第6話 だって、そうじゃなきゃ、俺は。
ユエナの所在は、すぐに知れた。
ビケはもともと、住む人間も多くない土地だ。聞きまわるまでもなく、住民たちはユエナのことを知っていた。
王都から遠く離れた辺境に、元貴族の女が一人。
ここから逃げたくとも、行けるところなどこの国にはない。
ユエナは罪人とはいえ、流されてからすでに数年が経ち、もはや監視など無いに等しかった。
まるで、ここで暮らすことそれ自体が罰であると言われているかのような土地だった。
ビケ特有の強い風に吹かれながら、乾いた土を踏みしめ、カディオは教えられた家への道を辿った。
それは、傾きかけた小さな家だった。
あの可憐なユエナが暮らす家とは、到底思われなかった。
家の前の庭の小さな畑で、女が一人しゃがみこんで草を取っていた。
こちらに背を向けたその痩せた背中を見て、カディオは彼女を使用人だと思った。
ユエナ様を訪ねてきたのだが、と声を掛けようとしたとき、また強い風が吹いた。
女の髪が、風で乱れた。
その首筋に覗いたほくろを見て、カディオは己の思い違いを悟った。
その位置にほくろのある少女を知っていた。
その女こそが、ユエナだった。
「ユエナ様」
思わずそう声が漏れた。
名を呼ばれ緩慢な動きで振り返った女が、カディオの顔を訝しげに見上げ、それからそのままの姿勢で固まった。
やつれた頬に、みるみるうちに赤みが差していくのがカディオにも見えた。
「ユエナ様」
もう一度カディオがそう呼びかけると、女はぱっと立ち上がった。
そのまま、彼を振り返ることなく家の中に駆け込むと、それっきりもう出てこなかった。
「ユエナ様!」
カディオは閉ざされた扉を叩き、ユエナの名を呼んだが、家の中からは物音一つしなかった。
日暮れ近くまで粘ったものの、ついに諦めてカディオはそこを後にした。
それから、カディオはビケの粗末な宿に拠点を構え、毎日ユエナの家に通った。
ビケは確かに厳しい環境の土地だったが、とはいえ所詮はファズメリア国内においてはという話だ。魔境のようなモーグの地で六年間生き抜いてきたカディオにとっては、決して耐えられない環境ではなかった。
カディオは毎日家の外から根気強く「ユエナ様」と呼びかけた。
だが、やはり反応はなかった。
無論、彼女がすぐに顔を出してくれるとは思っていなかったが、ひと月もそのままの状態が続くとさすがに心配になってきた。
このまま、ユエナとは会えずじまいになるのではないか。
どうにかして、ユエナと話がしたい。
かといって、無理に家に押し入るような真似はしたくない。
思い悩みながら宿に帰り眠ると、その夜、カディオは幼いころの夢を見た。
まだ何も知らない無邪気な頃のカディオとユエナが並んで走っていた。
遊び慣れた、けれど今はもうこの世界に存在しないワイマー家の庭。
二人とも笑顔だった。
カディオは彼女にいいところを見せたくて、近くの木に飛びつくとそのままするすると高い枝まで登ってみせた。
「ほら、ユエナも来いよ」
枝の上から、そう呼びかける。
「引っ張り上げてやるよ」
「私、こんな服じゃ登れないわよ」
頬を膨らませたユエナは、自分が履くスカートをぱたぱたと揺らす。
「カディオこそ、そんなところにいないでさっさと下りてきてちょうだい」
「ちぇ」
すごい、とか、かっこいい、という称賛を期待していたカディオが、ふてくされて木を下りると、ユエナは彼の手をぎゅっと握った。
「カディオはどこにも行かなくていいのよ」
「え?」
驚いてユエナを見ると、少女は真剣な顔で、彼の手を握る小さな手に力を込めた。
「私の隣にいてくれれば、それでいいの。ずっと隣にいてくれれば」
「それ、どういう意味だよ」
そう尋ねたら、いつの間にかカディオもユエナも大人になっていた。
出征前の壮行パーティで見た、美しく着飾ったユエナが哀しそうな顔でカディオを見ていた。
もう二人の手は離れていた。
「ユエナ……さま」
カディオが名を呼ぶと、ユエナは首を振った。
その拍子に、彼女の目から涙が真珠のようにこぼれた。
あ、と思った次の瞬間には、カディオとユエナの間には巨大な河が横たわっていた。
ユエナの姿はもう、はるか遠くに小さく霞んでしまっていた。
黒々と流れるその河を、カディオはよく知っていた。
猛き大河リエント。神が大地に引いた、アシュトンの地とモーグの地とを分かつ黒き一本の線。
この河よりも北は、もうモーグの地なのだ。
「ユエナ様!」
河の対岸にいるユエナに、カディオは叫んだ。
けれどユエナにはその声が聞こえていないかのようだった。彼女はゆっくりと河に背を向け、歩き去っていく。
「ユエナ様!」
声の限りに叫ぶ。だが返事はない。
そしてカディオ一人が河のこちら側に取り残される。
外法の、モーグの地に。
遠くから、戦場の音が聞こえてくる。
あれは、モーグの吹き鳴らす角笛。鎧に付けた骨飾りを力任せに叩く音。そしてがなり立てるような
モーグの狂戦士たちが、今日も猛っている。
「ファズメリア軍には、我が軍の脇を守っていただこうか」
冷徹なあの声は、アシュトンの狼人将軍セナンのものだ。
もう戦が始まる。
戻らなければ。
俺は、ファズメリアの将なんだ。
俺が行かねば、兵たちが。
だが、気持ちとは裏腹に脚は動かなかった。
ユエナ。
ユエナ。ユエナ。
今まで堪えていた思いが溢れ、カディオはその場に膝をついた。
お前がいなかったら。
お前がいなかったら、俺はいったい何を支えにあのモーグどもと戦えばいいんだ。
俺は、単純な人間だ。
昔からずっと変わらない。
お前にすごいって、かっこいいって言ってもらえれば、それだけでどこまでだって行けるような人間なんだ。
だから本当はまたあの時みたいにお前を守って、そしてお前にすごいって言ってほしかった。
だって、そうじゃなきゃ、俺は。
「カディオ殿。カディオ殿はどこにおられる」
ああ、セナン将軍が呼んでいる。
戦だ。
行かなければ。
だが、身体は動かない。
あれほどの死線を幾度も乗り越えてきたはずなのに。
ユエナがもういないと分かった途端、怖気づいたように膝が震え、立つこともできない。
ユエナ。
お前がいなきゃ、俺は戦えない。
ユエナ。
「ユエナ!」
自分の声で目を覚ました。
枕が濡れていた。
あのモーグでの六年間でさえ、涙を流すことなどなかったのに。
カディオは乱暴に涙を拭った。
俺としたことが。夢を見て泣くとは。
まだ俺にもガキの頃の気持ちが残ってるんだな。
そう思ったとき、カディオにも不意に見えたものがあった。
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