第2話 カディオ、ずっとそばにいてね。
結局、逃げた犯人の男は捕まらなかった。
それでも頭を石で割られ、腕の肉をかみちぎられたのだ。相応の報いは受けたはずだった。
幸い、ユエナには怪我はなかった。
殴られ、蹴られ、投げ飛ばされたカディオの怪我は大分ひどかったものの、後遺症が残るほどでは無かった。
ユエナの両親からカディオは彼自身が大げさだと思うほどに感謝され、怪我が治ると二人はまた遊ぶようになった。
カディオは相変わらずユエナを呆れさせるようなくだらないいたずらばかり仕掛けたが、ユエナの態度はそれまでとは少し違っていた。
今までなら大きな声を出して怒って追いかけてくるような場面で、なぜか顔を赤くして黙り込んでしまう。
大きな口を開けて大笑いするような場面で、急に困ったようにうつむいてしまう。
カディオはユエナに笑ってほしくて、わざとふざけて回るのだが、結果は芳しくなかった。
ユエナの笑顔はだんだんと減っていった。
代わりにユエナは、カディオと手を繋ぎたがった。
「私から離れないでね。カディオ、ずっとそばにいてね」
それが彼女の口癖になった。
カディオにはそれがひどく照れくさくて、わざと乱暴に彼女の手を振りほどいたりもした。
けれど二人の関係は、それからじきに終わりを告げた。
ユエナの婚約が決まったからだ。
その頃、カディオの父リオット卿は相変わらずうだつの上がらない中位貴族のままだったが、ユエナの父のワイマー卿は非凡な政治的才覚を発揮し、ここ数年で王都に大きな地盤を築いていた。
その執念にも似た政治工作の甲斐あって、美貌の誉れ高い愛娘ユエナをファズメリア王国の第二王子ジャックの婚約者とすることに成功したのだ。
それについて、カディオは何の説明もされなかった。
別れの言葉さえ言えないまま、カディオはある日突然ユエナと会えなくなった。
もうワイマー家のお嬢さんには会えない。
父からはそう告げられただけだった。
どうして会えないんだろう。
ユエナは俺のことが嫌いになったのかな。
この間のいたずら、少しやり過ぎたかな。
次に会ったときにはちゃんと謝ろうと思っていたのに。
カディオは、ユエナに会えなくなったのはきっと自分のせいだ、と考えていた。
あれがいけなかったのだろうか、これがだめだったのだろうか、とあれこれ悩んだが、答えは出なかった。
結局は、もうユエナとは会うことができない、という厳然たる事実だけが残った。
一度、ワイマー家の門まで一人で行ってみたことがあった。
だが、都合よくユエナが出てくることはなかったし、カディオにも屋敷の塀を乗り越える勇気はなかった。
やがて時は経ち、カディオは十八歳になった。
ファズメリアの貴族のパーティに父の名代として参加したカディオは、そこでユエナと再会した。
実に、八年ぶりだった。
ユエナは美しく成長していた。
カディオが気後れして、声を掛けることもできないほどに。
その頃には、カディオもさすがに彼女の立場を理解していた。
王子の婚約者であるユエナは、すらりとしたジャック王子の隣に慎ましく立ち、王国の重鎮たちと笑顔で言葉を交わしていた。
カディオはそれを遠く離れたところから眺めることしかできなかった。
ユエナの美しい笑顔は、カディオとともに過ごした幼少期の笑顔よりも遥かに洗練されていて、カディオはその中に自分の知る彼女の面影を探そうとしたが、うまくいかなかった。
ユエナはもう、俺とは違う世界に住んでいるんだな。
そう思った。
それでもせっかくの機会に、一言だけでも挨拶をしておこう、と考えた。
慎重に慎重に、時機を見計らい、ユエナが一人になった瞬間に、カディオはそっと近づいた。
「ユエナ様」
何と呼ぼうか迷ったが、やはりそう呼ぶのが適切であろうと思った。
「お久しゅうございます」
ユエナはカディオの顔を見て、一瞬戸惑った表情を見せた。
「あなたは――」
「昔親しくさせていただきました、リオット家のカディオにございます」
そう名乗ると、ユエナの顔にさっと赤みがさした。
「カディオ」
ユエナは口に手を当て、そう言った。
「カディオ、あなたなのね。私よりも背が低かったのに」
「それはあの頃の話」
カディオは微笑む。今ではもうユエナの背はカディオの肩くらいまでしかない。
「背ばかりが大きくなりました」
「カディオ。私、あなたに」
ユエナが何か言いかけたとき、太った中年の貴族が割り込んできた。
「ユエナ様。先日は我が娘をお招きいただき、誠にありがとうございました」
若造はさっさとどけ、とその目が言っていた。
その男が自分よりもはるかに上位の貴族であることを見てとったカディオは、さっと身を引いた。
ユエナはまだ何か言いたそうな顔でカディオを見ていたが、カディオにはそれ以上ユエナの邪魔をするつもりはなかった。
カディオは静かに微笑んで会釈した。
「こうして久しぶりにそのお顔を拝見することができ、光栄でございました」
ユエナは口を開きかけ、それからやはり思い直したように口をつぐんだ。
その顔が一瞬ひどく悲しそうに見えて、カディオがユエナの顔を見直した時には、彼女はもう中年の貴族と笑顔で言葉を交わしていた。
カディオはもう一度小さく会釈し、その場を去った。
ユエナが自分のことを覚えていてくれた。それだけでも十分だった。
本当は幼い日のいたずらを謝りたかったが、そんな細かいことまではきっともうユエナも覚えてはいないだろうと思った。
パーティは滞りなく終わり、カディオはユエナへの想いを自分の心の奥深くに丁寧にしまいこんだ。
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