

「私、その言葉だけで生きていけるわ」




 王都に戻ったカディオは、リオット家のさして潤沢でもない懐事情をどうにかやりくりしてユエナの元へ援助を送りつつ、これからどうするべきかを考えた。

 ユエナのことを諦めるつもりは毛頭なかった。

 けれど、彼女の誇りまでも踏みにじって連れ出すのもまた違うと思った。

 父のワイマー卿に、婚約者のジャック王子に、今までユエナはその人生を勝手に決められてきた。

 カディオが彼女を無理に連れ出せば、それは結局ユエナにとっては、彼女の人生を支配する人間が変わるだけのことなのではないか。

 とにかく、ユエナの罪を解くことだ。

 ユエナが自分の人生を自分で選ぶことのできる環境を取り戻す。

 病床の王か、その代行を務めるジャック王子に彼女の赦免を願い出るのだ。

 とはいっても、いきなりそんな請願が通るわけはなかった。

 罪を得た、第二王子の元婚約者の赦免。

 それを認めてもらうには、気の遠くなるような根回しと、多くの資金が必要だろう。

 ただでさえ難事だというのに、ましてや六年も王都を留守にしていた中位貴族のカディオに、そんな敏感な問題について工作できるほどの政治力はなかった。

 自分にユエナの父の十分の一でも政治力があれば、とカディオは思った。

 俺は、戦しか知らない。

 ビケでのユエナとの再会から、歯がゆいままに一年が過ぎた。



 その頃、アシュトン帝国の北方の情勢は風雲急を告げていた。

 リエント河の南岸一帯を、モーグの残党が占拠したのだ。

 新たな王国の建国を宣言した若きモーグの王ラスコットは、直ちに裏切り者“玉髄”の氏族とアシュトン帝国に対して戦端を開いた。

 それと呼応するかのように、各地に潜んでいたモーグが一斉に蜂起したため、帝国だけでなくその友邦諸国も大混乱に陥った。

 ファズメリア王国の国境地帯でも、モーグの勢力が蜂起していた。



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