(2)
日曜の正午前、二階の寝室から大きな欠伸をしながら勇雄が出てくると、眠気まなこを手で擦りながら階段を降りてリビングに入る。リビングには誰の姿もなくテーブルにはラップをかけられた朝食が一人分置かれていた。勇雄はいつもの自分の席に座ると、テーブルに置かれている新聞を開いていつもの様に食事を摂り始めた。
勇雄はスラスラと記事を読み進めると地域のニュース欄に差し掛かった。そこには先日発見された女子高生に関する情報が、大きく取り上げられており勇雄は特別その記事を丹念に読んでいた。しかし二階から降りてきた珠紀がリビングに入ってくると慌てた様子で新聞を捲った。
珠紀は勇雄を一瞥すると冷蔵庫から飲み物を出して飲んだ。勇雄は新聞に顔を向けたままふいに珠紀に話しかける。
「母さんは、出掛けてるのか?」
珠紀は飲みかけのコップをキッチンのシンクに置くと勇雄の方に顔を向けた。勇雄は変わらず新聞の紙面を眺めているが、その目の端には珠紀の顔が映っていた。
「——さぁ。私も今起きたばかりだから知らない。……パートなんじゃない」
珠紀の口から出た言葉は、決して暖かみのある言葉でも口調でもなかった。だが久しぶりに返された言葉に話しかけたはずの勇雄は、些か戸惑い少しの間があいた。勇雄はそのままの体勢で軽く咳払いをしてから口を開く。
「そうか」
短い返答ではあるがその言葉には震えが滲んでおり、勇雄が懸命に搾り出した言葉であることは珠紀にも伝わった。珠紀はコップを持つとテレビの前に座りチャンネルをつける。テレビ画面の中では一人のコメンテーターが、芸能人の薬物使用に関して批判している姿が映されていて、そのコメンテーターの脇を構える出演者達もその意見に同調して口々に批判的な意見を出しては鼻息を荒くしている。
珠紀はテレビ番組をやけに冷めた目で観ると、首を傾げてチャンネルを回した。次にテレビ画面に映ったのは、先日遺体で発見された巳姫の事件に関して話し合う情報番組だ。司会に意見を求められた人達が自分の意見を話している。若者がこんな死に方をするなんて許せないと言う者や、言葉を詰まらせ涙を流す女性出演者。最後に司会者が『一日も早い解決を望みます』と言うと、次の瞬間には軽快な音楽が流れてそれまでの暗い雰囲気から一転した。拍手と共に満面の笑みで登場した出演者がトークを始めると、ご当地料理特集にテーマは移り変わった。それを見て珠紀はテレビを消した。
「くだらない」
極めて小さな発せられた珠紀の一言は、勇雄に届いた様子はない。立ち上がった珠紀はコップをキッチンの流しに置く。勇雄は珠紀の動きをチラチラと目で追いかけており、キッチンから出てきたタイミングで再度声を掛けた。
「昼飯。——冷蔵庫に何も入ってないだろ。何か買ってこようか?」
「私今から出掛けるから。……でも帰ってきたら食べるかもしれないから、買い物に行くなら一応買っておいてよ」
「わかった。適当に買っておくよ」
「それとさ。——なんで。……もない。私もう出掛けるから」
喉に何かがつっかえた風に珠紀は言葉を詰まらせると、リビングを出てそのまま外出した。一人家に残された勇雄は朝食を食べ終わると、食器を持ってキッチンに向かいシンクに溜まっている他の食器と一緒に洗う。テキパキと手際よく洗い物を済ませ次に勇雄は、キッチンの棚から清掃道具を取り出してシンクの水垢とりを始める。時々目立つ汚れに顔を近づけたり、見る角度を変えてシンクを隅々まで丁寧に磨き上げる勇雄。
作業が終わる頃にはシンクはすっかり綺麗になり、満足気に覗き込む勇雄の顔がまるで鏡の様に反射されていた。それも終わると鼻歌混じりで寝室に向かい、服を着替え外出の準備を済ませて車に乗り込み早々に発進させた。
大通りに差し掛かると、交差点の信号に引っかかり勇雄の乗る車は停車した。日曜日な事もあり周囲には、家族で笑顔溢れた搭乗者が乗る車が多い。勇雄はそんな周りの様子を見て優しく微笑んだ。信号が青に変わるり再び走り出した勇雄が運転する車は、近くのスーパーの駐車場へと進入して店舗入り口から近い駐車スペースに車を停めた。
車外に出た勇雄はスーパー内に入ると、買い物カゴを持って店内で物色を始める。まず最初に勇雄はアルコール飲料のコーナーに向かうと数本のアルコールをカゴに入れた。勇雄が選んだ酒はどれも、アルコール度数の高い巷ではストロング系と呼ばれるものばかりだ。次に惣菜コーナーに行くと、大量に置かれた弁当や惣菜品を見て歩く。そして弁当を二つ手に取るとそれもカゴに入れてレジの方向へと歩き出した。
菓子コーナーを横切る勇雄は棚に並んでいるある菓子に目を留めると、足を止めてそれを手に取った。勇雄が持っているのは知育菓子の一種で、自分で作るをコンセプトに売り出されている菓子だ。棚には似た様な菓子がズラッと並んでおり、勇雄はそれらの菓子を手に取っては、どんなものかと真剣な表情で箱の裏に書かれた説明文を読んでいる。
「何してるの?そんな顔してお菓子コーナーに居られたら、子供が怖がって近寄れないわよ」
突然現れた早江は勇雄の顔を覗き込みながら、怒り口調で注意すると勇雄は驚きの声を漏らした。アタフタしながら持っていた菓子を、棚に戻す勇雄の姿を見た早江はお腹を抑えて笑った。
「そんなにビックリすることないじゃない。——そのお菓子って確か珠紀が小さい頃、買ってくれってよくねだってたやつよね。なんだか懐かしいわね」
「……ああ、そうだな」
早江は勇雄が持つ買い物カゴを覗き込み中を確かめると思い出した様に話す。
「ごめんなさい。そう言えば書置きするのと、お昼ご飯の用意忘れちゃってたわね。でもいくらなんでもお弁当二つはさすがに食べ過ぎじゃない?もういい歳なんだから健康には気をつけないと」
「一人でこんなに食べられるわけないだろ。——珠紀に食べるかもしれないから、買っといてくれって言われたんだ」
早江は大きく目を見開き勇雄を見て言う。
「何?二人で話したの?」
勇雄は恥ずかしそうにコクリと一度だけ頷くと、早江の顔には満面の笑みが浮かび声を高くして話す。
「本当なの?よかったわね。やっぱり遅れて始まったちょっとした反抗期みたいなものだったのよきっと。——そうだっ。今日牛肉の特売日だから買って帰ってくれる?晩御飯はすき焼きにするから」
「たかだか話したぐらいで大袈裟だろ。まぁちゃんと買って帰るよ」
「お願いね。私はそろそろ仕事に戻るわ。気をつけて帰ってね」
笑顔で早江は勇雄に向かって手を振ると、勇雄は照れながら小さく手を振り返した。久しぶりに早江の笑顔を見た勇雄は、早江の後ろ姿を見ながら一人微笑んだ。
「おはようございます」
捜査本部に入ってきた酒井は、口を大きく開いて眠たそうに欠伸をしながら、自分のデスクで作業をする香澄に挨拶をする。それを見た香澄は心配そうな表情を浮かべて酒井に言う。
「おいおい。お前ちゃんと寝てるのか?そんなげっそりした顔をして、目の下だってクマがクッキリ出てるぞ」
「ハハハ。少しは寝てますよ。やるべき事をやる為には、多少の無理は仕方ないですよ。それに香澄さんだってまた寝てないんでしょ。鏡見た方がいいですよ酷い顔だ」
「俺はいいんだよ。年取ると少しぐらい酷い顔の方が渋みが出て格好いいんだ」
香澄は無精髭が伸びた頬をさすりながら話す。酒井はカバンからファイルを一冊取り出して香澄に渡した。
「とりあえず今の所分かっている女子高生の方の事件の情報をまとめておきました」
「おっ、ご苦労ご苦労。それで何かわかったか?」
「ええ。香澄さんが電話で言ってた辺りを、詳しく調べてみたんですがどうやらその線が濃そうですね」
「て事は亡くなった女子高生は、やはり援助交際に手を出していたってことか。殺人事件の被害者である荒沼泰之は買春に手を出していたし、薄いながらもやはり繋がりが見つかったな」
酒井に手渡されたファイルを、確かめながら話す香澄。
「昨今は援助交際なんて言い方じゃなくて、パパ活って言うそうですけどね。少しは時代で流行している言葉覚えないと置いていかれますよ」
「またそんな話か。結構結構、俺は古いままでいい。いくら外見が変わろうが、中身が一緒なら言い方の変化に意味なんてないだろ。それを言うと年寄りは何も分かっていない、なんて言う輩も出てくるが関係ない。訳のわからん方向に進む時代に付いて行くぐらいなら、大人しく時代に取り残されるよ」
「頑固だなまったく。……まぁ香澄さんが言わんとする事もわからなくはないですがね」
酒井は香澄の横のデスクの椅子に座り香澄の方に体を向けて言った。香澄は渡されたファイルを確認しながら酒井に問いかける。
「この女子高生殺人事件の被害者。空山巳姫は家庭環境的には不安定になる要素なんて見つからないが、なんで援助交際なんてものに手を出して身体を売っていたんだろうな」
「その事ですけど、彼女調べた所どうやら養子として空山家に、迎えられていたみたいなんです。なかなか子宝に恵まれなかった夫婦が、幼かった彼女を迎え入れたまでは良かったのですが。その後自分達の子供を奇跡的に孕って生まれた妹が居るようで、それからは両親の愛情は妹の方に集中していたみたいです。それと今流行りのパパ活ってモノは、必ずしも肉体関係がある訳ではないそうですよ」
「そうだとしても自分を売ってることに変わりはないだろ。例え周りの環境がまともと呼べないものだったとしても、幾つもある選択の中からあえてそれを選んでんだから言い訳も出来ないだろ。家庭内で暴力でも振るわれていたなんて情報でもあるのか?」
「被害女性の近所の住人に聞いたところそれも無さそうですね。ですが小中高と学校関係者から聞いた話では、両親の学校行事への参加はほぼなく。辛うじて中学の進路についての三者面談に、顔を出した事がある程度だったそうですよ。その時も『この子の好きな様にさせます』って一言だけでそれ以上何も口を挟まなかったそうで。関心が無い様に見えたと当時の担任教師は証言していました」
椅子の背もたれに寄りかかり、部屋の天井を眺めながら少し考えてから話す香澄。
「まぁ家の中の事なんて外の人間には分からんし、ましてや人の心の内なんてもんを勝手に考察したところで無意味だろ。とりあえずわかってるのは殺害された女子高生が、援助交際に関わっていたのは事実で、加えてもう一つの事件の被害者である男も買春をしていた。その共通点が二人を繋いでいる可能性は高いだろう。酒井、お前はその点を集中的に調べてくれ。俺は引き続き麻井眞一と友人関係だった二人について調べる」
酒井は香澄の指示を受けて「わかりました」と一言いうと、すぐに調査に向かった。香澄が酒井のまとめた資料を丹念に読み込んでいると、香澄の席から離れた捜査員が声を張って話しかけてきた。
「香澄さん。よくわからんのですが、隣街の署から香澄さん宛に電話入っているんですけど回してもいいですか?」
「隣街?俺は今から外に出ないといけなんだ。要件だけ聞いておけ」
香澄が渋い顔で受話を断ると、話しかけた捜査員も素直にその旨を電話相手に伝えた。だが電話で少し話をすると、間をおかずに部屋を出ようとしている香澄を呼び止めた。捜査員がとにかく電話に出る様に言うと、香澄は眉間にシワを寄せながらも電話に出た。
『はい。香澄ですが、何の用ですか?』
不機嫌そうに電話に出た香澄に相手は低姿勢でことの説明を始めた。すると最初こそ怒りを滲ませた表情だったが、次第に驚きを滲ませた表情へと移り変わる。電話相手から数分の説明を受けた香澄は、受話器を置くと走って署から出て車に乗り込んだ。そしてそのまま一人で車を運転すると、寄り道もせずに電話があった隣街の警察署まで走った。
香澄は車を駐車場に停めて署の入口に急いで向かうと、そこには署員が一人立っており香澄を待ち構えていた。
「急な連絡にも関わらず、ご足労ありがとうございます。部屋はこちらなので付いてきてください」
二人は挨拶をほどほどに済ませると、署員の案内で署の奥へと早足で向かう。
昼下がりの署内には多くの署員や一般人が、廊下を行き交っており時折身体がぶつかり、騒がしい音が香澄の耳に届く。しかし香澄の不安な色が漂った瞳は行く先だけを見ていて、それら以外に視線が向けられる事はなかった。
段々と人通りが少なくなると、案内人である署員は『取調室』と書かれた部屋の前で立ち止まり、香澄に入室を促した。香澄は小刻みに震える手でドアノブを握りしめ、一拍置いてドアを開いた。
部屋には三人の人間が居た。一人は部屋の隅にもたれ掛かり腕組みをしているスーツの男。もう一人は手前側にどっしりと座り、机の上で手を組んでいる中年の制服警官。最後に部屋の一番奥で椅子に座る老夫が一人。香澄は驚いた様に目を見開くと部屋に入ってドアを閉めた。そして真っ直ぐ部屋の奥に座る老夫の側に向かうと、頭を深く下げて言う。
「ご無沙汰していますと言えばいいのか、初めましてと言えばいいのか……。本当に申し訳ありませんでした」
「そうですね。こんな風に会ってしまってこちらこそ申し訳ない。香澄さん、頭を上げてください」
老夫は香澄の方に身体を向けて言った。その言葉を受けて香澄が頭を上げると、それまで黙って見ていた制服警官が話し始めた。
「あなたの要望通り香澄刑事を呼びましたよ。次はあなたがこれについて話す番だ、奈須文雄さん」
制服警官は手に持つ袋を机の上に置くと、中から錆びた包丁が姿を見せた。
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