(5)
散らかったデスクに脚を乗せ椅子に座ったまま、天井を仰いでイビキをかく香澄の首元に、キンキンに冷えた缶コーヒーを押し当てる楢山。
「冷たっ」
慌てて目を覚まして椅子から飛び降りた香澄を見て楢山は腹を抱えて笑う。香澄はそんな楢山の姿を、やれやれといった様子で見つめる。
「楢山さん。もう良い歳なんだからそろそろそんな子供じみた事やめてください。若い署員が見たら、ヤバい奴だと思われて距離を取られますよ」
「馬鹿野郎、人間なんてのは歳を取れば取るほど子供に戻っていくモンなんだよ。それよりも何か進展はあったのか?」
缶コーヒーを差し出しながら言う楢山。香澄はそれを受け取ると早速一口飲んでから答える。
「まだ調査中ですが一応の進展はありましたよ」
「どんな進展なんだ」
問いかける楢山に即答せずに香澄は部屋を見回してから口を開いた。
「ちょっと寝起きのタバコに付き合ってくださいよ楢山さん」
そう言って喫煙所に向かう香澄を見て察した楢山はその後を黙って追う。
喫煙所は建物を出て通行人などの目に晒されにくい裏手の奥まった場所に設置されている。喫煙所に着くと、先客と入れ替わる様に二人は備え付けのベンチに腰を下ろした。
「それで、何がわかった?」
「焦らないでくださいよ。ちゃんと言いますから。それよりどうです、一本吸いますか?」
香澄は箱から一本飛び出したタバコを楢山に向けて見せびらかす様に、ゆらゆらと揺らしながら差し出す。楢山は腕を組みをしながら頭を悩ませるが、最後は手を伸ばしてタバコを受け取ると口に咥えた。それを見て香澄は手に持つライターで火をつけると、楢山は肺いっぱいに煙を吸い込み吐き出した。それを嬉しそうに見届けて香澄もまたタバコに火をつけた。
「毎度毎度誘惑しやがって。おかげで禁煙できねぇだろ」
「この間は自分から吸ったじゃないですか、何でもかんでも人のせいにするのは良くないですよ」
「まぁいい。それよりも、何がわかったんだ?」
空を仰ぎながら問いかける楢山。
「被害者であり容疑者でもある麻井眞一の事を調べる内に現在までに、いくつかわかりました。まず一つ、なかなか過酷な幼少期を過ごしたと言う事です。麻井は母方の祖父母に育てられたのですが、現在で言うとネグレクト。昔ながらの言い方なら育児放棄、加えて祖父には家庭内暴力も受けていた様です。そんな決して恵まれた環境と言えない中で育っていました」
「確かに可哀想な話ではある。だが言っちゃなんだが、どこにでもある話と言えばよくある話だろ」
「確かにそう言えばそうですね。ですが麻井の場合は更に小学、中学、高校と常に学校でもいじめの被害に遭っていたみたいです。それもあり最後は進学した高校を一年と経たずに退学しており、その後はアルバイトなどで生計を立てていたみたいです」
楢山が考え込んでいると若い署員二人を従え、大声で説教をしながら肩で風を切る中年の男性署員が喫煙所を訪れた。だが楢山の姿を確認して会釈をすると、そそくさと若い二人を引き連れてその場を離れた。
「ったく。誰かに聞かれて困る説教ならするなってんだ。なんでこうも弱い奴に強く出る人間が多いんだ。敵わんな」
「強い奴にも強く出過ぎて出世の道を断たれるのもなかなか無いですけどね」
堪えきれない様子で笑いを溢しながら言う香澄に楢山の鋭い視線が刺さる。
「ま、まぁ冗談はこんなところで。話を戻しますが、俺は麻井眞一の学校関係者や当時暮らしていた祖父母の家周辺で情報を集めています」
「一人でか?酒井はどうした」
「その事なんですが、元雑誌記者だった男から入手した資料にもう一つ気になる情報が載ってたんで、そっちを調べさせてます」
「一人で捜査させてるのか?お前にしては思い切ったな」
「そこは俺を育ててくれた楢山さんを見習って取り敢えずやらせてますよ。それよりも今、酒井に調べさせてるのは、元アルバイト仲間に関する情報なんですが、どうも麻井には当時よく一緒につるんでいた仲間が何人か居たみたいなんですよ」
それを聞いた楢山はがっくりと肩を落とす。
「まったく。要するに当時、連続婦女暴行事件を担当した捜査官達は、そんな簡単な事も調査せずに事件を隠蔽したのか。胸糞悪い話だな」
空を仰いだままタバコを吹かしながら言う楢山。香澄は吸い終わった吸い殻を灰皿に捨てると立ち上がる。
「楢山さん。戻らないんですか?」
「あぁ。もう一本吸ってから戻るから、一本置いてけ」
香澄は服を弄り、残り少ないガスが入ったライターを一つとタバコを一本、楢山に手渡すと一人署内に戻った。
捜査本部に戻った香澄は、入り口に置かれたコーヒーメーカーを操作して濃いコーヒーを一杯入れた。それを手に持ち自分のデスクに戻ると、椅子に座ってコーヒーを啜った。そしてコーヒーを荒れたデスクの端に置き、元記者の男から貰った書類を手に取って開いた。そこには警察で保管されている資料よりも、多くの情報が詳細に書かれている。その中でも麻井眞一に関する資料は警察の保管資料の中には無い情報だ。多くの情報の中でも生い立ちについてはとりわけ事細かに書かれていた。高級クラブでホステスとして働いていた母親が、客として知り合った波豆川の愛人になった事。そして出産前に父親である当時まだ一、警察官僚だった波豆川が、認知をしない代わりに纏まった金を渡した事。実の母親は麻井がまだ幼い頃に薬物に溺れ、それが原因で亡くなった事。そして家に残された幾らかの金の為に祖父母に引き取られ、その後どんな生活を送ったかを。
香澄は次に警察に保管されていた連続婦女暴行事件の資料を開く。数少ない情報に書かれているのは、被害者の多くが何かしらの薬物を服用させられ、意識がない状況で事に及ばれているという事。更に被害者の証言では目隠しなどされていて犯人に繋がる情報は無し。事件は特定の場所に集中しておらず、県下全域に及んでいる。香澄は右手で無精髭を摩りながら、既に何度も目を通しているそれらの資料を遠い目をしながら眺めた。
終礼のチャイムが鳴ると、ランドセルを背負った子ども達が、ズラズラと一斉に靴箱に押し寄せる。現代の自由度の高いカラフルなランドセルとは違い、男の子は黒、女の子は赤のランドセルを背負っている。中には青や緑なんて洒落た色の物を背負っている子供もいるが、ほんの一握りだけだ。そんな中を違う意味合いで一際注目を集める小柄な少年がいた。少年は伸びたシャツに汚れたズボン、ボロボロのランドセルを背負い一人で、これまた踵を踏み潰した上履きから汚れが酷い靴に履き替えていた。少年が靴に履き替えて歩くと靴底が外れているせいで歩く度にパカ……パカ……と間抜けな足音がする。その様子を近くで見ていた、少年よりも二回りほど大きな体をした四人組の子ども達が、少年を指差しながらコソコソ話をして近寄る。
「おいっ。噂のばい菌の王様、バイキングってお前だろ。親に捨てられたから、服はいつも同じの着て、風呂にも入らないって本当か?」
四人組の中でも一際ふくよかな身体をした男の子が、少年の前に飛び出して進路を塞いで話す。小柄な少年はどうにかその場を離れようと無言のまま、右往左往して通り抜けようとするが通れる隙間がない。
その様子を見ていた四人組の中で一番細身の男の子が、そっと小柄な少年の背後に近づくと、ランドセルを蹴りながら言う。
「何だよ、バイキングは口がないから喋ることも出来ないのか?さっさと答えろよ」
蹴られた勢いで倒れた男の子は、無表情のまますぐに立ち上がると、身体についた汚れを手で払う。そのやり取りを近くで見ていた女子のグループが、怒りながら四人組に向かって叫ぶ。
「あんた達、そんな事したらダメじゃない。先生に言うからね。しかもその子、私達より下の学年じゃない。弱い者イジメなんて最低ね」
矢継ぎ早に降り注ぐ罵詈雑言に、四人組はたじろぎその場を離れようとした。その去り際、細身の男の子が少年のそばを通り過ぎる時、周りから見えない様にポケットから給食の残り物の小袋に入ったケチャップを取り出した。そして小袋の口を開けて少年のランドセルの隙間に、ケチャップを流し込むとケタケタと笑いながら四人組はその場を離れた。
「大丈夫だった?」
女子のグループが心配そうに少年の元に駆け寄り声を掛けると、少年は小さく会釈をして走ってその場を離れた。
学校を離れて通学路を一人で歩く小柄な少年が、下を向いていた顔を上げた。周りには同じ学校の子ども達が、大小様々なグループを作り笑い話をしながら下校している。少年はまた顔を下に向けると、目の前に落ちている小石を靴の爪先で蹴った。少年はその小石を追いかけると、先程と同じ様にもう一度蹴った。そして少年は小石を追いかけると——。そんな風に何度も繰り返し小石を蹴っては無我夢中で追いかけ続けた。
それは歩く道が舗装された道路から、あちこちに雑草が茂る土の道に変わっても続いた。少年は顔を上げて辺りを確かめると、周りには誰一人居ない。少年は嬉々たした様子で足を目一杯振り上げると、力一杯小石を蹴飛ばす。小石は勢いよく地面を転がると、勢い余って道の傍にある溝へ飛び込んだ。少年はそれを見ると急いで溝に駆け寄り覗き込んだが、大量に流れる水のせいもあり小石の行方は分からなかった。少年はその場に座り込むと、空に浮かぶ大きな積乱雲に視線を向けた。
少年は西の山の上を浮かんでいた雲が、東の山へと姿を消すまで微動だにせず唯、空を見上げていた。
気がつけば太陽が西の空を沈みかけ、辺りを赤く染めていた。少年は体を重たそうにして立ち上がると、深いため息を吐いた後に歩き始めた。徐々に陽が落ちるが少年に焦る様子はない。そして陽が完全に姿を消した頃、ようやく少年は古びた平屋建ての一軒家に辿り着いた。少年は電気が灯っていない玄関の引き戸を静かに開けて中に入ると、物音を立てない様にそっと忍足で廊下を歩く。少年が自室の扉を開ける際、扉が引っかかりガタッと音がした。するとその直後、隣の居間から不機嫌そうに叫ぶ大声が家の中に響いた。
「帰ったなら挨拶ぐらいするもんじゃねぇのか」
少年はのっそりと身体を声の方に向けると、脚をガタガタと小刻みに振るわせながら居間に顔を出した。
「今、……帰りました」
居間にはテーブルを囲んだ老夫と老婆が座っており、所狭しと並べられた料理を酒の肴に酒盛りをしている。老夫はグラスに入った酒を一息に飲み干し、空になったグラスを少年の足元に投げつけると砕け散り、ガラスが床に散らばった。
「こんな時間まで何してやがったクソガキが」
「学校に残って、勉強をしてました」
老夫は立ち上がり少年の元に行くと、髪の毛を鷲掴みにしてグラスの破片が散らばる床に引きずり倒す。
「そんな事する暇があるなら、掃除の一つでもしやがれ。こんなに散らかってるだろうが」
倒された少年は咄嗟に腕で受け身をとった為、グラスの細かい破片が腕に刺さり少量の出血をしている。
「さっさとグラスを持って来て、掃除しろ」
倒れている少年の頭を力強く掌で叩くと老夫は元の場所に座った。老婆は少年に興味がないのか終始テレビ画面に見入っており、一度も少年の方に視線を向けなかった。少年は腕に付いた破片を払うと、キッチンに行き新しいグラスを手にして戻った。そして老夫の前にグラスを置くと、老夫はまた少年の頭を叩いた。
「遅いんだよ、お前は亀か。早く掃除しろ」
既に大量のアルコールを摂取しているであろう、老夫の吐息は酷く悪臭を放っており、近くに居る間少年は息を止めていた。そして老夫の言い付け通り、急ぎほうきと塵取りを用意すると早々に掃除を終わらせ自室へと戻った。
部屋の隅にタオルケットが一枚置かれており、それ以外は何もない。部屋の照明には電球は付けられておらず、カーテンの付いていない窓から入る月明かりだけが、部屋を照らしている。少年はその月明かりの元、ランドセルを開けて中から教科書を出すと、ケチャップが所々に付いていた。少年はランドセルのファスナーが付いたポケットを開き、ポケットティッシュを出すと丁寧にケチャップを拭い取った。
そして赤いシミが付いた算数の教科書とボロボロのノートを開いた。そして月明かりを頼りに少年の掌にギリギリ握れるぐらいの短い鉛筆を握りしめ、ノートに計算式を書き込むと次々にその問題を解いていく。
長時間に及び一心不乱に勉学に励む少年の耳に、隣の居間から大きなイビキ声が聞こえた。その次に自分の腹の虫が鳴いた音が少年の耳に届く。少年は腹を抱えると勉強道具を片付けてランドセルに戻した。その際に底の方からビニール袋に包まれたコッペパンを出して頬張った。
少年はコッペパンを半分程食べると、残りを袋に包み直してまたランドセルの奥底に入れた。そして部屋の隅に置かれたタオルケットの側に行くと、擦り切れが目立つ畳の上に横になりタオルケットに包まった。
窓の外を見つめる少年の悲しげな瞳には、月から発せられた淡い光が映っていた。
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