(6)

「何処から話をすればいいのか……。なぁ覚えてるか?俺達出会ってもう二十年以上経つんだぞ。懐かしいよな、あの頃はお前に会いたくてバイト先の喫茶店によく行ったよ。それで毎回大して美味くもないのに、やたらと値段だけ高い定食頼んでたよな。おかげで当時は本当に金がなかったよ」

「そんな事もあったわね。あなた店に来るといつも私のこと見てたから、店の仲間によく茶化されてたのよ私」

 微かに微笑んで話を返す早江。その表情を見て勇雄も少し顔がほころんだ。

「それは知らなかった。でもそういえば初めて早江に声を掛けた日に店員が何故か拍手してたけど、あれはそういう意味だったのか。——ハハハッ。今ようやく意味が分かるなんてな。そうか、……そうだったのか」

 勇雄は一転して表情を曇らせる。早江はそれを見て俯き加減で口を閉ざした。

「早江、お前にはちゃんと話をしておくべきだった。それも結婚してしまう前に。でも俺はお前が居なくなるのが怖くて、とてもじゃないが打ち明ける事ができなかったんだ。親父の事は勿論、俺が昔した事を。……俺の親父は人を殺めている。しかも警察に捕まることなく今まで生きてきた。俺は親父が人殺しだと知って、家を飛び出したんだ。それ以降今まで親父には一度も会っていない。だが以前一度だけ何処で聞きつけたのか、手紙を送ってきた事があった。引き出しに入れておいたんだが、その手紙もみたんだろう?」

 早江は一度だけ申し訳なさそうに頷く。それを見て勇雄は浅いため息を漏らす。早江はつぐんだ口を開くと、声を振るわせ勇雄に問いかける。

「もう一つどうしても、聞いておかないといけない事があるの。屋根裏に隠してたあの包丁は何なの?」

「——そうかあれも見たのか。……あれは親父が人殺しをした証拠だよ。家を出る時に連れ戻されない為に持ち出したんだ」

「私には話が全くわからない。もう何がなんだか、何を信じたらいいのかもこれから先どうすればいいのかも。あれを見つけてから今日まで頭の中がぐちゃぐちゃよ。どうすればいいの私は」

 顔をクシャクシャにして崩れ落ちるように泣き始める早江。勇雄は近くに置いていたティッシュ箱を、そっと早江の目の前に差し出す。

「順を追って話すよ。まず俺が親父の異変に最初に気がついたのは、中学二年生のある日。母が死んでから塞ぎ込んでいた親父が、夕飯代だけ置いて珍しく家を空けて、夜遅くまで帰ってこなかったんだ。母が死んでから夜に家を空ける事さえなかったから俺は気になって、なかなか寝付けなくて深夜まで布団の中で起きて待ってた。そうしたら夜中の二時頃ようやく玄関が開く音がしたんで、こっそりと音のする方へ向かうと、風呂場で親父が裸のまま必死に何かを手洗いしていたんだ……」

 怯えた態度を見せながらも、早江は顔を上げて勇雄の言葉に耳を傾ける。勇雄はそんな早江の顔を見ると覚悟を決めたように続きを話す。

「親父に気づかれないように、俺はそっと近づいた。真っ暗な廊下の影から身を隠して風呂場を覗くと、風呂場の床一面が真っ赤になっていた。どうやら服を洗っていたみたいだが、その時の親父の横顔が忘れられないよ。あの大きく見開いた目で、一心不乱に服を洗っている親父の顔が。俺は怖くなって急いで布団に戻ったよ。だけどその日はとてもじゃないが眠る事なんて出来なかった。その二日後だった家の近くで起きた、殺人事件のニュースをテレビで見たのは」

「でもお義父さんがそれをした証拠なんてなかったんでしょ?もしかしたら喧嘩か何かに巻き込まれて、怪我をしただけかも知れないじゃない。お義父さんとはちゃんと話はしたの?」

「その時は怖くてとてもじゃないけど、話なんてできなかったよ。なんて聞けばいい?『なぁ親父。あんた人殺したのか?』何て聞けるはずもないじゃないか。それから俺は中学卒業間近のあの日まで、その事を考えないようにしてそれまで通りあの家で暮らし続けた」

「……あの日って?」

 早江の問いかけに勇雄はあの日の話を語り始めた。


「ただいま」

 学生服姿の勇雄が玄関の戸を開けて家の中に入る。勇雄の帰宅の合図に家の中からの返答はない。

 勇雄はそれを気にする素振りは見せずに家に上がると、自室に入り荷物を下ろしてキッチンに向かった。誰もいないキッキンで勇雄は冷蔵庫を開けると、パック入りの牛乳を手に取りコップに注がずにそのまま飲んだ。タラリと頬を伝う牛乳を手で拭うと、そのまま冷蔵庫に牛乳を戻す。勇雄は軽く息を一度吐いて室内を見回すと、リビングに向かい棚の前に立ち引き出しの中を物色し始めた。

 いくつか入っていた封筒を、光にかざして中を確かめる。それらが空だと分かると、小さく舌打ちをして引き出しを閉めた。

 次に勇雄は文雄の寝室に向かうと、同じ様にタンスの中の物色を始めた。しかし何もないと分かると一層不機嫌そうな表情に変わりため息を吐いた。勇雄は部屋を見回すと次に押し入れの戸を開けた。

 中には就寝用の布団に仕舞っている衣類、その他は使われていないミシンやアイロンなどの家電機器が入れられている。勇雄はそれらを押し入れから出して手に取り確認するが、渋い顔をしてそれらを手放した。そして今度は押し入れの中に身体を入れて物色を繰り返す。

「何だこれ」

 勇雄はビニール袋に包まれた何かを見つけると、それを持って押し入れから出た。明りのもとに出されたビニール袋の口は、何重にも固く結ばれていて簡単には開けられそうもない。勇雄は少し考える素振りを見せたが、すぐに袋を強引に破いた。ビニール袋は何重にも入れられており、勇雄が苛々とした様子で全てを破くと、中から布に包まれた何かが出てきた。

 勇雄は首を傾げながら布を広げると、中から黒く色づいた包丁が何本も姿を現した。勇雄は驚いて背後に体を引き、手に持っていたそれらを床に投げ捨てる。

「何なんだよ……これ」

 ビクビクしながら床に落ちた包丁に、視線を落として近づく勇雄。床に散らばる包丁の内一本を指で摘んで持ち上げると、マジマジと包丁に付いた黒い汚れを見る。

「これ血じゃねーかよ」

 そう言うと勇雄の顔は、一気に青ざめ汗が吹き出した。勇雄は震える手で床に散らばる包丁を全て元の布に包み、破り捨てていたビニール袋をポケットに押し込んだ。

 そして部屋に残った自分の痕跡を丹念に消すと勇雄は、包丁を包んだ布を抱えたまま部屋を出て自室に戻ると、それをカバンの底に押し込んだ。次にタンスに向かうと衣類を根こそぎカバンに詰める。そして机の引き出しを開き奥の方から、厚みのある封筒を手に取ると、中に入っていた札束を何度も繰り返し数える。数え終わるとそれもカバンに詰めカバンを閉じた。荷物を担いだ勇雄は玄関に向かうと、踵を踏み潰して靴を履くと表へ出た。日暮れが迫っている時間帯ではあるが、空を覆った厚い雲がより一層辺りを暗くしている。勇雄は一度振り返って寂しそうに家を眺めると、首を横に何度も振って顔を逸らし歩き始めた。それから勇雄は家が見えなくなるまで、一度も後ろを振り返らず薄暗い道を歩き続けた。

 陽が完全に落ちて日付が変わろうとしている頃、仕事を終えて帰宅した文雄は、電気の光が灯っていないリビングで一人、テレビの灯りを頼りに酒を煽っている。

 テーブルには空いた酒缶やツマミの残骸が散らばっており、文雄は虚な目でテレビ画面を見ている。そんな時深夜にも関わらず唐突に家の固定電話が鳴り響く。

 最初こそ気にもしていなかった文雄だが、あまりに長く何度も鳴り続ける着信音に、文雄はため息を漏らしながら重たそうに腰を上げると受話器を手に取った。

『——はい』

 気怠そうに電話に出た文雄。返答を待っても一向に返答が聞こえない。

『こんな時間にイタズラ電話か?暇な奴だな。馬鹿みたいな事してないでさっさと寝ろ』

 文雄は呆れた様にそう言うと、受話器を本体に投げ捨てる様に電話を切った。そして振り返りリビングに帰ろうとしたその時、再び背後で電話の着信音が鳴り始めた。

 舌打ちをしながらも文雄は再度受話器を手に取り応答するが、またもや相手の反応は何もない。段々と苛立ちが募った文雄は怒声を上げた。

『さっきから何なんだ。用があるならさっさと言え』

 鼻息荒く興奮する文雄。

『……俺だよ。勇雄だよ親父』

『何だお前か。またこんな時間まで遊び回ってやがるのか。わざわざ電話何て寄越しやがって、まさか警察の厄介になったとかじゃないだろうな?』

『なってないよ』

『だったら何の電話なんだ。用がないなら切るぞ』

『……俺。親父の部屋の押し入れの奥で見つけたんだよ。親父が人殺しだっていう証拠』

 静かに話をする勇雄。その言葉に文雄の時間は止まった。

『以前に起きた若い男を車で刺し殺した事件って親父が犯人なんだろ?』

『……だったら何だ?警察にでも通報するか?』

『違うって言わないんだな。何で人殺しなんてしたんだよ親父。母さんが生きてたら何て言うか——』

『何も知らないガキが黙ってろ。その母さんを殺した男なんだよ、俺が殺した男は。そいつはな捕まらないのをいいことに、母さん以外の人も何人も攫っては襲ってる本当のクソ野郎だったんだぞ。それでもお前はあの男が可哀想だなんてふざけた事を言うのか?』

『警察に言えばよかっただろ。相手がどんな人間でも関係ない。どんな理由があっても親父が、人を殺してもいいなんてことは無いだろ』

 激昂した文雄は怒りを込めた拳を家の壁に向けると、激しい衝撃音と共に壁を陥没させた。

『言いたいことは……それだけか?』

『これからが本題だから。俺はもうあんたみたいな人殺しとは一緒には暮らせない。だから家を出て行く。それからあんたのサインが必要な書類を、まとめて俺の部屋の机の上に置いてあるから、サインだけ済ませたらクチを閉じてそのままポストに入れてくれればそれでいいよ』

『子供が一人で生きていけるとでもおもっているのか?』

『来月には俺はもう中学を卒業する。あとはどうにでもなるさ。まぁあんたにはもう関係のない話だけどな。それともしも俺を探したり余計な事をしたら、あんたが後生大事に押し入れに仕舞っていた血塗れの包丁、警察に渡すからそのつもりでいてくれよ』

 文雄はため息を漏らして頭を掻きむしる。

『クソガキが。……もういい好きにしろ。お前の気がそれで晴れるなら家族を捨てればいいさ』

『家族を蔑ろにしたのはあんただろ。母さんが死んでからというもの、毎晩の様に酒を飲んでは暴れて——。もういいよ、もういい。俺はあんたが言う通り好きに生きるよ。もう切るよそれじゃあ』

『まっ——』

 電話は文雄が言いかけた言葉を、届ける前に切られた。ツーツーという電子音が受話器を持ったまま立ち尽くす文雄の耳に届けられる。文雄は受話器と電話機本体の両方を唐突に持ち上げると床に投げ捨て、バラバラに散らばった破片が辺りの床に散らばった。


 早江は淡々と過去の出来事を語る勇雄の言葉に耳を傾ける。勇雄は視線を早江から外し、テーブルの上に置かれた缶ビールの表面を伝う結露を見つめて話す。

「——これが言えていなかった話だよ」

「……そんな子供の頃に家を飛び出して、どうやって生きてきたの?」

「持っていた金はそれまで貯めておいた貯金で、それほどなかったからとにかく稼がないといけないと思って東京に行ったんだ。そして東京で同じ様に家から逃げて来た奴らと、人に言えない様なことをして金を稼いでたよ」

「東京に居たんならなんで私とあの喫茶店で出会ったの?何で一度離れたこの街に戻ってきたの?」

 テーブルの下に入れた手を握り合わせて視線を落とす勇雄。

「……自分でもよくわからないけど。東京にいることも、悪い事をして暮らし続けるのにも疲れてしまったんだと思う。そう思い始めた二十歳頃に急に思い立って母さんの墓参りに、一度東京から戻ったことがあった。その時に母さんの墓前で手を合わせていると、ふと親父に『母さんが生きてたらなんて言うか』って言ったのを思い出した。自分が親父に向かって言ったはずの言葉が気が付けば自分の身に返ってきてたよ。だから母さんが眠る墓の近くでやり直そうと帰って来たんだ。それに当時は親父とも完全に音信不通だったしね」

「東京ではどんな悪い事をして生きていたの?私に言えない様なことをしていたの?」

「……そうだ。人様に誇れない事をしていた。だけどあの頃俺や仲間は未成年で、生きる為には色々な事をしなくちゃいけなかった。その内容まで君に言うつもりは無い。でも人殺しだけは絶対にしていない。それだけは本当だ」

「それじゃあ、あなたの書斎にあった新聞や、印をしていた地図や気色の悪い人体図の本は何なのよ。何をしようとしていたのよあなたは?」

 早江は声を荒げ勇雄の目を見て叫ぶ様に言う。勇雄はその目を真っ直ぐ見つめて答える。

「君と結婚して初めて、親父が何故人殺しなんてしたのかを少し理解した。それから少しずつ考え方が変わったんだ。母さんに本当は何が起こったのか。親父が殺した奴はどんな奴で、どんな死に方をしたのか。親父はどんな思いで母さんを見送ったのか。そんな事を考える内に色々と調べる様になった。書斎に置いてあるものはその結果だよ」

 勇雄の話を聞いた早江は勢いを失い椅子にヘタレ込んだ。

「どんな人だったの?——あなたのお母さん」

 早江の問いかけに勇雄は一瞬驚きの表情を浮かべ次に優しく微笑んだ。

「とても。……とてもよく笑う優しくて、綺麗な人だったよ」

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