第2話

 秋子が老人ホームで弾いた最初の曲は、それこそ今朝の、ささやかな歓喜をイメージした。しかしそれをはっきりと感じ取れたのは、聴衆のなかで雪子だけだろう。

 妹の、白鍵にすいついた指から放たれる、茶目っ気のある音々を雪子は聴いた。それはデイルームの、消毒液の臭いを陽光でまぎらわすうさんくさい幸福とはちがう、小鳥のさえずりや川のせせらぎに満たされた世界だった。秋子の演奏は技術的につたないところがある。細かくいえばテンポの乱れや、音の強弱が狂うところがある。しかし弾きながらの秋子の笑みはその技術の不出来さえもからかった。指の位置をちがえても、片目をつむり、舌をちょっと出して、それでよかった。

 聴衆の老人らは、安っぽい茶色のスタッキングチェアに丸まりながら、人生の手触りを思い出している。出どころの知らない、しかしたしかな幸福のぬくい余韻。彼らは瞼を閉じながらその裏で、一面のアルバムをめくった。たいした時事もない日常的な白黒のフィルムは、幸せで可愛らしい。彼らはほんのすこしだけ、ふしぎと泣きたくなった。

 秋子が弾き終えると聴衆たちは拍手を一拍遅れた。

 秋子が次の曲に移るまでいちどの深呼吸しか間はなかった。それは回想に忙しい年寄りたちには短すぎたが、出だしの高音の連なりはその回想のまま、人生のもうひとつの側面、無情への変貌を彼らに察知させた。春ははじまりも不確かであればその終わりもぼんやりとしている。太陽は熱せられ、そしてまた冷え、気づけば冬の、淋しい音が聴こえる。

 曲は、有名な映画音楽だった。秋子はその映画を観たことはなかったが、そのかわり或る軍人のイメージをこしらえていた。スローテンポの演奏、それが哀しみにくれたスキャットになるよう秋子は弾いた。

 軍人は、部屋の一隅に座りこむよりほかない。部屋は荒らされ、木目の床に粗暴な土くれが散っている。軍人の世界からは温かみが消え、また涙も消えた。ただあるのは色馳せた無情な雪のみである。灰雪が、家族の足跡まで潰していく。……

秋子の白鷺のような指は、永い雨の飛沫に見えた。

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