第7話 ごめん
その日もカディオはユエナの家を訪ねた。
薄暗い家の中から、疲れた顔の老婆が手にかごを提げて出てきた。
彼女はユエナの唯一の侍女だったが、こんな辺境の地まで同行してくるだけのことはあってユエナ以外の誰の言うことも聞かない忠誠心の塊なうえ、もう耳も相当に遠かった。
カディオは最初、彼女を通してユエナに接触を図ろうと試みたが、全く相手にもされなかった。彼女から何か聞き出そうとすることも徒労に終わることはとっくに思い知っていた。
老婆はカディオの顔をじろりと見ると、何も言わずによたよたと彼の前を通り過ぎていく。
おそらく、市場で何かを買ってくるつもりなのだろう。以前、手伝おうか、と声を掛けてみたこともあったが、返事もしてもらえなかった。
侍女の背中を見送り、カディオは家に向き直った。
ここには、もうユエナしかいない。
カディオは扉を軽くノックした。
やはり、何の反応もない。
暗い家の中は、しん、と静まり返っている。
だが、中に彼女がいることは間違いなかった。
来る日も来る日も、カディオはこの扉の前で「ユエナ様!」と呼びかけ続けてきた。
それは誤りだったのではないか、と今カディオは考えていた。
昨夜夢を見たからだ。
幼い頃の、無邪気な二人。
成長し、距離が離れてしまった二人。
そして、去っていったユエナ。
この家の扉は、ユエナの心の扉みたいなものだ。
カディオは思った。
ならば、距離が離れてしまった後のカディオ・リオットがいくら外から「ユエナ様」と呼びかけたところで、そんな声が彼女の心に届くはずはない。
彼女は、カディオ・リオットを知らない。
カディオが、ユエナ・ワイマーを知らないのと同じように。
だから、この扉を開けるには。
カディオは息を大きく吸った。
ユエナ様、だって?
恰好を付けてそんな気取った呼び方を、よくもできたもんだな。え? カディオ。
いつもワイマー家に遊びに行った時、お前はあいつを何と呼んでいたんだ。
思い出してみろ。
今までに学んだことも得たものも、失ったものも全部忘れて、あの頃の気持ちを思い出せ。
「ユエナ!」
カディオの声は、ビケの強い風に負けることなく響いた。
「ユエナ、俺だ。カディオだ」
そう言いながら、カディオは扉に額を付けた。
「聞こえるかい、ユエナ」
傾きかけた、小さな家だ。壁だって薄い。
大きな声を出さなくたって、聞こえるだろう。
だから、そこからはもうカディオは大声を出すのはやめた。
ユエナの心に語りかけるように。
心の奥まで、届くように。
カディオは扉に額を付けたままで話した。
「遊びに来たよ」
努めて、明るい声で。
あの頃の俺は、ユエナと遊ぶことで頭がいっぱいだった。
難しいことなんか何も考えず、ただ無邪気に、今日は何をしようか、何を話そうか、とそんなことばかり考えていた。
そしてそれは、ユエナだって同じはずだ。
「おいで。一緒に外を散歩しよう」
王子の元婚約者。
罪を得て取り潰された家の令嬢。
そんなことから離れ、まだ何も難しいことを考える必要のなかった二人のままで。
家の中から、返事はなかった。
けれど、額を付けた扉越しにカディオはユエナの息遣いを感じた。
息を殺して、ユエナは俺の言葉を聞いている。
「ユエナ」
もう一度、カディオは呼びかけた。
「俺、お前に謝りたいことがあるんだ。ずっと謝ろうと思っていたんだ。だから、顔だけでも見せてくれないか」
やはり家の中からは反応はなかった。
だがカディオには確信があった。
ユエナは、俺の言葉を聞いてくれている。
「ユエナ」
カディオは言った。
「ごめん」
不意に家の中からくぐもった泣き声が聞こえてきた。
押し殺したような泣き声は、やがてはっきりそれと分かるほどの大きさになった。
身も世もなく泣いているのは、大人の女の声だ。けれど、カディオはその中に確かにあの日のユエナがいることを感じ取った。
カディオの胸も、詰まった。
「ユエナ」
カディオは優しく呼びかけた。
「顔を見せてくれ。お前に話したいことがたくさんあるんだ」
ようやくユエナがカディオに会ってくれたのは、その翌日のことだった。
厳しい環境での貧しい暮らしに、美しかった髪はほつれ、豊かだった頬はこけ、その目には暗い光が宿っていた。
それでも、ユエナは髪をしっかりと整え、凛とした佇まいでカディオを迎えた。
それは彼女に残された最後のプライドのようだった。
「このような見苦しい姿でお会いすることをお許しください」
感情の動きのない声で、ユエナは言った。
「長きにわたるモーグとの戦、真にお疲れさまでございました。こうして無事なお姿を拝見できただけで、嬉しゅうございます」
そう言って深々と頭を下げる。
あなたのおかげです。あなたが私の武運を祈ってくださったから、それを支えに生き延びることができました。
カディオはそう伝えかったが、それではいけないことは分かっていた。
今の俺のままで話をしたら、だめなんだ。
それでは、ユエナの心に届かない。
「そんなことはいいんだ、ユエナ」
砕けた口調で、カディオは言った。
「一緒に少し歩かないか」
だがユエナは、仮面のような表情でカディオを見上げた。
「私は罪人の身。一緒に歩いているところなどを誰かに見られれば、リオットさまのご迷惑となるでしょう」
取り付く島もない口調だった。
カディオではなくリオットと呼んだユエナの気持ちが、カディオにはつらかった。
「関係ないさ」
快活に、カディオは言い切った。
「幼馴染が一緒に歩いて、何が悪いんだよ。少しだけでもいいんだ、ユエナ」
けれどユエナは無表情に首を振る。
「もう幼き頃の私たちではございません。どうか、私のことはお忘れになってくださいませ」
「あの木」
ユエナの言葉にかぶせるようにして、カディオは庭の木を指差した。
明るい口調とは裏腹に、内心ではカディオは必死だった。
「登ってみせるから。見てて」
そう言うと、ユエナに背を向け、木に駆け寄った。
大の大人が、突然に木登りを始める。それは、知らない人間が見れば気でも触れたのかと思うような行動だった。
だが、カディオにはそんなことを考える余裕は微塵もなかった。
私のことは忘れろだって? そんなこと、できるわけないだろ。
カディオは死物狂いで木を登った。大きくなった身体はもう子供の頃のように機敏ではなかったし、ワイマー家の立派な木に比べて、ビケの強い風に晒されたその木は何とも貧相だった。
それでもカディオは高いところの枝に手を掛け、自分の身体を引き上げる。
それから、ユエナを振り返った。
「ほら、ユエナ。どうだい」
「どうだと言われましても」
困惑したようにカディオを見上げたユエナが、不意に表情を硬くした。
「あっ、危ない」
みしみし、という音とともに枝がきしんだ。
と思った瞬間、枝は根元から折れた。
「あっ」
「カディオ!」
目を丸くしたユエナが走り寄って来る。だが彼女の伸ばした腕は届かず、カディオは地面に背中から落ちた。
「ぐわっ」
「カディオ! 大丈夫!?」
カディオ。
ユエナの声に、カディオは痛みを忘れた。
「ユエナ、ありがとう」
倒れたまま、カディオは手を彼女に伸ばした。
「やっと、俺の名前を呼んでくれたな」
笑顔でそう言ったはずなのに、涙がぼろぼろとこぼれた。
ユエナも自分の言葉に驚いたように立ち尽くしていた。
カディオのよく知る幼い日のユエナ。あの少女が、ユエナの身体を衝き動かしたのだ。
「忘れられるわけないだろ」
泣きながら、カディオは言った。
「無茶言うなよ、ユエナ。お前のことを忘れるなんて、できるわけないだろ」
自分でも起き上がることはできた。
でも、カディオはユエナが手を取ってくれるまで起きないと決めていた。
「お前の言うとおり、もう子供の頃の俺たちじゃない。でも、あの頃の俺たちがいなくなったわけでもない」
カディオは手を伸ばす。
「ここから始めよう。ユエナ」
ユエナの顔が、不意に歪んだ。
仮面が剥がれ落ちるかのように。
ユエナの顔に感情が戻っていく。嗚咽が漏れる。
「私は、もう」
苦しそうに泣きながら、ユエナは途切れ途切れにそう言った。
「もう、あなたに相応しい女では」
「そんなこと、俺が決める」
カディオは言い切った。
「ユエナ」
カディオの伸ばす手を、ユエナは恐れるように見た。そして、自分と同じように涙を流すカディオの顔を見た。
それからユエナは子供のように泣きじゃくりながら、その手を取ってくれた。
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