十全

(1)

 車を降りた香澄の耳に虫達の鳴き声が届く。音の発信源を探す為、辺りを見回すが虫達の姿を捉えることはできない。姿の見えない虫達の声だけが唯々耳へと届けられる。例えばこれが辺りに仕掛けられたスピーカーから作為的に流された音声だとしても、それに気づくことは恐らくできないだろう。逆に言えば姿の見えない虫達の鳴き声を、スピーカーから流されたものだと信じる者にとっては、それがその者にとっての事実になる。

 ガンホルダーから拳銃を抜き取り、シリンダーに装填された弾薬を確かめ最後にトリガーに指を添えて構えると、また拳銃をガンホルダーに戻す。

 香澄は文雄から聞いた墓の場所へと歩を進める。右足、左足、右足、左足。自重の移動を確かめながらゆっくりゆっくりと。

 縦に真っ直ぐ伸びる長い階段の先に聳える大木目掛けて香澄は歩く。遠目でも分かるほど大きなその木の枝を、柔らかい風が揺らして大木を覆う木の葉を揺らす。夕陽に染まったその光景は何処か幻想的で香澄の胸を締め付けた。

「一人で来たんですか?」

 階段を登りきり大木を見上げる香澄に、酒井が少し離れた墓前に腰掛けながら問いかけた。

「いや。もうすぐ応援が駆けつける」

「そうですか。なら早く始めないといけませんね」

「始めるって何をだ?お前の目的はどうせ母親の復讐なんだろ?」

 二人は距離を保ったままその場で話していたが、香澄が問い詰めようと近づいた時、酒井は掌をかざして静止する。そして墓石の影に手を伸ばして顔を布で覆い拘束された人物を引っ張り出した。

「酒井。お前一体何をしてるんだ——」

「動かないでください」

 酒井は携帯していた拳銃を取り出し、拘束している人物の頭部に銃口を向けた。それを見た香澄も即座に拳銃を抜き、標準を酒井に合わせた。

「何でこんな事をするんだ酒井。あれ程真っ直ぐに正義を貫いていたお前がなんでこんな」

「そんなことあなただってわかっているでしょ。僕が奈須慎吾だからだって。それにお言葉ですが、今も正義を貫いてますよ。僕なりの正義を」

「人の頭に銃を向けてそれの何処に正義があるんだ?」

「本当なら成されていたはずの正義を行なっているんですよ。成すべき時にそれを行わなかった腐敗した者達の代わりに。本当なら失われなかった被害者達のためにも、誰かが正さないといけないんだ」

 酒井の口調は次第に荒々しく大きくなる。相反して香澄は変わらず冷静な物言いで酒井を諭す様に静かに話す。

「そうだ。正さないといけない。だがそれは一個人が好き勝手にしていいことじゃない。俺たちは警察官で断罪人じゃないんだ。俺たちの仕事は悪人を捕まえるところまでだ」

「捕まらなかったじゃないか。母はもちろんその他にも多くの犠牲者を生み出した麻井、荒沼、そして上屋。捕まえないどころか事件が明るみに出ないように偽装工作までしたのは警察じゃないか。上屋なんて大金を手に入れた上、新しい戸籍を用意されて悠々と新しい街で新しい生活を謳歌していた。人の人生を無茶苦茶に壊した人間がのうのうと生きていけるなんてどう考えてもおかしい。それを見て見ぬフリをして生きているこの国の人間も全員狂ってる」

「お前の考え方は子供なんだよ。確かに麻井や荒沼、上屋はクソ野郎だ。その上でそれを庇った警察やその他の人間もな。だがなこの国の人間が全員狂ってるってことは、被害者達の様な弱者も同じと言ってる事になるんだぞ。お前の考え方は幼稚過ぎるんだ。人は時に見て見ぬフリをする。だけどそれはそうせざる得ないだけで、進んでそうしているわけじゃない。人にはそれぞれ事情ってものがあるんだよ」

「家族を失っても尚、あなたはそんな平和ボケした考えを変えられないんですか?……いや、きっと亡くなったあなたの奥さんやお子さんは、今のあなたを見たら喜んでくれるんでしょうね。大人の考えなんて誰かにとって都合のいいモノに染められ籠絡され戦うことから降りたあなたを見て草葉の陰で笑って——」

 パンッ。

 酒井の言葉を遮る渇いた発砲音が短く霊園内に響く。

 鬼の形相を浮かべ酒井を睨みつける香澄。小刻みに震える手が握りしめた拳銃の銃口は空に向いていた。

「黙れ。お前に……何が分かる。耐え忍ぶ事で救えた人だって大勢いるんだ。お前みたいに自分の考えだけが、正しいと思って行動する短絡的な奴にはわからんだろうがな」

「短絡的に見えるなら随分とあなたの眼は曇ってますね。大切な人を傷つけられて何故大人しくしなくてはいけないんだ。それがあなたの言う正しい大人の対応ってモノならこっちから願い下げだ。権力者はルールに縛られず、力無き者がルールに縛られ続けていたら、いつまで経っても僕たち弱者はクソどもにいいように使われるコマのままだ」

「だから自分には人を裁く権利があるとでもいいたいのか?お前が言うクソどもと同じ土俵に上がった今のお前は、自身が否定するクソどもと同じクソに成り下がったんだぞ」

「だったら見殺しにした人たちに、今あんたが言った事をそのまま言ってみてくださいよ。『俺はあなた達を見捨てたが、お陰で他の人を助ける事ができて感謝している』そう僕の母やあなたの妻子に言ってみろ」

 早口で捲し立てる酒井の言葉に、香澄は声を詰まらせ反論出来ずにいる。その姿を見て酒井は視線を、拘束した男に向け軽く息を吐く。そして香澄に向かい「付いてきてください」とだけ言うと、拘束した男に銃口を向けたまま移動を始めた。男は連れられるがまま、特に暴れるでも無く大人しく酒井に従って歩く。香澄は銃口を少し下げて後ろを向く酒井の足に、標準を合わせ引き金に指を掛ける。歯を食いしばり香澄の呼吸は早く、身体は強張り小刻みに震え全身から汗が湧き出た。しかし狙いを再度慎重に合わせる香澄の視界の端が、奈須家の墓石を捉えると香澄は引き金から指を外して一定の距離を保ったまま酒井の後に続いた。

 数分程歩くと酒井はとある墓石の前で「ここです」と言って指をさし、自分は男を連れて少し離れた場所に動いた。香澄は訝しげにその墓石の前に立つと墓石には【多原家】と書かれている。首を軽く傾げ香澄は酒井の方に顔を向けた。

「この墓がなんだ?」

「わからないですか?それなら横の墓碑見てください」

 香澄は言われるがまま墓石の横に建てられた墓碑に目を通したが、また同じように首を傾げた。

多原麻衣子たはら まいこって名前に覚えはありませんか?香澄さん」

 酒井に告げられた名前、【多原麻衣子】の没年を見た途端に、香澄は何かを思い出した様にハッとした。そしてすぐにその表情は強張った。

「どうして知ってるんだ……」

「ようやく思い出してもらえたんですね。忘れてしまったのかと、一瞬ヒヤヒヤしましたよ。……まぁあなたにとっては忘れたい名前。ではあるんでしょうけど」

 安堵の笑みを浮かべる酒井。対照的に恐れを滲ませた表情で香澄は、再び酒井に銃口を向けると引き金に震える指を添えた。

「まだ話の途中なのに、力みすぎて撃たないでくださいよ。聞きたくない話でも最後まで聞くのが大人。というものでしょ」

「何で知ってるんだ酒井。俺は勿論、誰も話していないはずだ。なのに何で……」

「何でですか。……そうですね。あえて言うなら無我夢中で逃げていると、一周回って元の場所に戻ってしまっていたんですよあなた。自分自身も気づかないうちに」

 困惑している香澄に酒井は話を続ける。

「多原麻衣子。まだ小学生の頃に母親を亡くしてそれ以降は父子家庭で育った彼女は、仕事で遅くまで働く父親の代わりに、家事に勉学と忙しい生活をしていました。さらに二人の弟さんに慕われるいいお姉さんだったそうです。人柄もよく成績もすこぶるよかったそうですが、高校を卒業後は金銭的な問題もあり進学はせずに、地元の中小企業に勤めて父親と共に家計を支えていました。これは余談ですが彼女の貯金のおかげもあって、二人の弟さんは大学まで卒業されて今では立派な社会人になってますよ。おねえさんのおかげですね。……彼女が社会人になってから数年後。当時交際していた同じ職場の男性と結婚の話が出て家族も大変喜んでいたそうです。あの日、あんな事がお——」

「もうやめてくれ」

 酒井の話を断ち切る香澄の叫び。

 香澄の構えた拳銃は小さく小刻みに動き、拘束された男も同じ様に身体全体を小さく震わせた。しかし酒井は意に返さず立てた人差し指をゆっくりと口に当てて静寂を要求し話を再開する。

「その日彼女は一人で電車に乗り、こちらの霊園に眠るお母さんに結婚の報告に来たそうです。新しい生活を控えて彼女には明るい未来が待っていたでしょう。しかしそうはならなかった。夕暮れ時に彼女が墓参りを終え、人通りの少ない道を歩いて駅に向かっていると、ある一台のワンボックスカーが彼女の横を通り過ぎ少し先の空き地に停車した。彼女は特に気した素振りもみせず停車した車の横を通ると、突然車から降りてきた男に車内に引きづりこまれた。男は泣き叫ぶ彼女を何度も殴りつけて大人しくさせると、必死に抵抗する彼女を襲ってビデオカメラで撮影しながらコトに及んだそうです」

 酒井はポケットから出したUSBメモリーを香澄の足下に投げた。だが香澄はそれを一瞥するにとどめて拾おうとはしない。それを見て酒井は肩をすくめる。

「その後の事は話を聞いただけの僕よりも、現場に居合わせたあなたの方が詳しいでしょ香澄さん。——とは言えあなたの口からは話せないでしょうから、僕が代わりに話しますね。全てのコトが終わったちょうどその時、警ら中のパトカーが現れると、空き地に不自然に停められていた車を不審に思った警官二人が職務質問をして事態が発覚。部下の警官は彼女を連れてパトカーに保護。その間に男を見張っていた上司は男の言う番号に連絡した。すると所属している署の署長から連絡が入り、男は身元の照会すらされずに解放され被害者であるはずの彼女には、幾らかの金銭が渡されると同時に口止めがされた。傷ついた彼女にいったいどんな口止めをしたのか。教えてもらえますか?香澄さん」

「俺は……知らない」

 目に涙を溜め声を搾り出す香澄。

「まだ本当のことを話す気になりませんか?」

「本当だ。……俺はその後すぐに部署移動してしまった。彼女の最期だってたまたま見ていた新聞で知った」

「なるほど。それで希望していた部署に移動出来たんですね。不思議に思っていたんですよ。過失とはいえ死亡事故を起こした家族を持つ香澄さんが、警察の花形と言ってもいい刑事にすんなりとなれたことを。しっかりと口止め料。もらっていたんですね」

 酒井は呆れ顔で言う。

「違う。俺は事前に受けていた昇進試験に合格して移動したんだ」

「どうでもいいですよそんなこと」

 言葉を出せない二人の耳に、遠くの方から鳴り響くパトカーのサイレン音が届く。

「もう時間みたいですね」

 酒井はそう言うと、拘束した男の顔から布を外す。晒された男の顔を見て香澄は凍りつく。

「こいつが上屋です。今は【前木】なんて名乗っていますがね。見覚えありますか?」

 テープで口を塞がれ顔の至る所にはあざがあり、片方の耳は欠損している。酒井は上屋の口からテープを勢いよく剥がすと何本も歯が抜かれた口が露呈した。

「ゆるひてくらはい。こへんなはいこへんなはい」

 上屋は酒井の顔を見るなり地面に額を擦り付け泣きながら懇願する。酒井はその姿にゴミでも見る視線を向け躊躇なく頭を踏みつけた。

「こういった手合いは醜くて仕方がないですね。でも安心してください、去勢は済ませてるんで。——それで、香澄さん。こいつを見て何か言う事はありますか?……まぁ自分が逃した男が、妻子の死に関連する上屋だったなんて知ったら困惑しますよね」

 サイレンの音が段々大きくなる。酒井は上屋の頭を蹴り上げると、その拍子で上屋は仰向けに倒れ、酒井は銃口を向けた。

「やめろ」

 香澄は涙をこぼしながらも銃口は酒井に向けたまま叫んだ。酒井は視線を上屋から香澄に移して目を見つめると、鼻先をポリポリと掻いて苦笑いを浮かべた。

 そして上屋の方へと向き直ると一変して、憎しみのこもった瞳で睨みつけた次の瞬間。

 パンパンパンッ。

 躊躇なく放たれた三発の銃弾は全て上屋に命中しており、そのうちの一発は見事に頭部を撃ち抜いた。銃槍から濃い赤色の血が流れ出てみるみるうちに辺り一面を染める。黄昏時の空を仰いだまま微動だにしない上屋を見て、香澄は力が抜け落ちた様に拳銃をおろしてうなだれる。

 酒井は多原麻衣子が眠る墓を優しく見つめて笑みを浮かべた。そして拳銃を地面に置くと香澄の側まで行き、両手を揃えて差し出した。感情入り乱れた顔で出された手を見た香澄。視線を上に向けるが顔を伏せた酒井とは視線が合わない。香澄は無言のまま酒井に手錠をかける。

 虫の鳴き声を無数のサイレン音が掻き消す。駐車場へと現れた二人を、日の落ちた霊園に集結した警察車両が点灯したパトランプが赤く照らす。次々に車外に出る警官が二人の元へ駆け寄り酒井の身柄は香澄の手から離れ数人の警官に連行された。

 香澄は震える手でタバコを一本取り出し咥えた。しかし火はつけずに無言のまま離れ行く酒井の後ろ姿を見つめ続けた。

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