いっそのこと、奪い去ってしまえばよかった。
やまだのぼる
第1話 自分はきっといつか、こういう風に死ぬのだろう。
自分はきっといつか、こういう風に死ぬのだろう。
横たわる路地の冷たく湿った感触。
薄汚れた壁の上に見える空は、どこまでも青かった。
大人にあんな力任せに殴られたのは、初めてのことだった。
頭がぐらぐらする。全身がひどく痛む。
口の中は、流れてきた鼻血の味でいっぱいだった。
「カディオ! カディオ!」
自分の名を呼ぶ、ユエナの悲痛な声。
「しっかりして。死なないで」
ユエナのやつ、いつもはあんなに生意気なくせに。
俺の名前を、そんな風に呼んでくれるんだな。
カディオは思った。
ユエナが、こんなにも泣いてくれている。
こんなにも俺のことを心配してくれている。
それは、俺があいつを守りきれたからだ。
子供心に、そのことが無性に誇らしかった。
俺はきっといつか、こういう風に死ぬんだ。
カディオはもう一度そう思った。
それは確信めいた予感となって、彼の心に刻み込まれた。
カディオとユエナは、幼馴染だった。
親同士の関係が良好だったこともあり、物心つくころには親しく遊ぶようになっていた。
どちらもファズメリア王国の中位貴族の家同士だ。二人の両親には、いずれは二人を婚約者に、というつもりがあったらしい。
歳はカディオの方が一つ上だったが、態度も言葉遣いも考え方も、ユエナの方が彼よりもずっと大人びていた。
いたずら盛りのカディオはくだらないことばかりしでかしては、ユエナにいつもまるで年の離れた弟のように叱られていた。
それでもカディオはユエナと一緒にいることが楽しかったし、それはユエナの方でも同じだった。
「ねえ、カディオ。早くこっちに来て」
いつでもユエナはそう言ってカディオを呼んだ。
天使のように可憐な少女が、必ず自分を真っ先に呼んでくれる。
それがカディオにはひどく嬉しかった。
「なんだよ、うるさいなあ」
素直ではない年頃の彼は、わざと顔をしかめてそんな風に答えるのが常ではあったけれど。
その事件が起きたのは、二人が従者たちとともに街へ出かけたときのことだった。
建国広場の大きな噴水や市場に並ぶ様々な野菜や果物に、幼い二人は目を輝かせた。
だが、従者たちが目を離したわずかな隙をついて、ユエナが突然路地裏に引っ張り込まれた。
ユエナの腕を掴んだごろつき風の男は、そのまま彼女を抱きかかえてどこかへ走り去ろうとしていた。
男の目的が何だったのかは、今となってはもう分からない。
身代金目当ての誘拐か、幼女趣味の変態か、それとも美しく成長しそうな少女を奴隷商人に高く売りつけようとしたのか。
いずれにせよ、ユエナの危機に気付いたのは隣を歩いていたカディオだけだった。
とっさのことに何が起きたのか分からず、カディオは走り去っていく男の背中を見た。
そして、男に抱きかかえられたユエナと目が合った。
恐怖で声も出ない様子のユエナの目が、助けを求めていた。
助けて、カディオ。
そう訴えていた。
それを見た途端、カディオは考えるよりも先に動いていた。
助けなきゃ。
子供の足でも、少女ひとり抱えて走る大人に追いつくことは容易かった。
「ユエナを離せよっ!」
そう叫んで勢いよく男の背中に飛びついたが、次の瞬間、思い切り頬を殴り飛ばされた。
鼻から脳天まで稲妻に打たれたような衝撃が走り、目の前が真っ白になった。
それは、カディオが初めて受けた掛け値なしの暴力だった。
吹っ飛んで路地に転がったカディオを、男はさらに蹴り上げた。
殺される。
そう思うほどに、初めての痛みの恐怖は鮮烈だった。
「やめてぇ! カディオ!」
だが、ユエナのその叫び声を聞いた途端、カディオの身体中の血が沸騰した。
全身を竦ませていた恐怖は、一瞬でどこかへ弾け飛んだ。
連れの少年をこれ見よがしに痛めつけて、少女に恐怖を刻み込んだつもりの男は、唾を吐いてカディオに背を向けた。
待ってろ、ユエナ。
沸騰した血に衝き動かされるままに、カディオは上体を起こした。
そんな声で俺を呼ぶな。
地面に落ちていた石を拾いざまに、跳ね起きる。
今、助けてやるからな。
ものも言わずに飛び掛かり、男の後頭部を石で思い切り殴りつけた。
ユエナを傷つけようとするやつなんて、殺してもいいと思った。
一切の躊躇も手加減もない一撃だった。
「ぐあっ」
短く呻いた男の腕に、カディオはかじりついた。
「てめえ、ガキ。離せ」
ユエナを放り出した男は、額から血を流しながら必死の形相でカディオを引き剥がそうとした。
だが男に殴られても蹴られても、カディオは歯も折れよとばかりに腕に噛み付いたまま、決して離れなかった。
「いてえ、くそ。ぶっ殺すぞ」
男が喚く。その声で、さすがに表通りの通行人たちが気付いた。
「おい、お前! 子供相手に何やってる!」
大声でそう叫ばれて、男はついにユエナを諦めた。
カディオを引きずったまま走り出し、それでも離れない少年の腹に膝を入れる。
「うぐっ」
みぞおちを突き上げられ、さすがのカディオも顎の力が緩んだ。
男は力任せにカディオを投げ飛ばすと、転がるように逃げていった。
地面に転がったカディオは、口の中に残った肉片を吐き出すとそのまま仰向けに横たわった。
ほっとした途端、身体中がきしむように痛み出した。
「カディオ」
転がったまま動かない幼馴染に、ユエナが悲痛な声を上げる。
「しっかりして、カディオ。死んじゃやだ」
ユエナは腰が抜けて動けないようだった。座り込んだままで、カディオの名を呼びながら泣きじゃくっている。
ユエナが泣いてる。
泣いてるってことは、生きてるってことだ。
こっぴどく殴られて朦朧とした頭で、カディオは考えた。
つまり、ユエナは無事だったんだ。
俺がユエナを守ったんだ。
彼女を守れたという安堵と、彼女のために傷ついたのだという誇らしさ。それから、こんなにも心配してもらえているのだというくすぐったさ。
胸に湧き上がる様々な感情を噛み締めながら、カディオはそのとき不意に思ったのだった。
自分はきっといつか、こういう風に死ぬのだろう、と。
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