第5話 俺はこの六年間、一体何をしていたのか。

「婚約を破棄されていた? ユエナ様が?」

 六年ぶりの帰宅。

 精悍な一廉の将の顔付きとなった息子の生還を、父はことのほか喜んだ。

 問われ語りに彼が息子に語ったのは、意外な話だった。

「もう何年も連れ添った婚約者であったのに、今さら婚約破棄など。ユエナ様に何か落ち度があったのですか」

 カディオが尋ねると、父は難しい顔で首を振った。

「ユエナ嬢がどうというよりも、うむ」

 煮え切らない返事に、カディオは焦れた。

「それは、いつのことですか」

「お前が出征してしばらくしてからだ」

 父は答えた。

 二人の挙式の話がいつになっても出てこぬと不審に思っていたところ、突如婚約が破棄され、ユエナの父ワイマー卿に近しい貴族たちが次々に逮捕されたのだという。

「そんなことが」

「やり過ぎたのだ、ワイマーは」

 呆然とした表情のカディオを、父は痛ましそうに見た。

 野心溢れるワイマー卿は、娘のユエナをジャック王子の婚約者にしただけで満足しなかった。さらに上へと昇ろうと、裏で様々な策謀を巡らせていた。

 それがジャック王子の逆鱗に触れたのだ。

 激しい気性のジャック王子は、自らの動きが外戚に左右されることを良しとはしない人物だった。

 聡明か、それとも狡猾か。

 彼の賢さをどう呼ぶかはそれぞれの立場によるのだろうが、とにかく頭の切れるジャック王子は、これを機にワイマー一派を一網打尽にしてその勢力を自分が掌握してしまおうと考えた。

 ワイマー卿が、王家の権威をかさに着て無道を通したような事例は、調べれば枚挙に暇がなかった。

 ジャック王子はそれを一つ一つ掘り起こし、証拠を揃えていった。

「王子の右腕となってそれを助けたのが、エルスタッド卿。今の妃の父だ」

「ああ」

 カディオにも、ようやく合点がいった。

 あの王太子妃は、エルスタッド家のサニカ嬢であったか。

 ジャック王子の企ては成功し、ワイマー派の貴族を排除して大幅に地盤を強化したことでレイン第一王子との後継者争いにも勝利した。

「ワイマー派への追及はとにかく厳しくてな。ワイマー自身も逮捕され、処刑されてしまった」

「なんと」

 カディオは目を見開く。腋の下を冷たい汗が流れた。

「それでは、ユエナ様は」

 声がかすれた。

「まさか、お父上とともに」

「いや」

 父は首を振った。

「ユエナ様は、おそらく関与が薄いとみなされたのだろう。もしかしたら王子は、仮にも自分の婚約者であった女性を非情に殺すことで自らの評判が下がるのを恐れたのかもしれぬ。いずれにせよ、ユエナ様は死罪を免れた」

 だが無論、ひとり無罪放免というわけにはいかなかった。

 ユエナは侍女とともにファズメリアの辺境、ビケの地に流されたのだという。

 ビケは、国内でも特に貧しく、気候風土の厳しい土地柄として有名だった。

 そんなところに、あの可憐なユエナが一人流されただと。

 荒涼とした大地に一人ぽつんと立つユエナ。

 その姿を幻視したカディオは、自分がまるで戦場のモーグのような形相をしていることに気付いた。

 何とむごいことを。

 許せぬ。どうしてくれようか。

「カディオ、お前」

 ただならぬ息子の様子に、父が慌てて言葉を継ぐ。

「ばかなことを考えるのではないぞ」

 魔境の戦場帰りの思考は、すぐに短絡的な実力行使に結び付きかけたが、父の怯えたような目がカディオに冷静さを取り戻させた。

 そうだ。ここは血と暴力の支配するモーグの地ではない。

 自分も、もう一軍の将ではなく、単なる一貴族に過ぎない。

 感情に任せて暴れたところで、ユエナを救えるわけもなかった。

 だが、その話を聞いた以上、王都でのんびりとしていることもできなかった。

 六年の遠征を終えて帰ったばかりだというのに、カディオはすぐにまた旅支度を整えた。

「ジャック王子からは、ゆっくり静養せよと仰せつかっておりますゆえ」

 カディオは父にそう言って微笑んだ。

「私の休暇は、ビケの地にて」



 ビケへと向かう旅の途上、カディオの心を占めていたのは苦い後悔だった。

 まさか、ユエナの身にこんなことが降りかかろうとは。

 幼い日の愚かな自分を殴り飛ばしたかった。

 あの頃、くだらないいたずらをしてユエナを困らせている場合ではなかった。

 こんなことになってしまうくらいなら、俺はあのとき勇気を出すべきだった。

 ユエナが第二王子の婚約者になったのだと知ったのは、彼女に会えなくなってから二年も経った頃だったろうか。

 他の貴族の子弟からそれを聞かされて、カディオはひどく落ち込んだ。

 それまでは、何となく彼女に会えたらどうにかなるだろう、昔のような関係に戻れるのだろう、という甘い期待を持ち続けていたからだ。

 だが、第二王子の婚約者ともなれば、自分とは別の世界の人だ。もう手が届くわけもない。

 幼い頃の甘い記憶、苦い記憶が全てひっくり返ったような気分になった。

 けれど、最初の衝撃が去った後で彼の心に残ったのはやはり、あの日心に刻み込まれた予感だった。


 俺はユエナを守る。そのために生き、そしていつかそのために死ぬのだろう。


 そう思い込むことで自分を慰めていたのだという側面も、否定はしない。

 俺は陰からユエナを支える。それが幼馴染としての俺の役目だ。

 自分で勝手に作ったそんな境遇に酔っていたのも、嘘ではない。

 この国を守ることが、ユエナの幸せにも繋がるのだと考えたのも、結局はその延長だった。

 だから、誰もが避けたモーグとの戦いに自ら志願したのだ。

 六年間の苦闘の間、カディオを支えていたのはいつもユエナを思う気持ちだった。

 どうか、ご武運を。

 別れ際のその短い言葉を、何度思い返したことだろう。

 俺がアシュトン軍とともにあれば。

 ここにファズメリアの旗を掲げ続けていれば。

 ファズメリアの平和は守られる。ユエナの笑顔も守られる。

 そう信じていた。

 しかし、それはカディオの中だけの都合のいい幻想にすぎなかった。

 カディオのいないファズメリアで、ユエナは家族を失い、地位を奪われ、辺境へと流されていた。

 こんなことなら、あの日。

 カディオは血が滲むほどに唇を噛みしめ、悔やんだ。

 ワイマー家の屋敷の門の前で立ち竦んでいたあの日、いっそのことユエナを奪い去ってしまえばよかった。

 照れ隠しに手を振りほどいた時の、ユエナの少し哀しそうな顔が脳裏をよぎる。

 俺は、ばかだった。

 こんなことになるのであれば、国も家も捨ててしまえばよかった。

 長きにわたる外国での生活は、知らず知らずのうちにカディオの視野を広くしていた。

 幼い頃の彼には国を出ることなど思いもよらなかっただろうが、今のカディオは知っていた。

 誇りさえ失わなければ、人はどこでも生きていける。

 この六年間、豊かとはとても言えない土地ばかりを歩いてきた。そしてそこで暮らす多くの人々を見てきたのだ。

 だから、ユエナさえ承諾してくれたなら、カディオは彼女と二人、どこででも生きていっただろう。

 だが、今のユエナは違う。

 家族も誇りも奪われ、ひとり最果ての地へ流された。

 彼女の心境を考えると、カディオは胸をかきむしられるようだった。

 恐るべきモーグと命を懸けて戦うことで、それで俺はユエナを守っているつもりだった。

 モーグの戦士を一人打ち倒すたび、ユエナの幸せが一つ増えるようなつもりになっていた。

 だが、何のことはない。ユエナを害する敵は国内にこそいたのではないか。

 俺はこの六年間、一体何をしていたのか。




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