第8話 一緒に勉強
一瞬、藍斗は思考が止まりかけたがすぐに冷静に答える。
「うん、帰るよ」
「お茶なら出す」
「いや、お茶の問題じゃなくて家に晩ご飯あるから食べないとだし」
「それは、早く帰った方がいい」
「あっ、うん……じゃあ、また」
「送ってくれてありがとう。おやすみ」
マンションに入って行く氷雨を見送って、藍斗も駅を目指した。氷雨の住んでいる地域は初めて降りたので道はうろ覚えだったがマンションと駅が離れていないこともあり、すんなりと着くことに成功。
タイミングよく、すぐにホームにやって来た電車に乗り込んだ。座ることが出来たので座席に腰を下ろし、一息ついたところで藍斗は背中を丸めた。
額に手を当てて、心中で「えーーー!」と叫ぶ。
びっくりしていた。氷雨から家に寄らないのかと誘われたことに。
五日前に話すようになった男を家に招いたりするものなのだろうか。しかも、一人暮らしで親もいない家に。
というか、気にしないようにしていたが氷雨の距離がずっと近い。いきなり名前で呼んできたり、遊びに誘ってきたり、飲みかけを渡してきたり、勉強しようと言ってきたり、家に誘ってきたり。
気にし過ぎなだけなのかもしれないが、今までろくに女の子との縁がなかった藍斗はどうしても戸惑ってしまう。
だからといって、それが別に嫌じゃないのが本音なのだが。
家に寄った方がよかったのか。晩ご飯をダシにして正解だったのか。
ずっとそのことばかりが頭の中を巡りながら、藍斗は帰宅した。
次の日の昼休み。
早めに弁当を食べ終わった藍斗は氷雨の教室を訪れていた。
今朝も電車の中から氷雨の姿を探したが見つからず一緒に勉強の話を出来なかったからだ。
昼休みとなれば、他クラスの生徒が他クラスの教室に集まることはよくある話で教室のドアは前も後ろも開いていた。
後ろの方から教室を覗き込んで氷雨の姿を確認する。
「あ、藍斗」
確認する必要もなく、氷雨は後ろのドアに一番近い席に座っていて、ばっちり目が合った。
「今、大丈夫?」
「問題ない」
「よかった。あのさ、今日、一緒に勉強しようって話になってるでしょ」
「うん」
「どこでするか今のうちに決めておこうと思って。何か軽く食べられる場所がいいよね。ファミレスかな」
氷雨のことだ。勉強したからお腹が空いた、と言い出すのは目に見えている。学校から駅までの道中にファミレスはないが電車に乗って出掛ければファミレスなどすぐに出てくるだろう。
「飲食店はダメ。食べる方に集中して勉強が手につかない」
「昨日はそんなことなかったくない? 机に教科書広げて頑張ってたの見えてたよ」
「あれは、ポテトの背比べをしてた」
「はい?」
聞き慣れない単語に藍斗は思わず首を傾げた。
「頑張ろうと思ったけど、ポテトを見てたら全部の中でどれが一番長いのか比べたくなってトレーの上に並べてた」
「そうなんだ」
「楽しかった」
Vサインを作ってアピールしてくる氷雨に藍斗は額に手を当てた。バイト中に見た、必死に手を動かしていた氷雨は勉強しているからだと思っていたが全然違ったらしい。
テストにおいて、自分が危機的状況だということをいまいち理解していないのかもしれない。楽しかった、じゃないよ、と藍斗は言いたかった。
「じゃあ、氷堂さんはどこがいい?」
「図書室」
図書室は飲食厳禁というルールがある。
そこならば、氷雨も集中出来る、という自信があるのだろう。
「分かった。じゃあ、放課後に図書室集合ってことで。中で落ち合おう」
「うん」
「それじゃ、俺はこれで」
「藍斗、グミあげる」
用事も済ませたし教室に戻ろうとすれば、氷雨がカバンからグミを取り出して見せてきた。弾力があって噛み心地抜群のコーラ味のグミだ。
「はい」
「あ、ありがとう」
いる、と返事してもいない内に氷雨から一粒渡されて藍斗は口に入れる。パッケージに書いてある通り、弾力があって噛み心地抜群のコーラのグミだ。
「どう?」
「美味しい」
「じゃあ、もう一つあげる」
もう一つ、グミを貰った藍斗は口にする。もぐもぐ噛んでいれば氷雨が嬉しそうに見てきていて、何事だろうかと藍斗は疑問に思いながら飲み込んだ。
「カバンにグミ入れてるんだね」
「グミは女子にとっての必需品」
「そうなんだ。知らなかったな」
「勉強になってよかった。テストに出るから大事」
「氷堂さんのおかげで変なミスしなくて済むよ」
表情に変化がなくて伝わりにくいが氷雨は冗談を言ったのだろう、と察して藍斗は相手をする。
すると、氷雨は楽しそうに笑った。
どうやら、この返しで正解だったらしい。藍斗はちょっと嬉しくなった。
放課後になり、藍斗は約束していた通り、図書室へと向かう。
図書室は、常時開放されていることが多く、特にテスト前には藍斗達と同じように勉強するために利用する生徒がたくさんだ。
藍斗が着いた頃には既に席の半分ほどが埋まっていて藍斗は氷雨の姿がないことを確認してから座席を確保した。
氷雨を待っている間、教科書とノートを出して授業の復習をしておく。藍斗の勉強方は、基本的に復習しか行わない。授業で習ったことをしっかり理解しておけばテストは問題なく過ごせる、と一年を通して学んだからだ。
「お待たせ」
ペンを走らせていたところで声を掛けられ、顔を上げれば氷雨が横に立っていた。
「ううん、待ってないよ」
「席、確保してくれてありがとう」
「どういたしまして。じゃあ、勉強しようか」
「うん」
「え?」
空いていた藍斗の隣の椅子に座った氷雨に藍斗は思わず声を出していた。
氷雨は不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや、前に座るんじゃないんだと思って」
一緒に勉強、と聞けば向かい合って座るのを藍斗は想定していた。
しかし、正面ではなく氷雨が隣に座ってきて少々驚いただけである。
「こっちの方が藍斗に教えてもらいやすい」
「そうかなあ。というか、教えるのはあんまり自信ないや」
「大丈夫。藍斗の言葉を上手に噛み砕く予定だから藍斗は私の知らないことをたくさん教えてくれたらいい」
「氷堂さんも俺とそう変わらない内容の授業を受けてるはずだよ」
クラスが違えど先生は同じだ。授業内容もクラスによって変わるはずもない。
とりあえず、教えられるだけ頑張ってみよう、と藍斗は気合いを入れて氷雨との勉強会を始める。
「それで、氷堂さんは何が苦手なの?」
「全部」
「全部かー」
「特に数学が苦手。訳が分からない」
「分かる。数学ってめっちゃ難しいよね」
「先生はいっつも呪文を唱えてるんだと思う。国語も英語も」
「いっぱい増えたね。とりあえず、数学から始めようか。公式さえ覚えられたら解ける問題もあるだろうし、頑張ろう」
「うぃ」
敬礼のポーズを取った氷雨に藍斗は苦笑して、氷雨が問題を解くのを見守る。途中、氷雨が躓けば藍斗が解いている解き方をなるべく噛み砕いて伝わりやすように教えた。
「ここまでで分からないところはある?」
「ううん、大丈夫。藍斗の教え方、上手」
「それを聞いてちょっと安心した」
「藍斗先生、だね」
藍斗様とか藍斗神とかよりはずっとましなあだ名で藍斗が気持ちよくなった時だ。
「ほ、本当に……本当に勉強しているんだね、氷堂さん!」
静かな図書室に大きな声が響き渡った。
うるさいなあ、と明らかな煩わしい視線を周囲から向けられているメガネを掛けた男子生徒へと藍斗も視線を送る。
しかし、男子生徒はこちらへは脇目も振らずに氷雨へと近付いては机に広げられている教科書やノートを見て、嬉しそうに表情を明るくさせた。
「ついにやる気になってくれたんだね、氷堂さん。僕は嬉しいよ」
目に涙まで滲ませた男子生徒に藍斗は引きつつ、氷雨にこそっと聞く。
「……誰?」
「クラスの委員長」
わずかに顔をしかめた氷雨が答えた。
「氷堂さんには僕が勉強を教えてあげるよ。万年学年一位のこの僕が。だから、一緒に勉強しよう」
委員長は得意気に氷雨を誘う。
学年一位ってスゲー、と藍斗は感心した。自分が教えるよりも委員長に教えてもらった方が氷雨のためにもなる。氷雨の赤点回避率が少しでも高くなるのならそれにこしたことはない。
「嫌」
首を横に振って、氷雨は短くはっきりと断った。
同じような断られ方をしたことを藍斗は思い出した。
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