(6)
休日のよく晴れた朝方。川沿いを一人で歩く少年の手の中には小銭が握られている。降水量が少ないせいで、例年よりも川を流れる水の量は少ない。むせ返すほど熱い日中も、川沿いを歩けば幾らか涼しくなる事を少年は知っていた。それは誰かに教えられてしている訳ではなく、少年が生活の中で自ら気がついてそうしている。
川沿いをずっと真っ直ぐ突き進むと、駅前の商店街に出た。店の数こそ多くはないが、日常で必要なものぐらいなら何でも手に入るぐらいには店は揃っていた。少年は本屋や駄菓子屋、床屋に靴屋の前を脇目も振らずに通り過ぎ花屋の前で立ち止まる。店の前には特売品の質の悪い枯れかけの花が並べられているが、少年は一瞥して店内に入った。
「いらっしゃいま……」
出迎えた男性店員は少年の姿を見るや否や、あからさまに迷惑そうな表情を浮かべた。
「あの、……バラって売ってますか?」
「バラ?そりゃあ、花屋なんだからあるに決まってるだろ。それでどんなバラが欲しいんだよ」
ぶっきらぼうに言い捨てる店員。
「あの、バラが欲しいんですけど」
「バラって名前は、言わば寿司みたいなもんなんだよ。寿司屋に行って寿司くれって言っても何の寿司か分からなきゃ出せないだろ」
少年は顔を赤らめて握りしめた小銭を数えると、言い難そうに口ごもりながら話す。
「あの、僕あんまり花に詳しくなくて。五百円で買えるバラって売ってますか?」
店員はフラワーキーパーからバラを二本取り出すと、少年の目の前に並べた。
「左が三百円、右が五百円。どっちにすんの」
店員が出したバラは花の大きさに違いはあるが、どちらも萎れかけている為。少年はフラワーキーパー内にある別のバラを指差して聞く。
「あっちの綺麗なバラは五百円じゃ買えませんか?」
店員は舌打ちをすると、先に出していた二本のバラをフラワーキーパーに戻した。
「文句があるなら買って貰わなくて結構。仕事の邪魔だからさっさと店から出て行ってくれ」
「すいません。要ります、さっき見せてもらった五百円のバラ下さい」
少年が慌てて言うと店員は、少年に聞こえるほど大きなため息を吐きながら、先程出した萎れたバラを少年の前に置いた。少年は百円玉を三枚と、残りを五十円玉と十円玉、五円玉に一円玉を使って払おうと並べて数えた。
「おいおい、そんな細かい小銭受け取れないよ。もう迷惑だから帰ってくれ商売の邪魔だ」
店員はそう言ってバラを元の場所に戻して少年を追い払おうとした時、腰ほどまで伸びた長い髪の可愛らしい若い女が店内に入ってくると、近くに並べられている仏花を手に持ちやって来た。
「いらっしゃいませ。そちらお会計でよろしかったでしょうか」
店員の声色は少年に向けられていたモノとは一変して、猫撫で声を発している。
「えぇ、お願いします。……ところで、どうしたの少年」
広げた小銭をかき集める少年に気づいた若い女は腰を屈めて少年に話しかけた。
「これじゃ。買えないって言われたんで集めてます」
女は少し考える素振りを見せるとまた口を開いた。
「少年。何買いに来たの?」
「……バラです」
「それ全部でいくらあるの?」
「大体、五百円」
女は立ち上がると、包んだ仏花を持って来た店員に言う。
「五百円で買えるバラ下さい」
店員は少年の方を一度睨みつけ、先程と同じ萎れたバラを出した。女は出されたバラを見た途端、険しい表情をして店員を見つめる。
「まさかこの萎れた花を売ろうって訳じゃありませんよね?」
「いやいや、今五百円で売れるバラがこれしかないもので申し訳ない。嫌なら買わなくていいですからね」
女は長い髪の毛をかき上げると腰に手を当てた。
「私近くの高校の生徒なんですけど。これから卒業祝いの花やらなんやら、みんなにこの店で買う様に宣伝するんで、そっちの大きくて綺麗なバラを今回だけ五百円で売ってくれませんか?」
女はフラワーキーパー内にある一際大きくて綺麗なバラを指差して言うと、店員は観念したのか肩を落として女が要求する花を一輪取り出し手渡した。女は頭を下げて礼を言うと早々に会計を済ませ、小銭を集め終えた少年の手を引いて店を出た。少年ご事態を飲み込めず混乱していると、人通りの少ない商店街の外れで女は立ち止まり少年の手を離した。
「はい、五百円」
女は花屋で買った一輪のバラの花を持ち、満面の笑みで少年に言った。少年は惚けた顔で女の顔に釘付けになる。女が笑顔のまま首を傾げると、少年は我に返り急いでポケットに仕舞った小銭を出して女に渡した。女は渡された小銭を丁寧に数えるとバラと百円玉を一枚少年に渡した。
「やったね少年。本日お姉さん商店は特売日で全商品百円引きなんだよ。だからその百円は少年のモノだからね。それじゃお姉さんは行くから気をつけて帰るんだよ」
女はそう言うと少年に笑顔で手を振った。一度は我に返った少年だったが、手渡されたバラの花と百円玉を握りしめ、去り行く女の後ろ姿をいつまでも目で追っていた。
女の姿が見えなくなると振り返って歩き出した少年は、何度も後ろを振り返り女が姿を消した方に視線を送ったが、女が再び現れることはなかった。
少年は最後に一度振り返り道を見る。そして先程女に引かれた掌を見つめると名残惜しそうにその場から離れた。
少年は線路傍に続く道を延々と一人で歩く。太陽から降り注ぐ陽の光が容赦なく少年から体力を奪い続けるが、歩みを止めるどころかその歩行スピードさえ落とさずに歩く。時折通る車のドライバー達は、横を通る際に汗だくで歩く少年に視線を向けたが、それ以外は何もしない。車のスピードを上げるでもなく下がるでもなく、ましてや停まろうとするでもなく轢き殺す訳でもなく。まるで唯の景色の一部を眺めるかのような愛も憐れみもない、そんな視線が少年の瞳には映っていた。
少年はひたすら歩くと、少年が住む街から隣街の主要駅の目前まで着いた。長時間移動し続けたので、さすがに少年の歩むスピードも些か落ちており、顔にも疲労の色がうかがえる。少年の横を電車が通り過ぎると、電車がかき分けた空気が風になって少年に僅かばかりの涼やかさを運んだ。手に握りしめたままの花は、受け取った頃に比べて少々萎れてしまっているが、それでも最初に店主が売りつけようとしたモノよりも幾分かマシだ。
駅前に着いた少年はポケットから走り書きされた紙切れを取り出して持つと、街の案内図が書かれている大きな看板の前に駆け寄り紙切れと案内図を交互を見比べる。そして次に位置関係を調べる為か、辺りを見回すと目印になる建物を探すとまた案内図と見比べた。ようやく少年が動き出した時、誰が少年の汗で濡れた服の上から肩を叩いた。
少年が恐る恐る振り返ると、そこには先程代わりに花を買ってくれた女が立っていた。
「また会ったね、少年。汗だくだけど、もしかして歩いてこんな所まで来たの?」
目を見開いて問いかける女に、少年は小さく頷いて答えた。すると女は急にカバンを漁り出すと、中からハンカチを取り出して少年の汗を拭った。
「何処か行きたい所でもあるの?」
女が聞くと少年は顔を赤らめて紙切れを女に見せた。
「何処に行きたいの?」
問いかける女は真っ直ぐ少年の瞳を見て尋ねると、少年も真っ直ぐに瞳を見つめて頷いた。女は汗を拭うと少年の手を引いて駅前の自販機に向かうと、小銭を入れて冷たいお茶を一本買い少年に渡した。
「とりあえずそれ飲みな」
「あの……、ありがとうございます」
少年は謙遜しながら一口お茶を口にした。すると喉の乾きを思い出したのだろう、勢いよくお茶を飲み始めた。女はその様子を微笑んで眺めると、少年が持っていたバラの花を預かると、女が持つ仏花の束と一緒に濡れたティッシュが仕込んだ持ち手に差し込んだ。
「少年。君が行こうとしている霊園、実は私も今から行くのよ。だから一緒に行こう」
お茶を飲み終えた少年の手を女は再度握りしめると、少年と共に目的地である霊園に向かう。
「ところで、少年の名前聞いてなかったね。何て言うの?」
女の問いかけに少年の表情が初めて暗くなった。その顔を見た女はすぐさま笑い声を上げる。
「まっ。名前なんて何でもいいか少年。私のことはお姉さんって呼んでよ」
少年は前を向いて笑いながら手を引く女の横顔から目を離さずにいた。そして一言「うん」とだけ言うと赤らめた顔を隠す様に俯いて歩く。
霊園までの道中、女は他愛のない話をしきりにするが少年は頷くか、素っ気ない返事を返すに留まった。だが女は嫌な顔一つせず、それどころか笑顔を少年に向けて話していた。そして霊園に着く頃には、返答こそ変わらなかったが少年にも笑みが溢れ始めていた。
「到着。それじゃあ少年、お参りが終わったら入り口で待つ様に。解散」
女は花束からバラを一輪取り少年に手渡すと、一人背を向けて霊園の中を歩いて行った。少年は手渡されたバラを握り締めると、周囲を見回した。そして霊園の隅に立つ大木を見つけるとそれを目指して歩く。高低差があるこの霊園には長い階段が幾つか縦に走っており、少年はその内の一つを駆け上がった。そして大木のすぐ近くまで行くと、遠くの方で墓参りをしている中年男性の姿が少年の目に入った。少年は近くの木陰に身を潜めると、顔を覗かせ様子を伺う。
腰を落として墓石を見つめながら、男性は何やら延々と口を動かしている。時折着ている服の袖で目を拭う素振りをしていることから恐らくは涙を流しているのだろう。男は最後に手を合わせると一分以上も拝み続けた。そして顔を上げると桶を持ってその場から離れた。
少年はその光景を感情の起伏なく見続けた。そして男性が戻らない事を確認すると、物陰から出て先程まで男性が拝んでいた墓の前まで進むと立ち止まった。
墓前には先程の男が備えたであろう、豊富な仏花が飾られていて菓子やジュースが並べられている。さらに墓石は磨かれていて、その周囲も綺麗に掃除されている。少年は握りしめたバラの花を並べられた菓子の上に置いて、両手を合わせて瞳を閉じた。
初夏の風が大木の枝を揺らす音を、霊園内に運ぶと少年は閉ざしたままの目尻から、ツーっと一筋の涙を溢した。
「かあさん」
少年の呟きに近い小さな声は誰の耳にも届く事なく風にかき消された。少年は瞳を開けると頬に残った涙の痕跡を掌で拭い取り立ち上がり墓石を見て微笑む。
「また……来るね」
先程に比べて少し大きな声でそう言うと、少年は名残惜しそうに霊園の入り口に向かった。そこには既に女が待っており、遠目でそれに気付いた少年は彼女の元まで走って行く。途中階段で転びそうになったが、なんとか堪えるとそれを見ていた女が慌てて駆け寄った。
「走ったら危ないぞ少年。急がなくてもちゃんと待ってるのに」
「……ごめんなさい」
少年が俯いて反省をしてみせると、女は行きと同じ様に手を握ると引っ張て歩き始めた。
「それで。少年はちゃんとやろうと思ってた事はできたのかい?」
「できました。ありがとう、お姉さん」
顔を真っ赤にして礼を言う少年の頭を女は空いたもう片方の手でわしゃわしゃと撫で回した。
「えらいぞ少年。ちゃんとお礼が言えるなんて、どういたしまして。バラの花は大事な人に贈ったの?」
少年は少し困り顔で指先でポリポリと鼻の頭を掻いてから答える。
「かあさんに。……好きって言ってたから、かあさん」
「そっかー。バラって綺麗だもんね。私も好きだなバラ」
「お、お姉さんは誰にあげたの。お花」
女は空を見上げて指差した。
「私もお母さんにだよ。喜んでくれてるといいね。少年のお母さんも私のお母さんも」
空を見上げて話す女の視線の先を、少年も追いかける様に見つめた。まるで世界の全てが空の青色に染まった様に、青空が一面に広がっている。霊園周りの茂みから聞こえる虫の音色が空を見上げる二人の間に静かに鳴り響いていた。
二人は互いに顔を見合わせると微笑み合い、共に歩みを進めて帰路に着いた。
他愛無い話を続けている内に駅に到着した二人は券売機の前まで行くと、少年は不安そうに鼻の頭をポリポリと指で掻いた。
「私はここのまで電車で帰るけど、少年の家はどの駅の近くかわかる?」
女は線路図に書かれた駅を指差して尋ねると、少年は服の裾を掴んで口を噤んで、女が指差す駅と同じ場所を指差した。
「一緒の駅なんだね。ちょっと待っててね」
女はそう言って券売機に向かうと、切符を二枚購入して一枚を少年に手渡した。
「ありがとう、ございます」
女は切符を受け取り感謝を伝える少年の手を引いて構内に入ると、反対側のホームにちょうど電車が到着したところだった。二人は手を繋いだまま走ると、間一髪のところで電車に乗車できた。二人が乗った直後、駆け込み乗車に関する注意喚起の放送が構内に流れた。そしてドアが閉まると電車はゆっくりと加速し始め、徐々にその速度を上げた。
ガタンッガタンッといった音が一定のリズムで響く。乗客の少ない車内ではベンチシートにまばらに人が座っている。そんな中、少年は車両の一番前でガラス越しにキラキラした目で運転席を眺め、その後ろに女が見守る様に立っている。少年は駅に到着するまでの間ずっとその場所から離れなかった。
目的地の駅に到着した二人が、駅の外に出ると太陽が街をオレンジ色に染めていた。女は駅にある大きな時計で時間を確かめると、時計の針は夕方の六時を回っていた。
「遅くなっちゃったね。家まで送ろうか?」
女が聞くと少年は激しく首を横に振ってそれを断る。女は少年の頭を撫でながら言う。
「わかったよ少年。今日は本当に楽しかった。ありがとうね。また何処かでお姉さんの事見かけたらちゃんと話しかけてよ。……それじゃあ、元気でね」
女は最後に少年に微笑み掛けると、背中を向けて少年から離れて行く。
少年は離れて行く女を見つめて一、二歩足を前に出すと、大声で叫んだ。
「お姉さん、ありがとう。僕も本当に楽しかったし嬉しかったよ。お姉さんも元気でね」
女が足を止めて振り返ると、笑顔で大手を振る少年の姿がそこには在った。女はそれを見て嬉しそうに笑うと、少年に負けじと満面の笑みで手を大きく振り返した。太陽の光はそんな二人を鮮やかなオレンジ色で優しく包み込んだ。
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