(5)
市街地では気付く事が出来ない月明かりだが、照明の類が一切ない場所でその明るさに驚かされる。それは経験した者にしか解らないことだが、その明るさは想像する何倍も明るい。昨今では程々な田舎であっても街灯が、道を照らしていることに加えて各人が携帯する電子機器により、完全なる月明かりだけの状況などというものは非常に稀だろう。
山中で駐車された車の中には、そうした稀な状況が作り出されていた。後部座席の一番後ろに横たわる男。その様子を包丁片手に後部に座って見ているのは文雄。車外も車内も空から降り注ぐ青白い月明かりだけが照らしている。
文雄が横たわる男の伸びる脚を蹴ると、気絶していた男は目を覚ました。そして目の前に座る文雄を怪訝そうな表情で見た。
「何だ?——誰だお前?」
男は目を細めて顔を文雄に近づけて見たが、手に持つ包丁を見て後ろに身体を引いて背中を壁に付けた。
「麻井眞一てのはお前で合ってるか?」
起伏なく問いかける文雄の言葉が男に届くと、男は目を見開いた。
「だったら何だってんだ。それよりお前が誰なんだよ。何の目的でそんなモノを俺に向けてるかは知らないけどな、俺に手を出すと大変な目に遭うぞ」
「その大変な目に遭うってのは一体誰に合わされるんだ?」
「あぁ?俺にはお前が想像もできない様な奴らが背後についてんだよ。だからその刃物持ってさっさと帰りやがれ」
「想像もできないねぇ……、どうせ警察関係者だろ」
文雄は麻井の目を見ながら落ち着いた口調で話すと、麻井は目を見聞き驚いた反応を見せそのまま固まった。文雄は手に持った包丁を床に何度も軽く突き立て、そのリズミカルな音が車内に響くと、麻井の顔から見る見る内に血の気が引く。
「そうだ。——俺には警察のトップがついてるんだ。今なら何もなかった事にしてやるからさっさと車から降りてどこか行け」
「何もなかった事に……ねぇ。麻井。お前今車が停まってるこの場所に見覚え無いか?」
麻井は包丁を持つ文雄の方に、片方の掌を向けて恐る恐る窓の外を見る。
「山の中だろここ?しかも暗くてよく視えねぇ。それなのにここが何処だか分かるわけがないだろうが」
「先日山林沿いの道で車に轢かれて死んだ女性の事故知ってるか?」
「……あっ?何だそりゃそんなもん知るかよ」
「その事故で飛び出してきた女性は、俺たちが乗ってるこの車が今停まっている、この山から道に飛び出してきたんだ。麻井眞一、——お前何か知らないか?」
すでに壁に背中をつけている麻井だが、文雄のその言葉を聞いてさらに壁側ににじり寄った、そして文雄が持つ包丁に視線を集中させ、顔には吹き出した汗が顎へと伝っている。麻井は興奮状態の牛の様に鼻息荒く呼吸を繰り返すと、突拍子も無く突然文雄に飛びかかった。
文雄は咄嗟に麻井に向けていた包丁を引くと、麻井は文雄の顔を殴りつけて倒した。そして馬乗りになり文雄が握る包丁を、引っ剥がして奪い取ると馬乗りのままその刃を文雄に向けた。
「馬鹿なおっさん。刺す度胸もないのかよ。だったら最初からこんなもん持ってんじゃねえよ」
振りかぶった麻井の拳が、何度も容赦なく文雄の顔面に振り下ろされる。文雄は手で必死に防御するがそれも虚しく、瞬く間に顔は血まみれになった。文雄は鼻から流れ出る大量の血のせいで鼻呼吸が出来ず、歯が折れた口で苦しそうに呼吸をしている。その姿を上から見下ろす麻井の顔には笑みが溢れていた。
「あー、しんど。男殴るのは趣味じゃないんだけどね。しかもおっさんの汚い血が手にべったりだ。——うわっ、車にもついてるじゃねーかよ。どうしてくれんだよまったく」
「づ……づま……なにじだ」
「何言ってんだ?聞こえねーよ。あとくっさい息を俺に吹きかけんじゃねぇ。——あーもー、クソがっ。色々と面倒そうだしおっさんいっそのこと死ぬか?」
「……づまに……づまになにをじだんだ」
折れた歯と溢れる血でまともに話せないながらも、文雄はその一言を涙を流しながら必死に叫んだ。それを聞いた麻井はケタケタと腹を抱えて笑う。そして涙ながらに見つめる文雄の目を見返して言う。
「何お前、あのババアの旦那なのかよ。何をしたって言われても、ナニをする前に走って逃げて勝手におっ死んだからなぁ。いい女が見つからないから仕方なく攫ってやったのに、生意気に俺に意見しやがってあの女。あぁそういえば今のお前みたいに、ボコボコに殴ってはやったっけな」
「な……なんでぞんなごど」
「何で?考えたこともなかったな。——でも改めて考えてみると、泣きじゃくる女達を蹂躙するのが心底楽しいからだろうな。まっ、嫁さんの復讐出来なくて残念だったな。けどそれはお前が俺を刺す根性がなかったのが悪いんだから、死んだ後に化けて出たりしないでくれよ。それじゃあさいなら」
話終わると文雄から奪った包丁を振り上げ、そして何の躊躇なく振り下ろす麻井。文雄は目を大きく開き振り下ろされる包丁に向かって左手を突き出す。包丁は文雄の掌の表面に当たるとその刃は、皮膚を突き破り内部に侵入した。そしてそのまま骨の隙間を通った刃先は、手の甲に突き出て文雄の顔寸前で止まった。
そのまま振り下ろそうと体重をかける麻井。文雄は寸前に迫る刃先を見つめて堪える。そして右手で周囲を探りビニール袋の中から、別の包丁を取り出して覆い被さる麻井の左肩を刺した。すると麻井は豚の様な悲鳴をあげると、包丁を手放し後方へとひっくり返り「痛てぇー痛てぇー」と泣き叫びのたうち回る。
ふらつく体を強引に起こした文雄は、麻井が手放した包丁を拾い上げて転がり回る麻井の上に馬乗りになり、一心不乱にところまわず滅多刺しにする。
「や、やめてぐでーごめんなざいごめんなざい……——」
麻井は必死に謝罪を口にするが、文雄はその声に反応することなく刺し続ける。あまりに多く刺すので包丁の持ち手部分には、血糊がべったりと付き文雄は手を滑らせ幾度も包丁を離してしまう。文雄は立ち上がるとまだ辛うじて息のある麻井に背を向けて、包丁が入れてあるビニール袋を取りに行く。
「だ、だずげで……ぐだざい」
背後から微かな声量で話す麻井に気づいた文雄は、麻井の側まで戻ると袋から出した包丁を床に並べて、その内の一本を手にした。そして事切れる寸前の麻井の目を見つめる。
「だ……ずげで」
涙を流して懇願する麻井の瞳を真っ直ぐに見つめたまま、文雄は麻井の首を切り裂いた。首の太い頸動脈を切り裂いたにも関わらず、それ程血は吹き出さない。そして文雄はまた一心不乱に身体を刺し始めた。
首を切り裂いてから麻井が死ぬまでに、大した時間は掛からなかった。力が抜けた身体に光を失った瞳。刺しても何の反射も起こさない麻井が既に死んでいる事は文雄も分かってはいただろう。
しかし、文雄は麻井を刺すことをやめない。血糊で包丁を握れなくなれば、床に並べた新たな包丁でまた刺し始め、それがダメになればまた次。そういった具合に刺し続け、文雄が動きを止めた時には麻井の遺体の周りには、血溜まりが出来ていた。
「はぁ……はぁ……——」
早まる呼吸を整えながら文雄はうつむいて、小刻みに震える両手に目を落とした。月明かりのみが照らす車内。文雄の目の端に血溜まりに映る自分の姿が捉えられた。赤い水面には広角を上げ満足そうに笑う文雄の姿が映っていた。
「……違う」
それを見た文雄は後退り、車内の壁に背中をつける。夜空から遮られることなく降り注ぐ月明かりが、後部座席横のサイドガラスに血溜まりに映ったモノと同じ、満足そうに笑う満面の笑顔を映すと、文雄は何度も繰り返し首を横に振る。
「違う違う違う。——俺はアイツの為に。——俺はコイツを……」
唐突に文雄は床に溜まった血溜まりに両手を伸ばし血を掬い上げると、自分の姿が映ったサイドガラスに血を塗りたくった。文雄は辺りを見回して包丁を包んでいたタオルを手に取り床の血を吸い込ませると、次々に車内の窓やルームミラーなど、自分の姿を映すモノを麻井の血で塗り潰す。
車内の自身を映すモノを全て染めた文雄は、血に染まったタオルで麻井を刺し殺した刃物を、まとめて包みビニール袋に入れる。それを持って文雄は事切れた麻井の側にもう一度近づき、足先で何度も麻井の顔を蹴り様子を伺っている。その後幾度か蹴って満足したのか、文雄はふらつく足で車から降り、全身に青白い月明かりを浴びた。月明かりに照らされた文雄の姿は、上から下まで麻井の血で赤く染まっている。
自分の姿に気が付いた文雄は、ビニール袋片手に茂みの方へと歩き出し、そのままその場から姿を消した。
——現在
淡々と過去を語る文雄に対して香澄は、何一つ口を挟まずに静かに話を聞くに徹している。時折言葉を詰まらせた際にも、ただ静かに文雄が話を再開させるのを待つ。
「……——これが二十八年前に、私がした事です」
文雄が話の終わりを告げると、香澄は顔を強張らせて口を強く閉ざした。そして腕を組み瞼を閉じると沈黙した。一方二十八年前の罪を告白した文雄は、長年在り続けた胸のつかえが取れたかの様に、穏やかな表情を浮かべている。
「奈須さん。……何故それを私に話したんです」
香澄は瞼を開いて視線を落としたまま聞く。
「何故ですか、理由は簡単ですよ。あなたもあなたのご家族も、麻井眞一という男の被害者だからです。あの悪魔が私の妻を攫ってあの場所に行かなければ、妻は麻井から逃げて道路に飛び出す事もなかった。そうすればあなたのご家族が命を落とす事もなかったんだ。あなたはご自分のご家族を失っているにも関わらず、弁護士を通じて何度も謝罪を申し入れてくれましたよね。その時弁護士の方からあなたが、心身共にボロボロであると聞いていました。きっと自分を責めたのでしょうね。私と同じ様に……」
文雄の穏やかな表情は変わってはいない。しかし声を詰まらせた途端に、瞳からはポタポタと涙が溢れ出して机の上に落ちた。
「だから。本当はあなたには……あなただけはお伝えしてあげたかった。私やあなた。私の家族やあなたの家族は、誰一人として悪くはなかったのだと。……ハハハ。二十八年も秘密にしていた奴が何を言っているんですかね。いやぁ失礼、どうも歳をとると涙腺が緩んですぐに涙が出る」
その話を聞いた香澄はゆっくり瞼を一度閉じると、太腿の上に大粒の涙がポツリと一粒落ちた。そして再び瞼を開き文雄の方へと顔を向けた。
「そうですね。——随分と歳をとりました。あなたも私もお互いに。……それにそんな事が起きていたのに私は何も知らずのうのうと暮らして、あなた一人に泥をかぶせていたんですね。申し訳ありません」
「私がしでかしたことに、あなたが責任を感じる必要はありませんよ香澄さん。私はただあなたに知って欲しかった。私達が大切なモノを失った原因を。そして誰が私達からそれを奪ったのか。それ以上の負担をあなたに負わせたい訳ではない」
「ですが私もいち警察官です。あなたにその選択をさせた責任の一端を担っている」
香澄は文雄に頭を下げようとするが、文雄はそれを止めて首を横に振る。
「あなたが頭を下げても何も変わらない。私の家族もあなたの家族も決して戻ることはないんだ。何より私が犯した罪は私が背負うべきモノで、それを誰かと共有するつもりは無い。今回あなたをお呼び出しした一番の理由は、この話を取り調べで話せばきっと重要な部分はなかったことにされて、あなたの耳にまで届かないのではと懸念したからです。ですから香澄さん、この話は心の内に収めておいた方が、あなたにとってきっといい」
「それは出来ない。麻井眞一のしでかした事が闇に葬られたまま、あなたの裁判が行われればきっと猟奇的な殺人犯として扱われる。そんな事許されるはずがない」
「私もこの世に生を受けて久しい。世界が正義で回っていない事も十分に理解している。これから私が進む道が、どういったものになるのかも。そんな茨の道は一人で歩くに限る。あなたは私から供述を引き出した優秀な警官として、これからも弱者を救い続けてください。それこそが私や私の妻、あなたの亡くなったご家族が望んでいる事だと思います」
香澄は穏やかな表情を向けてくる文雄の顔を、見返す事が出来なくなり一度退出する旨を、外で待機制服警官に伝える。署員と入れ替わりで部屋を出た香澄は真っ直ぐ喫煙所に向かうと設置されたベンチに腰を下ろして早速タバコに火をつけた。
身体を小刻みに揺らしながら頭を掻きむしる香澄は、ポケットからスマートフォンを取り出し電話を掛けた。数回呼び出し音が鳴ると電話相手が出た。
『何だ香澄。今は少し忙しくてな、後じゃあダメか?』
『楢山さん。すいませんが緊急で聞きたい事が一つあります』
『ならさっさと言え』
香澄は一度深呼吸をしてから問いかける。
『二十八年前の殺人事件、あの時車内には本当に犯人の痕跡はなかったんですか?』
『……藪から棒にどうした?』
『先程二十八年前の事件の犯人だと、自ら出頭してきた奴がいます。犯行時の話を聞く限り現場には指紋も残されているはずなんです。ですが捜査資料にはそんな証拠は記録されていなかった。どうなんですか楢山さん』
『俺は当時まだ一課に配属されたばかりで、右も左もわからない時分だった。捜査資料にもまともに触れさせてもらえないほどにな。だが何か良からぬことをしているのは感じ取ってはいた。まさか証拠隠滅までしてるとは思わなかったがな。——俺は今から上の奴らと話し合いだ。今聞いた事も含めて話を詰める。だからお前はお前で捜査を進めておけ。……頼んだぞ香澄』
『わかりました。——楢山さん。いつまでもこんな事が、まかり通るのは見過ごせない。どうにか頼みます』
『あぁ。分かっている』
電話を切った香澄はタバコの煙を、深く吸い込み白煙を空に向かって吐き出す。その姿はまるで発車寸前の蒸気機関車の様で、警笛の音まで聞こえて来そうだ。そして香澄は灰皿に火のついているタバコを押し付けて消すと、足早に文雄が待つ取調室へと戻って行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます