第32話 いただきます

 氷雨と数日もすれば忘れるであろうどうでもいい話をしながら、太一がどれくらいボールから逃げられるかを観察して時間を潰した後、藍斗はドッジボールをしていた。

 ギリギリのところで飛んでくるボールをサッと避けたり、余裕がある時はキャッチをしたりしてしぶとく生き残っている。


 ――久し振りに楽しいなあ。

 休み時間にクラスメイトとグラウンドでドッジボールをしたりして過ごすのは小学生くらいだろう。藍斗はそうだった。中学生ともなればわざわざグラウンドまで行かなくなるし、教室にボールを置いてることもなくて外で遊ぶことは滅多になくなった。

 だから、こうして体育の授業でしかしなくなったドッジボールで遊ぶことが出来て今日の授業はとても満足している。


 飛んできたボールをキャッチして、相手チームの隅っこの方にいる敵に向かって投げる。一見、トロくさそうに見えていたが意外とすばしっこくてボールを避けられた。

 結果として誰もいない所にボールが飛んでいってしまったため、同じチームの外野にいる味方がボールを小走りで取りに向かう。


 その隙に出来たほんの少しの時間で女子の方に視線を向ける。女子の方でも二戦目が始まっていて氷雨の姿を探した。

 慌ただしく動く中から氷雨の姿を見つけ出すのはとても簡単だった。


 ――もう外野にいる。

 太一が出ていた一戦目が終わり、二戦目が始まる前はまだ氷雨はこっちにいた。藍斗が出場するタイミングで用事もなくなったようで向こうに戻る、と戻って行ったが先に二戦目が始まったのは男子の方だ。

 女子の方が後に始まったのに氷雨はもう外野に出ている。始まってからしばらくして、無念にも当てられてしまったのだろう。


 ――一緒に生き残ろう、って約束したのに氷雨らしい。

 氷雨と別れる前、氷雨と約束をしたのだ。グータッチという、いかにも氷雨が好きそうな行動を求められながら。

 少しでも体育が苦手な氷雨が楽しんでくれるならと思って応じたはずなのに既に氷雨は外野で呆然と突っ立っている。


 身長が大きい氷雨は目立つ。そのうえ、動作がゆっくりめだから相手チームからすれば氷雨は格好の的だったのだろう。

 ――氷雨の分も俺は最後まで生き残るよ。

 そう決意した矢先だった。氷雨のことを見ていたせいで飛んでくるボールに反応するのが遅れて、藍斗の太ももに勢いよくボールが当たった。


「土雷、アウト」


 今のはなしにしてほしい、などとわがままを言えるはずもなく藍斗は素直に外野に赴く。足取り重く歩いていると不意に視線を感じ、その方角に目を向ける。

 視線の先には氷雨がいた。よくする親指を立てていて、遠くからでもよく見えた。一緒に外野で頑張ろう、と励ましてるつもりなんだろうか。


 氷雨の謎行動を考察しているとちょうど氷雨の元にボールが届いた。届いたばかりのボールを氷雨は敵に向かって思いっきり投げるもボールはあらぬ方角へと飛んでいく。

 氷雨が運動音痴だということを藍斗は理解した。



 体育が終わり、教室での授業が進んでいく。

 週明けの月曜日に一時間目からの体育は想像以上に疲労が多く、藍斗は先生の話があまり耳に入ってこない。

 ぼーっと頬杖をつきながら前の方を向いていると視界の端でゴソゴソと動く物陰を捉えた。目線だけを動かすと氷雨がカバンの中を漁っている最中だった。


 教科書でも探しているのだろうか、と思って見ていると氷雨がカバンの中から取り出したのはおにぎりだった。

 満足そうな笑みを浮かべておにぎりを開け始める氷雨に藍斗は驚きを隠せなかった。疲労感も一気に吹き飛んだ。


「……氷雨。何してるの?」


 授業の妨げにならないように小さな声で呼び掛ける。

 すると、氷雨は得意気に口角を上げながら「お腹空いた」とだけ答えた。


 そんなに動いている風には見えなかったがドッジボールのせいでお腹が空いてしまったのだろう。

 お腹が空いて我慢出来なくなったから授業中におにぎりを食べようとしている、という状況の判断が藍斗の頭の中で整理された。

 けれども、このまま黙って見ていられる訳がなかった。


「先生に見つかったら怒られるんじゃないか」

「大丈夫。私は早弁のプロだから」


 ブイサインを見せられても藍斗は何が大丈夫なのか全くもって理解出来ない。目線だけを動かし、黒板の方を見る。先生は黒板に字を書いていて気付いた様子はない。それでも、隣から聞こえる海苔のパリパリという音を耳にするのは時間の問題だろう。

 氷雨と先生をハラハラしながら交互に見やる。授業なんて気が気でなく、さっきまでの倦怠感も吹き飛んでしまった。


「いただきます」


 こっちの心配など気にもせずに手を合わせてから氷雨はおにぎりを口にする。その瞬間、バリっと一際大きな海苔が割れる音が教室に響いた。


「ん、今の音は何だ?」


 字を書く手を止めて、先生が振り返ってくる。何も悪いことをしていないのに、藍斗は隠し事をしているような気になって背中を丸めた。


「誰か授業中にゲームでもしてるんじゃないだろうな?」


 先生からの問い掛けに教室の中が騒がしくなる。空気もピリッとしていて、緊張が走っている。そんな中、バリッという音がもう一度鳴った。音を出したのは氷雨だ。氷雨はピリついた空気など眼中にない様子でおにぎりを食べ進めていく。

 その姿に一人。また一人とクラスメイトの視線が氷雨に集まってくる。終わった、と藍斗は頭を抱えた。


「おい、氷堂。何をしてるんだ」


 注目されている氷雨に先生も気付いたのだろう。氷雨の元までやって来てはやや怒り口調になっている。

 この先生は去年まで卒業していった三年生の体育を担当していて、怒ると怖いと専ら噂がある。巡り巡って今年からは二年生の現代文を担当するようになったようだが、怒らせないようにと授業中は誰もが静かに話を聞いている。


「お腹空いた」


 怒らせては怖い相手だと氷雨は知らないのだろうか。顔色一つ変えずに答えた氷雨に先生の方が顔色を変えた。


「お腹が空いたからといって授業中に飲食するなんて言語道断だ!」

「でも、お腹が空いて力が出ない」

「高校生にもなって、そんな言い訳が通用すると思っているのか」

「去年は通用した」


 去年、氷雨と同じクラスだった委員長から氷雨は早弁の常習犯で先生達も見逃しているという話を聞いてはいたが、今はそんな雰囲気ではない。淡々と告げる氷雨に対して先生は横から見ても分かるように眉間にしわを寄せている。


「去年は通用しただと? 先生方は何をしていたんだ」

「見て見ぬふりをしてくれた。優しかった」

「そうか……だから、そんな風にルールを守れない生徒に育ってしまったんだな。これは没収だ」

「あっ」


 氷雨の手から食べかけのおにぎりが先生の手によって取り上げられた。


「か、返して」

「返すはずがないだろう」


 手を伸ばして氷雨がおにぎりを取り返そうとする。けれど、氷雨よりも背が高い先生が挙げた手には届かない。


「これに懲りたらもう二度と授業中に飲食をするんじゃないぞ。分かったか?」


 言い聞かせるように言ってくる先生を氷雨は無視した。目の前にいて聞こえているのは明らかだ。なのに、返事をしない。拗ねているからわざと無視しているのだろう。

 そんな態度の氷雨に先生も腹を立てたらしい。


「何だ、その態度は。文句でもあるなら言え」

「……嫌い」

「そうか。じゃあ、無理に授業に出なくていい。廊下に立ってろ。他の生徒の邪魔だ」


 立ち尽くす氷雨にそう言い残すと先生は授業を再開するために教壇へと戻っていく。途中でゴミ箱におにぎりを廃棄して。


「さあ、授業を再開するぞ」


 何事もなく授業が再開した。言われたページまで教科書を捲る音が聞こえてくる。


「……氷雨」


 黒板に字を書く音。それを板書する音。それらが聞こえても藍斗は微動だにしない氷雨から目を離せなかった。

 おにぎりを廃棄されたことがよっぽどショックだったのか氷雨は顔色を曇らせている。


 こういう時、何て声を掛ければいいのだろう。これまで、太一が授業中に皆の前で先生から怒られたことはなく、こういう状況になった時に正しい声の掛け方が分からない。

 そもそも、声を掛けられたくすらないのかもしれない。もしも、藍斗が皆の前で怒られたりすれば恥ずかしくてその話題に触れてほしくないと思ってしまう。


 そんなことを考えていれば覚束ない足取りで氷雨が教室を出て行った。廊下へ立ちに向かったのだろう。


 どう考えても氷雨が悪くて、先生の言っていることは正しい。授業中に飲食をしてはダメだ、というルールが生徒手帳に載っている校則の中に含まれているのかは読み込んでいないから知らない。

 それでも、緊急事態を除いて授業中に飲食をするのは常識的な知識としてダメだと誰もが分かっていることだ。


 氷雨が叱られるのも当然だ。そもそも、去年の内に誰一人として教師が注意してこなかったからこそ氷雨は調子に乗って早弁の常習犯にまでなった。今以上に素行が悪くならないよう、ここで一度痛い目を見ている方が氷雨のためにもなる。

 と、頭では分かっている。分かっていても藍斗は氷雨が悲しんだままなのは嫌だった。


 カバンの中から通学途中で購入したおにぎりを取り出して藍斗は手を合わせた。


「いただきます!」

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