第8話
ラキタルが嬉しいと言っていた、彼からの知識を書き貯めた本棚。
前は忘れないうちにと毎日少しずつでも書いていたのに、今はすっかり手が止まってしまった。
どうして書く気になれないのだろう。自分のことなのにわからない。
そして、止まったのは手だけだろうか。何だか時間そのものが動いていないような気がする。ラキタルが神々の住まう城に帰ってしまってからずっと。
水深の浅い、ゆったりとした流れの大きな川に、一人で立っているようだった。変わらないように見えて、何もかもが自分を通り過ぎて流れていく。
街の人々には、ラキタルは本大陸に帰ったと説明しておいた。随分急だな、という声もあったが、またそのうち遊びにくるよと上辺で取り繕う自分がいる。
彼がいない代わりに自分が外へ出て、苦情や意見を聞いて対応する。それは彼がここに来る前の生活に戻っただけだ。そう自分に言い聞かせていた。
ある日、日が暮れる頃に家に帰ると、自室の机が光っているのが見えた。
ラキタルが連絡用に作った魔法陣をたたんで置いておいたものだった。
一瞬彼からの連絡かと思ったがそんなはずはない。自分から離れておいて連絡してくるのはおかしいだろう。
「…………」
友人の誰かかもしれないと思い直し、魔法陣が描かれた紙を広げて壁に掛けた。
「……よお、久し振りだな」
魔法陣の向こうに現れたのはトーカだった。
そういえば、最近連絡を取っていなかった。前はラキタルが話したがって頻繁に空間を繋げていたのに。
「……久し振り」
笑いきれていないレイの表情に、トーカはすぐに異変を感じ取った。
「二週間も連絡して来ないなんて珍しいな。何があった?」
「……それは……」
経緯を打ち明けようとして、月神の表情のない瞳を思い出した。彼がラキタルを心配してやって来て、ラキタルは帰ってしまった。あの時、彼はもうここに戻って来ないだろうという予感がした。
帰って来ないのに、トーカに話したところで何が変わるというのだろう。
躊躇うレイに、トーカが釘を刺す。
「わざわざこっちから連絡してやったんだ。話すまで寝かさないからさっさと吐け」
「……トーカ……」
事態が変わらないとしても、彼の優しさには逆らえない。
口は悪いが面倒見の良い兄貴分の親友に、レイはこれまでのことをぽつぽつと語り始めた。
◇
「なるほど、流れはわかった」
ふわふわと揺れる髪を梳きながらレイの話を聞いていたトーカは、片手で頬杖をついてレイに視線を合わせた。
「今まで周りからの野次がめんどくさそうでこういう話はしなかったが、お前はどうして人間同士の感情に苦手意識を持つんだ?」
野次とは恐らくジャドニックやミゼリットのことだ。ハーテインがいれば止めてくれるだろうが、とにかくミゼリットの絡みがしつこそうなのは想像できる。
人間同士の感情と彼は言ったが、それはこれまでの話から恋愛に関することだろう。ラキタルから、どこまでかはわからないが好意を寄せられていた自覚はある。
「僕が……誰かに対してそう言う感情を抱いたことがまだ一度もないからだよ。聞かれても答えられないし、求められてもどうすればいいかわからない」
確かに、トーカの知る限り、レイが特定の誰かと共にいたという記憶がない。
「あいつは明らかにお前を気に入ってたぜ」
「それは島に命を与えるためで、僕じゃなくても良かったと思う」
「お前はどう思ってる?」
トーカの視線は、逃げようとするレイの視線を逃がさない。
それでもレイは視線を合わせないようにして吐き出した。
「相手をどう思っているかなんて、そんなこと……神様相手に言うことじゃない」
レイはそう言って終わらせようとしたが、トーカが相槌を打たないので終わらせてくれなかった。
レイが沈黙に負ける。
「っ……、こっちは作られた存在で、そもそも対象になるはずがないだろ。生きる時間も違う。神と人間は違うんだ」
「……そうだな」
「彼らからすれば人間が生きる時間なんて一瞬で、その一瞬のためにわざわざ手間をかけるなんて、無駄でしかないよ」
レイは自分の意見を述べているだけだと主張するだろうが、トーカには自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「……それは神を恐れ多く思う人間目線の話だろ」
「え……」
突然思考の転換を迫られ、レイは思わずトーカの方を見た。
「あいつらの目線で考えるとどうなんだろうな。たとえ一瞬でもそれが特別な存在であれば、そのために心を砕いたり、気にかけてやりたいって思うものなんだろうか」
「……それは……僕たちが考えることではないし……」
レイは再び視線を落とした。
「確かに、俺らが論じてても仕方ない。本人に聞かない限り埒があかないな」
「トーカ……!」
そんなことはできない、と言わんばかりに声を荒げようとしたレイを、トーカは黙って制した。
「できないか? できるだろ、簡単なことだ。自分がどうしたいかを正直に言うだけさ。神だろうが人間だろうが、世の中の理に従ってたら一生を棒に振るぞ」
「でも……」
「いちいちうるせえな。何もしないで安全地帯でうだうだ言ってんじゃねえよ。崖っぷちから飛び込んで底まで沈んで溺れそうになったら、その時は助けてやる」
「……………」
保身的な性格を言い当てられ、レイが黙り込む。
その様子を見て、トーカが鼻で笑った。
「少なくとも、今ミゼやジャドにそんな顔で会ったら、お前は一生からかわれるぜ」
◇
過ぎていく時間の中で、何度もラキタルからの知識の続きを書こうとしたが、やはり作業は進まなかった。一緒にいる時はこんなことはなかったのに。
溜息をついても、沈黙に飲み込まれるだけ。これでは書き留める前に知識が薄らいでしまう。だが、思い浮かぶのはトーカの言葉ばかりだった。
一生を棒に振る、とトーカは言った。何もしないで安全地帯で。
何もしていないわけでなはい。こうして彼がいたことを残して……。
いや、違う。
残したところで、彼がいなければ意味がないのだ。
彼がいて作業が進み、いなければ進まないのなら。
だがそれすらも違うことに気付く。
彼の痕跡を書物に残しても、それは記憶を書き留めたものに過ぎず、それ以上のものにはなれない。
この手で触れて、言葉をかけるために、彼自身がいなければ駄目なのだ。
書物にしたためる手が止まっていたのは、体の方が先にそうと理解していたのかもしれない。思考がこれほど後になって追いつくなんて。
レイはようやく書きかけの本を閉じ、ラキタルに会う決心をした。
しかしこれからどうすればいいだろう。いつも彼から接触してくることが多かった。こちらからは呼びかけるだけで良かったが、今同じことをしても通じない気がする。
午前の内に、トーカか妹あたりに何かいい方法がないか相談してみようか。
時計を見るととうに夜明けの時間を過ぎていた。
「あれ……おかしいな」
窓の外はまだ真っ暗だ。
様子を見ようと外に出て、初めてそこに月神が立っていることに気付いた。
「月神様……」
畏怖のあまり、名前まで口にできない。だが、レイのその呼びかけで月神は振り返った。
「お前か、探していた」
「わ、私……を……ですか?」
「そうだ」
月神がレイの方へ向き直り、歩み寄って来た。すると、淡い色の瞳にかかる前髪から月の光が水滴のようにいくつか落ちた。彼との距離は数歩もない。これほど近くで言葉を交わしたのは初めてだ。
光は草むらに落ちるとふっと消えてしまった。
「ラキタルが泣き止まぬ。お前、ラキタルに何をした」
「ラ、ラキタル様が?」
レイは驚いた。あの時、彼は自分を見限ったと思ったからだ。
彼が、泣いている?
「ここで何か粗相をして、一生泣き暮らすよう罰を与えたか」
「ち、違います!」
推測が極端すぎて、さすがにすぐに否定した。
「……そうか」
月神は目を逸らせて溜息をついたが、すぐにレイへ視線を向けた。
「涙の由来がお前にあるなら、何とかしろ」
「え? ですが……」
「お前を城へ連れて行く」
「わっ……!」
月神が自らの方へたぐり寄せるように片手を上げ、何枚もの薄布に包まれたように視界が霞んだと思うと、目の前にはもう見知らぬ光景が広がっていた。
それまでいた石造りの町並みは消え、黒い空、白い大地の上に、巨大な真四角の箱のような白い建物が見えた。
「っ……」
レイは足がすくんだ。その圧倒的な存在感は、普段神や精霊をあまり意識しない者でも信じざるを得なくなるだろう。神々は実在していて、その真っ白な住まいは他のどんなものすらも濁って見えてしまう。
改めて人間の小ささを思い知らされ、とてもこの内部に自ら足を踏み入れる勇気はなかった。
「ラキタルはこの一番奥だ」
拒否権などはなく、また一瞬で場所を移される。
城の内部は壁も床も天井も真っ白で、境界がわからない。眩しさに体が溶けてしまいそうだったが、形は保っていられた。
同じ空間の遠いところに、空色の髪のラキタルがうずくまっている。
振り返ると、月神の姿はなくなっていた。
「……ラキタル様……」
ゆっくりと近づいて、あと数歩で手が届くところまで来て、ようやくレイは声をかけた。
すると、しゃくりあげる音が止んで、ラキタルが顔を上げる。瞳は本当に濡れていて、袖のいたるところが染みになっていた。
彼の仕草も何もかもが久しぶりに思えた。それもそのはずだ。彼とはもう二週間以上顔を合わせていなかった。
「私、は……」
言葉が出ない。
何を言おうか、トーカと話していたことも含めて考えていたはずなのに、実際に彼を前にすると全て吹き飛んでしまった。
「……僕ね、トーカに聞いたの」
「え?」
レイが聞き返すと、ラキタルは涙で詰まった息を吐いて、少しずつ話し始めた。
「トーカがね、好きかどうかは離れればわかるって教えてくれた。何年経ってもずっとレイのことを考えていられたら、それは好きってことなんだって」
レイは眉を顰めた。トーカの言いそうなことだ。だからあの時、月神に促されたラキタルはあっさり帰還すると言ったのだ。
「……僕、ずっと寂しくて会いたかったよ。我慢しようと思っても全然できない。何年もこのままだったら、僕はレイが好きってことになるの?」
「ラキタル様……」
レイは膝をついて、彼の空色のふわふわした髪に触れた。今まで一緒にいたのに触れたことのない部分だが、いつかの空色の生き物の時の感触そのものだった。
「……人間の命が短いのは貴方もご存じでしょう。私は貴方に、そのような小さなものを気にかけてほしくないんです」
創造神によってこの世界が作られて、まだ千八百年足らず。彼らが手本にした星は、更に遙か昔から存在しているという。神と人間は違うが、この世界の神は、人間と同様に未熟なのではと、無邪気すぎるラキタルを見ていたレイは思っていた。
「貴方は…もっと回りに目を向けなければいけません」
レイが言葉を重ねれば重ねるほど、ラキタルの瞳に涙が溜まっていく。
せっかく会えたのに別れを告げている気分だった。
「レイは……僕がいなくなって寂しかった? 僕には会いたくなかった?」
「それは……」
「お願い、僕はもう離れるのをやめたいの。同じ気持ちになってって言わないから、僕が側にいても……許してくれる……?」
「っ………」
ラキタルの手がレイの袖を掴んだ。
以前は咄嗟にとはいえ、この手を払ってしまった。
すがるようにぎゅっと握る手を、とても二度は払えない。
空色の目に溜まっていた涙が落ちるのを見て、レイはこれまで彼にしてはいけないことをしてしまっていたのだと思い知らされた。
そして同時に、神様だろうが何だろうが、彼が彼であることをとうに認めていたことに、ようやく気付く。
それは、動物が苦手なのに、彼とは問題なく接することができたことから既に始まっていたのだ。
トーカが言っていた崖っぷちにようやく立った。あとは飛び込むだけ。
「……貴方にそう言われてしまったら……私ははいと言うしかないでしょう」
「……! ほ、ほんと?」
ラキタルが、驚いたような嬉しそうな目でレイを見上げる。
ああ、この目だ。青空を閉じ込めたような目。
聞き返されても、それ以上は言葉にできなかった。
蒼天を司る彼を悲しませるわけにはいかない。
代わりに、彼の細すぎる体を引き寄せた。
「わ……!」
ラキタルは一瞬だけ驚いたが、すぐに背中に腕を回してきた。
全く……こんなこと、どこで覚えたのか。
柔らかい髪と小柄な体は抱き締めるとほのかに体温が伝わってきて、良く晴れた空から吹いてくるそよ風の匂いがした。
涙を拭いてやると、彼は恥ずかしそうに笑った。
「レイ、ありがとう。大好きだよ」
初めて会った時から綺麗だと思っていた空色の瞳は、一点の曇りもなかった。
久しぶりに見る笑顔に、レイは力が抜けそうなほど安心してしまった。
◇
月神に話をつけて、二人はまた地上へ、元の家へ戻ってきた。
「そういえば、貴方が以前僕の家の暖炉に火をつけたのは……」
レイが言っているのは、二人が出会ってすぐの頃、濡れた空色の生き物を乾かそうとした時のことだ。
「あれは魔法だよ」
「やはりそうですか」
「使おうと思えばみんな使えるよ。僕が教えてあげる」
「ええ? 僕はそんな……」
「大丈夫、簡単だよ? カーリアンやミゼリットにも、二人で教えてあげようよ」
ラキタルの発案からもたらされた知識は、その後レイによって書物として遺され、何人もの研究家が魔法についての学問を広げて行くことになった。
ラキタルは数年後、レイに自身が作ったという空色の石を下げた首飾りを渡した。
「僕が身に着けてる石で作ったんだよ」
天空神が知識以外で唯一人間に授けた物は、拳の半分ほどの石を革紐で括っただけの質素な首飾りだったが、レイはそれを肌身離さず持ち続けた。
時は常に流れ、あらゆるものは変わり続ける。
この世界を作った神々はどうなのだろう。太陽も月も青空も、今日は変わらないように見えるけれど。
後に賢者と呼ばれるようになった彼は、空はどこまでも空だね、と誰ともなく呟くことがあったと言われている。
空はどこまでも空 リエ馨 @BNdarkestdays
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