【感想】映画『ドライブ・マイ・カー』とクリスチャン・マークレー展

 ほんとうに今さらという感じだけど,なんか Twitter で「ミスター村上」についての文章がちょっと話題になっているのを見たのをきっかけに,ふと思い出したので.調べてみたらもう 2 年前でびっくりした.



 正直に言うと,私はあまり映画を観ない.村上春樹作品も高校生のころに何冊か読んだがまるでピンとこず,以来 10 年くらい読んでいない.なので,映画『ドライブ・マイ・カー』にもそこまで興味はなかったのだが,公開してすぐのころ,世間の評判はすこぶる良いようだったし,周囲の人たち何人かも絶賛していたので,「それなら観ておくか」という感じで観に行った.


 感想としては,そこまで良いと思わなかった.

 冒頭から「セックスでトランス状態になって物語を語り出す性に奔放な女」が出てきて,(数冊しか読んだことないくせに)いかにも「村上春樹」的だなあと心が離れた.かと思うと中盤,「二年後」の文字とともに場面が飛び,瀬戸内の芸術祭で多言語演劇を上演する,という,いかにも今風で「インクルーシヴ」な感じのオリジナルストーリーが始まり,前半と後半がつながっていないちぐはぐさを感じた.東浩紀はそれを,村上春樹作品をそのままやったら男性中心主義の誹りを避けられないところを巧みに回避していると好意的に評していた.けれど私には,そんなとってつけたような「回避」が肯定されるのはピンとこなかった.前半と後半が自然で納得感のあるつながり方をしていたなら,村上春樹作品の男性中心主義を発展的に乗り越えている,と解釈できたかもしれないけれど.

 作り手の演技論や登場人物の思考が,作中で明示的に言語化されてあからさまに説明されるのが好きでなかった.

 作中で登場人物たちが行う,抑揚を捨ててひたすら本読みを繰り返す稽古を,現実の役者たちも実践しているとのことだったが,それが映画のなかでどう有効に機能しているのかわからなかった(これは,私の不勉強が大きいかも知れないとは思う).

 などなど.


 しかし,最も受け入れ難かったのは,手話の扱いだ.作中,演出家である主人公は,日本語話者の役者には日本語のまま,韓国語話者の役者には韓国語のままセリフを喋らせる,という独特の演出法を用いる.手話を話す役者も登場する.彼女は当然,舞台上で手話で発話する.

 現実のこの映画でも,日本語話者の役には日本語話者の役者が,韓国語話者の役には韓国語話者の役者がキャスティングされている.ところが,手話を話す役にキャスティングされた役者は,「この映画のために手話を特訓した」そうだ.


 手話は言語である.Wikipedia の一行目にすらそう書かれている.子どもは手話を母語として獲得できる.聾者のあいだで自然発生的に生じた手話は世界各地に存在し,それらは音声言語と変わらない高度な文法を持っている.それらを実証する研究も何十年も前から存在する.

 以前,専門家ではないないなりに,認知言語学に近い分野の学会に顔を出したことがある.手話が言語であるという認識は広く共有されていて,音声言語による研究発表は手話に同時通訳され,手話による研究発表もあった.手話に関する研究もあった.

 それでもやはり,発表者の言語としても研究対象としても,手話は明らかにマイノリティだった.研究発表を見ていて,手話に対する理解が音声言語に比べてまだまだ進んでいないことは,素人目にもわかった.


 映画『ドライブ・マイ・カー』の主要なテーマのひとつは言語だった.作中劇では,異なる言語が異なるままに舞台上に並んで立つことが,最重要のコンセプトとされていた.だが,現実の映画においては,手話と手話以外の言語とは,並んで立っていなかった.

 作中劇のラストシーンでセリフを任されたのは手話だった.とてもエモーショナルなシーンだった.けれどそれは,良く訓練されたエモーショナルな身振りでしかなく,言語ではなかった.



 数ヶ月後,私は東京都現代美術館で開催されていたクリスチャン・マークレーの個展『トランスレーティング[翻訳する]』に足を運んでいた.

 最初の部屋の壁には,ぐるっと一周するように日本語の文章が書かれていた.近寄って読んでみると,音楽に関する描写が並んでいた.音楽に関する色々なレビューから文章を切り抜いてそれっぽくつなげたものを,展覧会開催のたび,開催地の言語に翻訳して展示する,《ミクスト・レビューズ》という作品だった.文章を頭から読んでいくと,当然,整合性は取れない.それまではなかったはずの楽器が登場したり,いつのまにか曲のジャンルが変わっていたり,クライマックスが何度も訪れたりする.けれど文章を読んでいると,現実には不可能なはずの架空の音楽が,頭のなかで再生される.不思議な感覚だった.


 さらに部屋を進んでいく.さまざまな映画からシーンをサンプリングして 4 画面に再構成した《ビデオ・カルテット》,無音の部屋の壁にコミックから切り抜かれた擬音語の描き文字が次々と降ってくる映像が投影される《サラウンド・サウンズ》,複数のレコードを刻んでつなぎ合わせ再び 1 枚のレコードにした《リサイクルされたレコード》,…….


 最後の部屋に展示されていたのは,《ミクスト・レビューズ(ジャパニーズ)》という映像作品だった.タイトルにある「ジャパニーズ」は,いわゆる日本語ではなく,日本手話である.映像のなかでは,ひとりの人物がまっすぐにこちらに向き合い,展覧会冒頭に展示されていた《ミクスト・レビューズ》の日本手話への再翻訳を読み上げていた.

 私は手話を話せない.けれど,映像の中の手話は,ところどころ,冒頭で読んだ《ミクスト・レビューズ》の記憶と結びついた.頭のなかに再び音楽が流れた.さっきとは少し違う,再翻訳された形で.

 知らない音声言語を聞くと,ただの無意味な音の羅列を聞いたときとは違って,意味はわからないながらもそれが言語であるとなんとなくわかる.あの感覚と似て,目の前のそれが言語であると,なんとなくわかった.『ドライブ・マイ・カー』のことを思い出した.あの映画を観たとき,この感覚はあっただろうか.



(なんだか映画をストローマンにして現代アートを褒める人みたいになってるけど,単純に,私が映画を観てる量より現代アートを観てる量が多い,というのが主な理由です.自然,良いと思う映画よりも良いと思う現代アートのほうが多くなる.「良くねーー」と思う現代アートもまあ多いんですが.あとは,メジャーなコンテンツにモヤッとしたひとたちを,現代アートのほうに引っ張ってこれないかな,という思いもあります)

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