(3)

「行ってきます」

「いってらっしゃい」

 朗らかな顔で家を出る珠紀を早江は笑顔で送り出した。リビングに戻ると朝食を終えた勇雄が、出勤準備を済ませて立っていた。

「あら、もう行くの?いつもより少し早いんじゃない?やっぱり仕事まだ忙しいのね」

「いや、まぁ。そうだな。ところでちょっと聞きたいんだが、俺の書斎に入って何か触ったり持ち出したりしたか?」

 早江は何のことかといった様子で、目を点にさせると首を傾げた。

「えっ?書斎?知らないわよ私。あなたがあの部屋の事は自分でするって言うから掃除だってしてないし。何かあった?」

「——いや。知らないなら、いいんだ。すまん変な事を聞いた。……仕事行ってくるよ」

 そう言って勇雄は家を出て仕事に向かう。そして早江は玄関まで出ると、勇雄の運転する車が見えなくなるまで笑顔を浮かべて見送り続けた。車が見えなくなると、早江は家の中に入り階段を上がって二階に向かう。そして勇雄の書斎のドアを躊躇なく開けると中の様子を見回した。部屋の中は早江が荒らす前の状態に戻ってた。早江は机の上にた見上げられた新聞をパラパラと捲ったり、棚に戻された本を手に取ってページを捲り中を一瞥するとまた本を棚に戻した。そして再度部屋をぐるりと見回して何事もなかったかの様に部屋を出て行った。

 一階に戻った早江は朝食を摂り終わると、食器を下げて身支度を手早く済ませた。そして家を出ると車に乗り込みパート先のスーパーに車を走らせた。

 早江が車を会社に指定されている場所に、停めようとするとそこにはすでに見慣れない車が停められていた。早江は仕方なくいつもとは違う場所に、車を停めて職場に向かった。いつもの様に警備員室の前を通ると、早江は顔馴染みの老夫の警備員と目が合い互いに会釈をした。社員用通路を通り更衣室で身支度をしている早江の後から、すでに働いているはずの同僚の草間が更衣室に入ってきた。早江はそれに気が付き話しかける。

「おはようございます。草間さん聞いてくださいよ。今日私の駐車スペースに知らない車が停まっていて、違う場所に停めるはめになったんです。誰が停めたんですかね」

「早江ちゃんそれどころじゃないわよ。何か知らないけどパートリーダーの中屋さんが、カンカンに怒ってて副店長引き連れて早江ちゃんの事待ち構えてるのよ」

 早江は怪訝な表情でそれを聞くと、草間に連れられて二人が待つ事務所に向かった。

 事務所では草間が言う通り、パートリーダーの中屋と副店長が待ち構えており、特に中屋は顔にまで怒りが滲み出ている様な形相を呈している。

「おはようございます。私のことを待っていると聞いたんで——」

 早江が言い終わる前に、中屋が大声で出して話を遮る。

「あんたまずは謝罪が先じゃないの?いい大人がそんな事も分からないなんて恥ずかしい。さっさと謝りなさい。話はそれからよ」

「何をそんなに怒ってるんですか?さすがに理由も分からないのに謝る事は出来ません。副店長は何か知ってるんですか?」

 パートリーダーの中屋の近くに立って見ていた副店長に、早江が問いかけると面倒くさそうにため息を吐いた。

「ええ、聞いています。ですから高佐木さんには早く謝ってもらいたいんです。そして一刻も早く皆さんには仕事に戻ってもらいたい。この時間だって時給が発生しているんですよ」

「だから何を謝ればいいんですか?それが分からないのに謝れる訳がないじゃないですか」

 早江が困惑しながら訴えかけると、中屋が一歩早江に近づき荒い口調で話す。

「あなたこないだ特売品のお肉、三パックも買ったでしょ。おかげで私は買うことが出来なかったのよ。もっと常識を持って行動しなさいよ」

 早江は訳がわからないといった様子で立ち尽くしていると、捲し立てる様に中屋が話を続ける。

「そもそも特売は店にお客を呼び込む為にしてるの、それを店の店員が馬鹿みたいに買ったら迷惑がかかる事ぐらいわけるでしょうが。これだから頭の回転が悪い人は嫌いなのよ。この際だから言わせて————」

 際限なく浴びせる様に話続ける中屋を、副店長が宥める様に落ち着かせると早江に向かって言う。

「まぁそういう事だから、ちゃんと謝罪はしてくれるかな」

 ようやく話す間を得た早江は我に返って答える。

「買ったのは私じゃなくて、買い物に来た主人が買ったんですが。それにこれまでにそんな指導受けた事ないです。なにより中屋さんや他の人も、特売品を購入していますよね?私だけが注意される意味がわかりません」

 普段職場では反抗的な反応を見せない早江に、中屋と副店長は戸惑いを見せる。

「あなたも何か言いなさいよ草間さん。元々あなたが高佐木さんが特売品を買い込んだって言ったのが始まりでしょ」

 中屋が草間の方を見て叫ぶ様にして言うと、早江は自分の背後に立っている草間を見た。しかし草間は視線を逸らしてモジモジと、身体を揺らすだけで何も言いはしなかった。早江はその様子を冷めた目で見つめると、大きなため息を一度吐いた。

「とにかく私は謝りませんから。ああそれと今日私の駐車スペースに、誰かが車を停めていたんですけど副店長何か知ってますか?」

 勢いよく話す早江に副店長はたじろぎながら答える。

「……たぶん今日から来てるパートさんが間違えて停めてるだけじゃないかな。よく言っておくよ」

「そうですか。それでは私は仕事に入るので失礼します」

 早江はタイムカードを切ると、その場で固まる三人を残して事務所から出た。早江がいなくなった事務所では、中屋が顔を真っ赤にしながら副店長と草間に不満をぶちまけている。

 一方売り場に出た早江は、淡々と入荷品を棚に補充している。そんな早江の近く、死角になる場所では、売り場のパートリーダーの津和が、新しく入ってきたであろう若いパート女性と一緒に作業をしていた。津和は異様なほどまで女性に身体を近づけて仕事を教えている。女性は見るからに不快感を示しているが、周りに居る人間は誰も行動しない。

 あまりにしつこく津和が身体を密着させようとするので、女性は「すいません。ちょっと近いです」と恐る恐る言うと津和は逆上して女性に叫んだ。

「何言ってんだあんた。勘違いしてんじゃねえよ。こっちは仕事で教えてやってるんだ。それをよくそんな風に言えるな。嫌なら自分一人でやれよ」

 あまりに強く言われた女性は反射的に謝罪の言葉を口にした。すると津和はそれをいいことに再び仕事を教え始めると、女性の腰に手を回そうとした。

 その時伸ばした津和の手を早江が手ではたき落とした。

「痛っ。何すんだお前」

「何すんだはあなたでしょ。何してるんですか?普通に犯罪ですよ?」

 仁王立ちで見つめる早江に津和は後退りしながら答える。

「何が犯罪だよ。ただ仕事を教えてただけじゃないか」

「いやいや。身体触ろうとしてましたよね?それに私の事も前から触ってますよね?大人しくしてるから大丈夫だと思ったんですか?」

 二人のやり取りに気づいた店員がバックヤードから副店長を連れてくると、その後ろから中屋と草間の二人も一緒について売り場に現れた。そして副店長は早江と津和の間に慌てて入った。

「店の中で何してるんですかお客様が見てますよ。高佐木さん今日はどうしたんですかあなた。前までのあなたならこんな事しなかったでしょ」

「まずは私がどうしたよりも、この場で何が起こったのかを聞いてくださいよ副店長。それでも管理者ですか?」

「分かりました分かりました。話は聞くのでとりあえず皆さんバックヤードに行きましょう」

 声を殺して話をする副店長が、早江や周りの従業員に促すが早江は動かない。

「副店長。私はもう有耶無耶にするのを辞めたんですよ。津和さん今、新しく入ったこの女性にセクハラしてたんですよ。あなた今までもこの人が、セクハラ行為をしてるのに見て見ぬふりをしてましたよね?加えて中屋さんが他の従業員にパワハラ行為をしてるのも黙認してきた。違いますか?」

 副店長の顔は瞬く間に血の気が引いていく。

「そんな大袈裟な。それに誰も黙認なんてしてませんよ。津和さんの事にしたってまだ話も聞いてないのに、その女性がセクハラされたなんて決めつけは良くないですよ」

 その話を聞いた女性は「されました。私、今その人にセクハラ」と大声で言うと副店長を睨みつけた。

「だそうですよ副店長。どうするんですか?」

 副店長は今度は顔を赤らめてプルプルと身体を震わせた。

「うるせー。どいつもこいつも。俺に面倒事を押し付けるな。セクハラ?そんなもんちょっと我慢すればいいだけだろ。それに文句ばかり言う中屋みたいなババアには、はいはい言っておけば事は丸く収まるんだよ。何でもかんでも俺に話を持ってくるな」

 副店長の叫びが店の隅々まで響き渡る。人の声が聞こえなくなった店内では、小さい音量で放送されているBGM曲だけが聴こえていた。誰もが固まっているその時、早江が最初に動くとポケットから、ボイスレコーダーを取り出して皆んなに向かって見せつけた。

「今日のやり取りコレに全部録音してるんで、本社のコンプライアンス部門の方に提出させてもらいます。それと私今日で仕事辞めさせていただきます。それではさようなら」

 その場から早江が立ち去ろうとすると、我に返った副店長が早江の肩を捕まえた。

「高佐木さん。それは困る。辞めるには前もって言ってもらわないと。それに辞めるのなら尚のことソレは置いていってください」

「痛いです副店長。もしも気に入らないようなら訴えてください。あとお忘れですか?店内には監視カメラがあるので後で証拠として残りますよ?手を離してください」

 早江の言葉で副店長は慌てて手を引っ込める。早江は振り返って中屋や津和、草間を見るが全員目を逸らして早江の方を見ようとしない。誰も近づかない事を確かめた早江は今度こそ、その場を離れて事務所でタイムカードの打刻を済ませた。そして更衣室に行き服を着替えると、社員用通路を通って出口に向かった。

 警備員室の前を通りかかると、いつもの老夫が座っており心配そうに早江に話しかけた。

「おいおい。さっき入ったばかりなのにどうかしたのか?」

「実は今日で辞めることになりました。今まで色々とありがとうございました」

 早江は老夫に頭を下げる。

「そうなのかい?何だか寂しくなるね。あんたみたいにちゃんとした人は、あまり居ないからねこのスーパー。でもあんたにはそれがいいかもね。元気で頑張ってね」 

「はい。あなたもお元気で」

 微笑む老夫に見送られて早江は建物から出た。職場を去る早江には悲壮感などは全くなく、むしろ憑き物が落ちたかの様に晴れやかな表情で車に乗り込んだ。


 勇雄がいつもの様に仕事を終えて家に帰り、風呂場に直行する。そして一週間の疲れを落とすように丹念に身体を洗うと、なみなみと張った湯船に身体を沈める。すると溢れ出たお湯が勢いよく流れ出る音が風呂場に響く。勇雄は風呂場の天井を仰いで鼻歌を口ずさむ。

 風呂を出た勇雄が機嫌良さそうにリビングに入ると、いつもなら用意されているはずの夕食が食卓には置かれておはず、代わりに早江が笑顔で椅子に座って勇雄を待ち構えていた。

「おかえり。疲れてるだろうけど、ちょっと話したい事があるんだ」

 勇雄は何も言わずに、対面の席に座って早江が話始めるのを待った。

「今日。仕事辞めてきちゃったんだ。何の相談もせずに勝手に辞めてしまってごめんなさい」

「仕事?……そうか。何があったか聞こうか?」

 早江は首を横に振って断る。

「大したことじゃないから大丈夫。ごめんね心配させて」

「気にしなくていい。家族なんだから。それに家の事も全部、早江にやってもらってるんだ毎日ありがとう。せっかく仕事辞めたんだし少しはゆっくりしてくれ」

 勇雄が俯いて言うと早江は嬉しそうに笑った。そして足の上で拳を作り振り絞るように言う。

「——もう一つ大事な話があるの」

 様子が変わったのを感じ取った勇雄は椅子を座り直して姿勢を正した。

「何だ?」

「嘘ついたの私。今朝聞かれた時は知らないふりしたけど、私あなたの書斎に入ったわ。ごめんね散らかして」

 勇雄は特に驚いた素振りも見せずに静かに話を聞いた。

「そうだと思ってはいたよ。別にいいさ気にしなくて」

「それだけ?他に何か言いたい事あるんじゃない?」

 腕組みをしながら目を強く閉じる勇雄。早江は勇雄宛の封筒を一通、近くに置いていたカバンから取り出すと勇雄の前に差し出した。勇雄は目を開けると目の前に置かれた封筒を手に持ち確認すると驚きの表情を浮かべた。

「……親父から。いつ届いたんだ?」

「実は先日あなたのお父さんに会いに行ったの。それはその時にあなたに渡してくれって言われて預かった物なの」

 勇雄は顔を手で覆って隠すとそのままの状況で話す。

「会ったのか親父に。何でそんな勝手な事を。何も知らないくせに」

「何も知らないからよ。あなたの父親でしょ?それなのに二十年以上も死んだなんて嘘をついて私に隠してた。一体何でなの?」

「親父から聞いてないのか。……そうか。そりゃあそうだよな」

 勇雄は顔を覆った手を降ろすと、席を立ってキッチンに向かった。そして冷蔵庫から缶ビールを二本取り出すと、それを持って席に戻ってきた。

「そんなに聞きたいなら話すよ。全部。だけど早江、聞いて後悔しても遅いからな」

 勇雄はそう言って缶ビールを一本早江の前に置くと、自分の分の缶ビールの開けて勢いよく口に流し込んだ。それを見た早江は缶ビールを開けると、躊躇しながらも一口くちに含んで飲み込んだ。

「何があなたをそこまで苦しめているのかは分からない。だけどあなたの家族として私はちゃんと知りたいの」

 真っ直ぐに見つめてくる早江の目を見返した勇雄は、鼻の頭を指でポリポリと掻く。そして諦めた様にゆっくりと話す。

「俺の親父。奈須文雄は……人殺しだ」

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