ピアノの家のふたりの姉妹

九重智

第1話

 ピアノのかすかな音で秋子は起きた。三船家において、朝日にまぎれて幹音が漂うことは珍しくない。姉の雪子は、朝に弾くのが好きだった。

 華奢な、白鳥のような身体をゆっくりと持ち上げ秋子は部屋の東窓から音の出どころを眺めた。古典的な日本家屋のこの家は、庭園のさきの生垣沿いに白壁の倉庫があって、雪子がピアノを習うときそこを防音の仕様にした。外観はかわらずむしろ風化して剥がれかかっているが、音色がうちから奏でられ、思わず漏れたその廃屋は、草花の茂みに潜められた年代物のオルゴールのようである。

 階下まで降り、玄関をすぎて、秋子は倉庫の戸をたたいた。はじめの数打では気づかず、間を空けた二回目のノックで音はやんだ。

 秋子は走って庭石の背にかくれた。縁側から倉庫を遮蔽する位置にある庭石は、秋子よりずいぶんと大きい。引き戸が開けられると、雪子の丸い顔が出るのが見えた。姉のところからでも半ば露わになった秋子の目や輪郭が見えるはずだが、雪子は気づいていない。

「わあ!」

 と秋子は駆け出して姉をおどろかせた。雪子は動揺した感じもない。そのかわり、「あら、そこにいたのね」と微笑んだ。

「もうちょっとびっくりしてくれないと困るわ」

「このくだりもう何十回もしたんだから、おどろくのも億劫なのよ。ねえ、入ってらっしゃい」

 倉庫は防音材で遮られ、窓から光が射さず、天井から吊るしたLED電球が小さな太陽のようであった。光量の足らない太陽は片隅に暗がりを残し、その昼夜の混在が、中心に置かれたピアノをより秘匿された快楽のように演出した。開きっ放しの鍵盤蓋にはきれいにゆがんだ姉妹が映っている。

「ほら、今日はアキの発表だから」

 雪子は二人掛けの椅子に座って、もう片方の空席を軽くたたいた。

「別にたいしたことではないわ。ただのボランティアよ」

「そういうこと言っちゃだめよ、人がいて、聴いてくれるだけで大事な発表よ」

 雪子はもういちど席をたたいた。「ほらはやく」

 秋子はたたかれた隣に座った。鍵盤に手をかけず、身体はなついた猫のように上体をすり寄せていた。雪子が、「弾きにくいわ」といった。そういいながら曲は、遠出する列車のようにゆったりとした緩慢さではじまった。

「ねえ、雪ちゃんは今日来てくれる?」

 と妹が訊いた。

「ええ、もちろん」

「なら、今日うまくいったら、今度また一緒に弾きましょう」

「なによそれ、今でいいじゃない」

 姉は笑った。

「いやよ、雪ちゃんのほうがピアノうまいんだから。一緒に弾くためにまた練習が必要なの」

「そんな気負ってやられるのも窮屈よ」

「大丈夫よ。きっと夢中になれるわ」

「いま弾いてもきっと夢中にやれるわ」

「ねえ、わたしはご褒美が欲しいの。なくても頑張るけど、あったらもっと頑張れるわ。だから、ね、お願い」

 雪子はうなずくかわり、妹の額にキスをした。

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