第21話 名前で呼んで

「そうだ。こうしてる場合じゃなかった。藍斗、屋台を見に行こう。いっぱいあった」


 ふんす、と鼻息を荒くした氷雨が思い出したかのように口にする。


「え、でも、先に俺が行ってもいいのかな?」

「いいわよ、行ってらっしゃい。ここは、私達が見ておくから」


 涼花達を差し置いてもいいのだろうか、と不安になっていればそう言われた。


「そうそう。これで、食べたい物、食べたいだけ買ってね。土雷くんも」


 ついでに財布から五千円札が取り出され、渡された。氷雨の手にだが。


「いや、悪いですよ。俺、ちゃんと財布持ってますし」

「いいのいいの。いつも、氷雨と仲良くしてくれてるお礼だから」

「遠慮しなくて選んでいい。これは、藍斗へのお礼」

「そんな、俺の方こそなのに……でも、そういうことならお言葉に甘えます。ありがとうございます」


 今日のために財布の中身を裕福にして来たがお礼と言うなら甘えておく。甘やかしたい大人に対して素直に受け取っておくのも相手を立てるためには必要なことだ、とバイト先の先輩もそう言っていた。


「じゃあ、行こう藍斗。待ち切れない」

「うん」

「氷雨を質の悪い酔っ払いなんかに近付けないことと氷雨を迷子にさせないこと。分かったな」

「はい、気を付けて行ってきます」


 氷雨の案内に従って屋台が並んでいる場所を目指す。雨太から言われたことに細心の注意を払いながら。

 それでも、いつ雨太が言ったようなことが起きてもおかしくない状況は変わらない。


 すぐ近くにはビール缶を片手に盛り上がっている集団がいれば、遠くからは怒鳴り合っている声が聞こえてくる。どっちが先に場所を取ったかで喧嘩でもしているのだろう。


「藍斗、桜が綺麗」


 そんな中でも、氷雨は我関せずといった様子で桜を見ながらのんびりしている。どこに行っても氷雨は氷雨のまま変わらない。ちょっと間抜けに口を開けながら桜を見上げているのが可愛らしい。

 そんな氷雨は桜よりも見ていて癒やされる。

 つい、藍斗はほへーと感心している氷雨に笑みを漏らした。


「氷堂さんはどこに行っても氷堂さんのままで安心するよ」


 すると、桜を見ていたはずの氷雨がこちらを向いて不思議そうに首を傾げた。


「名前で呼ばないの?」

「えっ、あー、名前で呼んでたのは氷堂さんって呼べばみんな反応してややこしいからで二人の時は別にいいかなって」


 正直なところ、名前で呼ぶのはどうにも照れくさくてよそよそしくなってしまう。それに、名字で呼ぶのに慣れてしまい、藍斗は何も気にしていなかった。

 だが、氷雨がぷくっと頬を膨らませて藍斗は何だろうか、と首を傾げる。


「じゃあ、もう、藍斗に呼ばれても返事しない」

「なんで!?」

「名前で呼ばないから」

「そんな無茶苦茶な」

「無茶じゃない。私、名前で呼ばれるの少ないから藍斗が氷雨って呼んでくれて嬉しかった。でも、呼ばないならもう返事しない」


 氷雨は少々、年相応よりも幼い部分がある。

 けれど、いくらなんでもそんな理由で口を聞いてもらえなくなることはないだろう。


「氷堂さん」

「つーん」

「氷堂さん。氷堂さん」

「つーん。つーん。つつつーん」


 試しとして、何度か名字で氷雨を呼んでみたがそっぽを向かれてしまった。

 どうやら、氷雨は怒っているらしい。

 そんな馬鹿な名前で呼ばれなかっただけで幼稚な――とは思うけれど、こんなところを雨太に見られたら何を言われてされるのか分からない。

 それに、何よりも氷雨に返事してもらえないのは嫌だ。


「ひ、氷雨さん」

「どうしたの?」


 名前で呼べばこれまでの態度がまるで嘘だったかのようにすぐに返事をしてくれた。これからは、名前で氷雨を呼ぶしかなさそうだ。


「何? どうしたの、藍斗」

「や、返事してもらえるか確認しただけ」

「どうやって?」

「どうって……名前呼んで」

「誰の?」

「氷雨さんの」

「むふふー」


 名前で呼ばれるのがそんなに嬉しいのか氷雨は凄くご機嫌になっている。唇をニヤニヤとさせて、目を細めている。名前で呼ぶのはまだ抵抗があるが、これはこれで可愛らしい、と藍斗は思った。


「藍斗」

「うん?」

「氷雨さん、じゃなくて氷雨でいい。私も藍斗って呼んでるから同じ方がもっと仲良し」

「分かった」

「じゃあ、実践」

「今する必要ある?」

「私が聞きたいからある」

「自分勝手な……」


 とは言いつつも、ワクワクした様子で期待に満ちた眼差しを向けてくる氷雨からは逃れられそうにない。

 それに、涼花達から現金という生々しいプレゼントまで貰ってしまった。その恩に報いるためにも氷雨の望むことは叶えてあげるべき――なのだが。


 いざ、口にしようとすると呼び捨て、という縛りに緊張が伴う。藍斗がこれまで女の子を名前で呼び捨てにしたことなど妹の愛澄でしかない。

 だからこそ、同級生の女の子を相手にしていると実感すると言葉がなかなか喉を通らない。


 けれど、いくらなんでも名前を呼ぶくらいで緊張し過ぎだと自分を戒めて藍斗は口を開く。


「氷雨」


 口にしてしまえば、実にあっさりとしていて。

 でも、口にしたドキドキはなかなか消えなくて。

 耳が熱くなるのを藍斗が感じていると氷雨は親指をグッと立ててきた。満足した、のだろう。


「意外と藍斗は照れ屋?」

「照れ屋というか照れくさいんだ……女の子を名前で呼ぶのは氷雨が初めてだから。氷雨はないの?」

「ない。藍斗は呼びやすい」

「そっか」

「藍斗はなんでそこまで照れくさい?」


 聞かれてちょっと考える。


「なんでだろう?」


 答えは分からなかった。

 女の子の名前を呼ぶ機会がないままに生きてきたからなのか。それとも、相手が氷雨だからなのか。

 そんな風に考えていれば、盛大な腹の音が氷雨の腹部から聞こえてきた。驚きながら氷雨を見れば、元気が失われていくみたいにお腹を擦っている。


「屋台、見に行こっか」

「うん。屋台までもう少し」


 考えるのをやめて、氷雨と屋台を目指す。

 お腹が鳴っても恥じらい一つ見せない氷雨には、もしかすると照れくさいという感情がないのかもしれない。

 氷雨の隣を歩きながら藍斗はそんな風に思った。

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