第3話 どうか、ご武運を。

 ファズメリア王国にとって、強大な隣国アシュトン帝国との関係は常に最も重要な外交課題であった。

 国力の差が大きすぎるうえに、アシュトン帝国の支配階層を占める半狼半人の狼人ルプスヴィたちの考えは、普通のアシュトン人たちとは異なり、計り知れないところがあった。

 ファズメリア王国の歴代王たちは苦心してこの奇妙な帝国との友好関係を維持し、時には属国のような扱いにも耐えてきた。


 そのアシュトン帝国が、長年苦しめられてきた宿敵とも言える北の蛮族モーグ征伐の軍を起こすのだという。

 それに伴い、ファズメリア王国を含む近隣の友邦諸国にそれぞれ軍の派遣が求められたのだが、ファズメリアでは軍を率いる指揮官を引き受ける貴族が誰もいなかった。

 それも分からない話ではなかった。

 ほかの国相手の戦ならばともかく、北の蛮族モーグといえば死をも恐れぬ狂戦士たちの集団だ。

 あのアシュトン帝国を向こうに回し、一歩も引かず、それどころか幾度も辛酸を舐めさせてきた恐るべき野性の戦士たち。

 彼らの蟠踞する地に、本格的に攻め込むのだという。

 そんな戦に加われば、ファズメリアのごとき小国の軍勢などたちまち揉み潰され、指揮官も兵ともども惨たらしい最期を迎えるであろうことは容易に想像がついた。

 だから、軍務経験のある貴族たちほどその任務を忌避した。

 彼らこそ、モーグの恐ろしさを身をもって理解していたからだ。

 国王から指名された貴族たちも、病気や年齢を理由に逃げ回った。

 もはや誰でもよいから国のために行ってくれ、という雰囲気になった頃、名乗りを上げたのがカディオだった。

 誰もやらぬのであれば、俺が。

 暴漢の魔の手からユエナを救った幼き日以来、カディオにはどこか自分の死に場所を求めて生きているようなところがあった。

 俺はきっと、ユエナを守って死ぬのだろう。

 幼い時に彼の心に刻み込まれたその予感は、二十歳になって家を継いだ彼の中にもまだ鮮明に生きていた。

 ファズメリア王国だけが軍を出さないわけにはいかないし、軍には指揮官が必要だ。

 想像していたのとはだいぶ違う形だったが、近い将来王国の中枢に入るユエナのことを考えれば、これも彼女を守る一つの形と言えるだろう。そう思った。

 カディオのリオット家は決して武門の家系ではなかったし、一国の代表を務めるにはいかにも家格が低かった。

 しかしほかに志願者もいない状況で、カディオの出征はとんとん拍子に決まった。

 箔を付けるためにわずかな昇進すらあった。


 息子が一軍の将となったことを、父の前リオット卿は喜ばなかった。だが、行くな、とも言わなかった。

「お前には、すまないことをした」

 前リオット卿は言った。

「私にワイマーほどの才覚があれば、お前をユエナ嬢と添い遂げさせてやることもできたであろうに」

「何をおっしゃいます、父上」

 カディオは笑顔で首を振った。

「私もそこまで身の程知らずではありません。ユエナ様とは、最初から何もかもが釣り合わなかったのです」

 父がそのことを気に病んでくれていたということが、かえって申し訳なかった。それはもう自分の中では決着を付けた感情だったからだ。



 出征を前に壮行のパーティが開かれ、カディオはそこで再びユエナと顔を合わせた。

 今度は、言葉を交わすことはできなかった。

 カディオは曲がりなりにもこの酒宴の主役であったし、ジャック王子との結婚を目前に控えたユエナの周囲も前にも増して華やかで、常に人で溢れていたからだ。

 長い酒宴の途中、幾度かユエナと目が合った。

 昔のようにユエナが微笑んでくれるのではないか、とカディオは淡い期待を抱いたが、王子の婚約者は強張った表情でカディオを見つめるばかりだった。

 仕方ない。

 第二王子妃となられる方の微笑みなど、自分に与えられるべきものではない。

 そう考えることで、諦めをつけた。

 だが、パーティが終わり、ひとり回廊を歩いていたカディオは、不意に背後から呼び止められた。

「しばし。カディオ様、しばし」

 その声だけでは誰なのか分からなかった。

 だが振り返ると、薄暗がりに息を切らして立っていたのは、ユエナだった。

「ユエナ様」

 カディオは驚いて周囲を見回した。

 従者の姿はない。おそらくユエナはたった一人で彼を追いかけてきたのだ。

「お一人でいらっしゃいますか」

「どうして」

 息を整える時間すら惜しいように、ユエナは言った。

「どうしてあなたが行かねばならないのですか」

 それがモーグとの戦のことだと理解するのに、少し時間がかかった。

「私が自分で志願いたしました」

 カディオが答えると、ユエナは絶句した。

「いずれにせよ、誰かが行かねばならないものでございます。私には身に余る重責なれど」

 カディオはパーティで多くの人に答えたときと同じ言葉をなぞった。

「アシュトン軍の一翼として見事に戦い、ファズメリア軍の精強さをアシュトン人たちに見せつけてまいります」

「死んでしまいます」

 カディオの言葉は、ユエナの悲鳴のような言葉で遮られた。

「モーグは死をも恐れぬ恐ろしい戦士ばかりと聞き及んでおります。そんな者たちとまともに戦えば」


『カディオ。死んじゃやだ』


 不意に幼い日のユエナの声が聞こえたような気がして、カディオは戸惑った。

 目の前のユエナは、あの頃のおてんばな少女の成長した姿とは思えぬほどに美しかった。

 だがカディオを見つめるその目に、確かにあの日のユエナがいた。

「ユエナ様! ユエナ様、いずこに」

 回廊の向こうで、主人を探す侍女の声が聞こえる。

 ユエナはその声で我に返った様子で、はっと表情を改めた。

「申し訳ありません、はしたないところをお見せいたしました」

 自分の振る舞いを恥じたように、ユエナは目を伏せた。

「どうか、ご武運を」

 ユエナは言った。

「それだけをお伝えしたくて、お呼び止めしたのです」

 その静かな声は、第二王子の婚約者にふさわしい威厳を取り戻していた。

「ありがたきお言葉。どうか、ユエナ様も」

 カディオは答えた。

「お身体をご自愛くださいませ」

 それは本心からの言葉だった。

 ユエナ。お前こそ、身体に気を付けろよ。

 自分の中にもやはりまだ、あの日のいたずら好きな少年が生きていた。

 ユエナ様、と再度侍女の呼ぶ声がした。

 ユエナは真っ直ぐな目でカディオを見上げ、それから何も言わずに身を翻した。

 歩み去るその姿が見えなくなるまで、カディオはじっと見送った。

 その背中を目に焼き付けておこうと思った。

 ユエナは最後まで、振り返らなかった。


 それから数日後、カディオはファズメリア軍二千を率いて、アシュトン帝国へと旅立った。




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