(7)
喫煙所から戻ってきた香澄は、文雄が待つ取調室に向かうと、ドアの前に制服警官の男が一人行く手を阻む様に立っていた。香澄は訝しげにその男を見て話しかける。
「取調室に入りたいんだ。そこをどいてくれるか?」
「そう言われましても、誰も入れるなと言われてまして……」
入り口の前で香澄と警官が押し問答をしていると、取調室の中から机をひっくり返した様な音と大きな怒声が廊下にまで響き渡った。香澄は入り口を塞ぐ警官を押し除けて部屋に入ると、中では取り調べに使われていた机はひっくり返されており、先程まで椅子に座っていた文雄は、スーツ姿の男に取り押さえられて床に顔を押し付けられている。
「あなたは?それにこれは一体どういうことですか?」
鋭い視線で私服警官を見つめながら香澄が話すと、男は文雄を押さえつけていた手を離して気まずそうに立ち上がった。
「私はただの私服警官ですよ。いやいやまいったまいった。この男何を思ったのか急に暴れ出したので、慌てて取り押さえたところなんですよ」
男は文雄の身体を起こすと、床に倒れていた椅子を元の位置に戻して座らせた。そして香澄は起こされた文雄の顔を見ると、目を大きく見開いた。
「おいっ。何で奈須さんの頬にそんな殴られた様な傷があるんだ。一体どんな取り調べ方をしたらそうなる?」
「傷?——ああ。暴れて倒れた拍子に床にでもぶつけたんだろ。間抜けな奴で困るよまったく」
それを聞くなり香澄は、男の胸ぐらを掴んで壁に押し付けて耳元で囁く。
「どうせ上から何か言われたんだろうが、昔と違って無茶するとすぐに外部に漏れるぞ?こっちはこっちで今、上と話を詰めてるところだからよ。もう少しの間、大人しくしてろ」
「何も違い何てないんだよ。やろうと思えばどうとでも物事なんてのは捻じ曲げられるんだよ。——まぁしかし、俺も厄介事に率先して首を突っ込みたい訳じゃない。その話し合いの結果とやらが出るまで少し待ってやる。だがそれほど時間の猶予はないからな」
男は香澄に掴まれている手を振り解き、何事もなかったかの様に部屋を出た。それを見送った後に香澄は急いで文雄のそばに駆け寄る。
「大丈夫ですか奈須さん。すいません俺が部屋を離れたからこんな事に……」
「大丈夫大丈夫。それにあなたのせいじゃないんだから、謝らないでください」
「さっきの男。何を聞いてきたんですか?」
「『なにを今更自首するんだ?』なんて言われましたよ。まさか警察に来てそんな事を言われるとは思いもしませんでしたけどね」
腫れた頬に手を添えながら苦笑いを浮かべる文雄。その様子を香澄は苦い表情で見つめると、ひっくり返った机と椅子を元に戻して文雄の対面に座る。そして俯き加減な二人の間に僅かばかりの沈黙が続くと、それを打ち破る様に覚悟を決めた表情で文雄が口を開いた。
「香澄さん。この間見たかった山中の車内で見たかった男、荒沼泰之殺害の事件、……あれをやったのも実は私なんです」
香澄は眉をピクリと動かすが、それ以上の反応は見せない。
「……犯行理由はなんですか?」
ゆっくりとした口調で問いかける香澄の言葉に、文雄は一瞬ではあるが口を固く噤み、次に優しく微笑みながら答える。
「黙秘します。殺人を犯したと言う事実以外は全て」
「奈須さん。やったと言われても証拠や証言も無いのに逮捕なんてできませんよ。説得力はないでしようが、我々警察もそこまで適当に仕事をしていないですよ」
「確かに説得力に欠けますね。あなた達警察の判断で裁くことは出来ないかもしれないが、あなた達警察の判断で捕まえるか捕まえないか、決めることはできるでしょう。麻井眞一がそうであったように」
真顔に戻った文雄は、真っ直ぐに香澄の目を見つめながら話をした。香澄は言葉を出せずにただ、その眼差しを険しい表情で見返す。
「あなただって本当はわかっているでしょ香澄さん。警察だけに限らず、この世界は正しさでは無く、都合の良い方へと物事が流れていく事を。本当は誰も彼もがそう在るべきであることは分かってはいても、無駄だと諦めて流れのままに身を委ねて生きている。……私はもう、疲れた。ですからこのまま流れに身を任せて終わりにさせてください」
「あなたは一体、何をどこまで知っているんですか奈須さん。あなたがやろうとしていることは、麻井眞一を野放しにした警察のお偉方と一緒ですよ?犯人がこのまま社会に野放しになっていてもいいと言うんですか?」
「……殺したのは私です」
「だったら話してください。どう殺害したのかを、何故殺害したのかを、現場の状況を。それを話してもらうまで、荒沼泰之殺害の件に関してあなたを被疑者にすることは出来ない」
語気を強めて話す香澄に対しても文雄は「私が犯人です」の一言で返すのみだった。ため息を吐いて頭を抱える香澄。その時香澄の胸ポケットに入っているスマートフォンから、着信を知らせるバイブ音が静まった部屋の中に響き渡る。香澄はスマートフォンの画面を確認すると、椅子から立ち上がり壁際まで移動してその電話に出て声を抑えて話す。
『お疲れ様です楢山さん。話し合いの方は上手くいきましたか?』
『上手くなんていった試しがないだろ。それをわかっててよく言えるなお前は。——だがまぁ概ねこちらの要望通りにことは進んだ。おかげで極秘資料を入手できた』
『それはよかった。ですけど一つ問題が起きましてね……』
香澄が声のトーンを落として話すと楢山はやれやれといった具合にため息を吐いてその先の言葉を急かす。すると香澄は言い辛そうに話し始めた。
『俺がちょっと目を離した隙に、奈須文雄に接触してきた輩がいましてね。とりあえずその場は治めましたが、どうも上の使いで動いているみたいです』
『——ったく。次から次へと面倒な事ばかり仕掛けてくる。自己保身しか考えられないのか奴らは。……だが恐らくはもう大丈夫だ。話はきっちりと詰めておいたから、もう手出ししてくることはないだう。それにこれ以上余計な動きをすれば泥沼にハマっていく事をさすがの奴らも理解しているはずだからな』
『流石ですね楢山さん、助かります。それで手に入れた極秘資料ってのにはどんな情報が載っていたんですか?』
『——それなりの代償も払う事になったがな……。まぁそれはいいとして、資料には俺たちが探している男、麻井眞一のもう一人の友人である上屋達志の現在の氏名が記載されていた。まぁ氏名に限らずその他色々etc、あらゆる情報がまとめられている。胸糞が悪くなる様な情報までご丁寧に……な』
詰まる様な声で言い淀む楢山。香澄は拳を握りしめて部屋を出ると扉の前で周りを見渡して誰もいない事を確認すると問いかける。
『やはり。……麻井眞一は勿論。荒沼、上屋も犯行に絡んでいた事を上層部はわかっていたんですか?』
『——あぁ。資料によると三人が関与した連続婦女暴行事件を隠蔽した後、程なくして殺人事件により麻井眞一が死んだ。上層部はその事件でも指紋や足跡など、犯人に繋がる情報を得ていたそうだがそれを隠した。何故なら犯人は三人に襲われた女性の旦那だったんたからな。しっかりと容疑者の名前として『奈須文雄』と書かれている。全てを上の連中は知っていたんだ』
『本当に俺たちはいい様に上の連中の掌であそばれてますね。……それで何故麻井眞一が死んだ後に上屋だけ行方がわからなくなったんですか?』
『資料によると麻井眞一が亡くなった後、荒沼は表立っての悪さをしなくなったそうなんだが、上屋は違った様だ。警察が自分達の犯罪を隠蔽したことを恐らく麻井眞一から聞いた上屋は、一人になっても同じ様な事を繰り返していたらしい。さすがに上層部の連中も放っては置けなくなり奴を消そうとしたそうだが、自分達の犯罪を隠蔽してきた証拠とやらを盾に交渉してきたそうだ。そこで出た折衷案で上屋は大金を手にした上で、名前を変えて大人しく暮らす事になった。そして今では妻と子供の三人暮らしでのうのうと人生を謳歌している』
『という事は最近まで上屋の動向を探ってたって事でしょ。それなら荒沼のことも追っていたんじゃ?そうなら荒沼を殺した犯人の情報もその資料に載っているんじゃないですか?』
楢山は深いため息を吐いて答える。
『残念ながら最近まで調査されていたのは上屋の方だけだ。資料によると荒沼は元々、麻井の子分の様な立ち位置で連続婦女暴行事件の際にも、主に運転手として使われていた様だからな。麻井眞一亡き後は目立った動きも見せていなかったから、そのまま放って置かれていたんだろ。対して上屋は曲がりなりにも上層部の奴らを、脅すネタを握っていたんだからな。上の連中も恐くて放っておけなかったんだろうよ』
『それを言うなら楢山さん方こそ、上の連中に恐れられていそうですけどね。——てことは楢山さんの極秘資料もあるって事か』
『馬鹿野郎。今はそんな話をしてる場合じゃ無いだろうが。せっかく仕入れた上屋の情報聞かなくてもいいのか?』
香澄はわざとらしく笑い声をあげる。
『すいませんすいません。ろくでもない話ばかりなんで、少し場を和まそうとしただけですよ。それで上屋は今何処にいるんですか?』
『笑えねぇーよ。上屋だが名前を変えた後、一度県外に出たが何を考えているのか、妻子を連れてまた街に帰って来たみたいだ。今は表面上は真面目に働く社会人になっているみたいで住所と名前は——……』
『——了解です。捜査本部に連絡して至急誰かを向かわせます。また何かわかり次第連絡します』
通話を終えた香澄は眉間に皺を寄せて顔をしかめる。そこに先程のスーツ姿の男が現れると、不敵な笑みを浮かべながら香澄の方へと近づく。そして香澄の肩に手を置くと耳元で小声で話す。
「いやー、よかったですね香澄警部補。私も余計な手間が省けて助かりましたよ。そろそろ私はお暇させて頂きます。——そうそう。これはただの助言なんですが、あまりお偉方を怒らせないほうが賢明だと思いますよ。刺激し過ぎてあなたの上司や、あなた自身に何か起こったら大変ですから」
「それは本当に助言ですか?脅しのように聞こえるのですが」
「ハハハッ。助言ですよ助言。……今の所はね。今後もあまり無茶が過ぎると、本当に私が対応しなくてはいけなくなりますからね。私としても面倒はごめんなので、今のうちに釘を刺しただけですよ」
そう言って香澄の肩に置かれた男の手は、力一杯に香澄の肩を握り締めた。香澄は表情を変えずにその手を振り払い男の目を見つめた。
「わざわざご忠告痛み入ります。そうならない様にせいぜい気をつけるとしますよ。さてさて、今日のところは用事も済んだ様ですし、さっさとお帰りになりやがったらどうですか?」
「そうですね、そうします。ですがくれぐれも助言を忘れないで頂きたいものですな。お互いの為にも。それでは私はこれで。もう会わない事を祈っていますよ香澄警部補」
据わった目で見つめる男。香澄はその目を逸らす事なく真っ直ぐに見返すと、男は笑みを浮かべてその場を離れた。香澄は男を見送り姿が見えなくなると、再度スマートフォンを取り出すと電話をかけた。
『香澄だ。今から伝える奴を重要参考人として、何がなんでも引っ張って来い。住所と氏名は——……』
通話を終えた香澄は間を置かずに取調室のドアを開けて中に入ると、椅子に座り待っていた文雄に軽く会釈をして元の場所に座った。
「……奈須さん。先程あなたが言ったことですが、確かにその通りだと思いました。ですが出来ることなら私は正しく在りたい。いついかなる時もそれがまかり通るとは思いませんが、出来ることなら出来うる限り私は自分が正しいと信じる事をしたい。それはあなたも同じなんじゃないんですか奈須さん。あなたが誰を庇っているのかは知らない。だが自分のやった事にけじめを付けない限り、人生を前に進める事は出来ない。それはあなたが一番分かっているはずだ」
「痛いとこを突いてきますね。確かにあなたの言う通り、私の人生はあの頃から止まってしまっている。……そして私がしでかした事のツケが、巡り巡って私ではない者が支払う事に。私はあの日、あの時。復讐心に駆られてあいつを殺すべきではなかった。今さらになってそんな風に考えてしまうなんて……」
天井を眺めて話す文雄の頬には、瞳から溢れ出した涙が伝いデスクの上にポツリポツリと落ちた。
「お願いします。あなたが誰を庇っているのか話してください」
「警察を。信じろと?」
「私を信じてください。最後まで責任を持って関わる事を約束します」
香澄の言葉を聞いた文雄は、テーブルに突っ伏して頭を抱えて話す。
「……警察ではなく。大切な人を亡くした者として、約束できますか?」
「お約束します。——命に懸けて」
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