第3話

 歓楽街のどきつい光さえも届かない闇の中。そこには、星の光も月の光も届かない。足音がいくつも反響し、私の不安をかきたてる。武道の心得はあるが、神風を吹かすような存在に果たして効果があるのか。


「……いや、そもそも神風が吹いたなんてありえるのか?」


 当たり前のことのように受け入れていたが、その前提がまずもっておかしいじゃないか。そんなものがこの世界にあるわけが――。


 黒の中に、影が浮かんでくる。


 小さな影と大きな影。


 男性と女の子。


 さらに近づくと、その姿がはっきりとしてくる。


 女の子はいた。だが、男の姿はどこにもない。


 いたのは、女性だ。コンクリートの地面にへたり込む、長髪の女性。体つきには骨っぽさがなく、筋肉はしなやか。確かにチャラそうな印象はあったが、男性からはかけ離れた肉体だ。


 だがしかし、その服装はどこからどう見ても、男物のそれだ。女性が身に着けているものだから、すべてがだぶついており、どこか倒錯的な雰囲気を醸し出している。


 こんなことを言うのは、すごくオカルトめいている。だが、このようなことを口に出さずにはいられなかった。


 ――まるで、男性が女性になってしまったかのような。


 鳥肌が立つのを感じながら、その女性の傍らに立っている女の子へ目を向ける。


 闇に溶け込むようにぼんやりとした印象を受けるその子は、小学生くらいに見える。地味で、教室の端の方で、俯きがちに本を読んでいるような子だ。――なんていうか、親近感。私も、同じようなタイプだったからわかる。服装も上下黒で、目をそらしてしまったら、闇に紛れて消えてしまいそうだ。


 その子の目が大きく開いていく。星のまたたきのような驚きが、漆黒の瞳の中で輝いた。


「わ、わたしが見えるんですか……?」


「見えるけれども」


「うわぁっ!? 逃げろっ!」


 少女がしっぽを巻いて逃げ出していく。なぜとかどうしてとか考える暇はなかった。


 逃げる少女か、崩れ落ちている女性か。


 私は、少女を追いかけることにした。


「待って!」


「追いかけてくるなんて、夢ですこれは夢に違いありませんっ!」


「夢なら立ち止まりなさい!」


 真っ暗な路地に、私と少女の声が響く。小さい足音を追いかける大きい足音。闇に目が慣れても、足元は見えない。一寸先はまさしく闇で、数秒ごとに何かを蹴っ飛ばしていた。


 カンカンと音がする。コロンコロンと何かが転がる。眠ったように静かな街が、逃走劇の余波で、ぽつりぽつりと騒がしくなり、上の方の窓ガラスに光が灯る。


 起きた人たちは、少女を追いかける大人を目撃することになるのだろうか。――それってなんだか、犯罪チック。


「速く捕まってくれないと、私が捕まっちゃうじゃない!」


「知りませんよぉ! そう思ってるなら、止まってください」


「止まったら、あなたも止まってくれる?」


「…………」


 少女の脚はとんでもなく速かった。少なくとも、小学生が出せる足の速さではなかった。風に乗っているかのようだ。私はそれなりに運動ができる方だと思ってたのだが、全然距離が縮まらない。むしろ、離されているような気さえした。


「ねえ、待ってったら! 貴女に聞きたいことがあるのっ!」


「な、なんですかあ! わたしに答えられることなんて全然これっぽちもないんです」


「さっきの人の話。絶対、何か知っているでしょ!」


 私がそう言うと、少女は徐々にスピードを落とし、やがて立ち止まった。


 少女に並ぶと、彼女はまったく息を切らしていなかった。それどころか、走り出す前と何も変わっていないように見えた。子どもらしからぬ、体調の悪そうな顔だ。私といえば、もうぜえぜえはあはあ。息も絶え絶えだ。心臓がどきどきして、体は重かった。


「やっぱり見えてるの……?」


「見えてるってば。っていうか見えない人なんているわけが」


「どこから見てたの」


「風が男を連れて行って、それを追いかけてきたら、貴女と女性がいて。あの男の人はどこ行ったの?」


「あいつの知り合い?」


 少女の声のトーンが低くなった。言葉の端々から、怒りが感じ取れた。あの男への怒りと、その友達と思しき私への怒り。


「別に知り合いじゃないが、人がいなくなったら気になるだろう」


「わたしは別に気にならないよ。だって、あんなのいなくなって当然だから」


「それは言いすぎじゃないか?」


「わ、わたしはかみさまなんですから」


 神さまという言葉に、私は唖然としてしまった。この子は一体何を言ってるんだ。少女の顔を見れば、そこに冗談めかしたものはなく、狂ったようなところもない。大真面目に少女は、神様だと名乗っていた。


 何か言った方がいいと思うのだが、何も言えなかった。


 だが、少女は私の疑問に答えてくれるようであった。


「わたしは百合が好きなんです」


 百合。連想されるのは、真っ白でかぐわしい香りを発散させる美しい花。だが、少女が話しているのは、おそらくは物質的なものではない。


 最後にやってきた言葉が、それを証明してくれた。


「だから、百合を汚す男たちを女にしてるんです」


 意味が分からなかった。わからなかったが、この自称神様が大変なことをしているということは、何となく理解できた。動機とか、百合ってつまり、女性間で交わされる恋愛感情のこととか、そういうのはさておき、気になったのは男たちを女にしている、という部分。――普通ではありえないことだ。どうやって男を女にするというのだ。


 私は例えばなしとして、依頼者に性転換手術の話をした。だがそれは、手術によって行われたもの。ここは手術室ではなく、道具もなければ麻酔だってない。それどころか、怪我一つないように見えた。


「そんなことは無理だ」


「無理じゃありません……かみさまなので」


「じゃあ、私の性別を変えてよ」


「イヤです」


「どうして?」


「わたしは百合が好きだって言いましたよね? 女の人を男にして、百合が減っちゃったら嫌じゃないですか」


「…………」


 驚きを通り越して、呆れてきた。


 この子は、百合のために男を女にしたという。百合が好きだから、それを邪魔した男たちを女にしていると。――百合というものは、女性同士でしか成り立たないものだから。もっとも、女体化した男性との間に生じるものを百合に含めるかどうかは、百合有識者の中でもわかれるところだが、それはさておき。


 ふつふつと怒りがこみあげてくる。


 依頼者の兄も、先ほどの男のように


 私は、女の子を見た。そうすると、ぎょっとしたような目つきが返ってくる。え、え、と困惑したような声が私の耳に入ってきたが、そのまま抜けていった。


「神だかなんだか知らないが、そんなことしていいと思っているの!」


「ひええっ。大声出さないでください」


「私は怒っているの。大声だって出る」


「ど、どうしてですか。わたしはいいことをしてると思ってたのに」


「いいこと? 女性を悪い男から救ったからってことなら、いいこととは言えないわ。男の人は声をかけただけかもしれない。そりゃあ、さっきの男は腕をつかんで無理やり連れて行こうとしていたが、だからって、女にする必要はないだろう」


「だ、だから、わたしはかみさまで、それだけの力と権力が――」


「神様だからって許されると思ったら大間違いよ。というか、私は百合っていうのが大嫌いなの」


「嫌いだからわたしの邪魔をするんですか」


 私は頷く。女性が嫌いとか男性が好きだからとか、そういうことを言いたいのではない。


 生来、私は女性と縁がある。かっこいいとか何とか言われて、告白されたことだってある。私としては特段何かをしたというわけでもないし、生徒会長的なことをしたわけでも、学校一の天才というわけでもない。もちろん、お金持ちでもない。


 むしろ、その反対だ。生徒からは好かれていたかもしれないが、先生からは手の焼ける生徒だったことだろう。学校はサボるわ、授業はふけるわ、宿題は出さないわ……。そういったことには枚挙にいとまがない。


 それなのに、好かれる。会社で働いていてもそんな調子だったから、探偵として起業したのがついこの前のこと。探偵って、フィクションだと憧れる職業だが、あんなに怪しい仕事もない。そう思っていたのだが、私の事務所には依頼が次から次に舞い込んでくる。誰かに操作されているみたいだ。――それこそ、神様に。


 だから、神様がいたらずっと言いたいことがあった。


「百合なんて大っ嫌い!」


 私がそう言うと、女の子は眼をこれでもかと開いて驚いた。少しすると、そこに怒りの感情が混ざり始め、私は強い憎悪にさらされた。姿は平凡な女の子って感じだったが、体から発せられる重圧とオーラは、神様と言われても納得してしまいそうなほど強い。


 それでも私は睨み返す。私だって、神様がどういうものかなんて、知っている。文句の一つでも言ってしまえば、天罰がわが身を撃つのではないか――そう思わないでもない。


 だが、それでもである。それでも一言言ってやりたかったのだ。そのためなら、死んだっていい。本気でそう思っている。


 私と自称神様は、真っ暗闇の中で睨みあった。こんなの傍から見れば、お笑いものだったろう。相手は神様ではなかったら、なおさらだ。


 正直なところ、私は疲れ切っていた。さっきの全力疾走のせいだ。


 ため息をつく。


「私はもう帰るから。睨みあっていてもしょうがないし」


 返事はなかった。


 私は少女に背を向けて、来た道を戻ることにする。思い出したのだが、路地の中ほどで女性がへたり込んでいる。もとは男性とはいえ、女性には違いなく、あの場所に置いていくわけにもいかないだろう。


 もっともその前に、少女に殺されてしまうだろうが。


 なんて思いながら、私は歩く。


 しかし、私は殺されなかった。


 それどころか、女性そのものがおらず、そこにいたのは男性だった。

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