(4)

 香澄と酒井の乗る車が目的地に到着したのは、午後八時に迫った頃だった。メモに書かれた住所には、小ぢんまりとした一軒家が建てられている。玄関には明かりが灯されている事から、誰かしらが住んでいるのは外からも確認できる。

 車を路上に停めた二人は、入り口に向かうと備えられているインターホンのボタンを酒井が押した。

「はい。どちら様ですか」

 渋い声がインターホン越しに聞こえると、酒井は警察である事を素直に伝えた。すると玄関の鍵が開けれ、中から小柄な体型をした還暦付近の見た目の男性が出てきた。

「こんな時間に、しかも突然お伺いして申し訳ありません。お話をお聞きしたいのですが、お時間少々頂けないでしょうか」

 男は困惑した表情だったが、酒井が丁寧に捜査に協力して欲しい旨を頼むと、半信半疑ながらも二人を家の中に案内をした。

 二人が通された部屋はテーブルの周りに座布団が敷かれた和室で、何の変哲もないありふれたモノだ。男がお盆に乗せた飲み物を、座って待つ二人の前に出すと香澄は間髪入れずに口をつけた。

「いやー、美味しいです。喉が渇いていたのでありがたい。まず初めに、急にこんな薮遅くにお伺いして申し訳ありませんでした」

「それは構いませんが、……一体私にどういったご用が?」

「早速なんですが、以前あなたが働いていた雑誌記者時代のことで、少々お話をお聞きしたい件がありまして」

 男は訳がわからぬと言った表情で首を傾げる。

「貴方の住所は、以前お勤めされていた会社の田中さんという方にお聞きしたんです面識はお有りですか?」

「いや、記憶に無いですね。何せ随分前に辞めさせられた会社なので」

「そうですか、失礼しました。今回お聞きしたいのは、二十八年前に起きた事件に関わる記事についてなんですが。何か思い当たる事はありませんか?」

 男は一瞬目を見開いて反応を見せたが、すぐに表情を戻す。

「随分昔の事を調べしてるんですね。でも流石にそんな昔の記事について聞かれても、答えられるかどうか……」

「覚えている範囲でいいのでお願いします。二十八年前に起きた連続婦女暴行事件に関して、あなたが取材をされていたと聞きました。何か思い出しませんか」

「定かではないですが、確か県下全域に及んだ未解決事件。でしたかね」

 部屋の天井に視線を移して話す男。香澄は男から目を離さずに一同一挙を見逃さない為、瞬きもせずに目を凝らす。香澄の隣に座る酒井は、テーブルだけが置かれた殺風景な部屋の隅々に視線を送っている。そして唐突に立ち上がると、男にお手洗いを貸して欲しいと言って部屋を出た。

 部屋に残った香澄と男の間に妙な緊張が走る中、香澄が先に口を開く。

「やはり話す気にはなりませんか?」

「……その言い方をするってことは、誰が記事をもみ消したのか知っているんでしょ。あの記事がきっかけで私は職を追われた。おかげで家族の生活もめちゃくちゃになって、気がつけば俺は一人で余生を過ごしている。それを今更、話を聞かせろなんて都合が良すぎるだろ」

 男の口調は次第に強くなり、最後にはテーブルの上に乗せた手を、握りしめながら歯を食いしばった。

「お気の毒に。私も権力に振り回される機会が、一般の人に比べて少なくない身分なんでお気持ちは良くわかります。圧倒的な力に屈せざるおえない事も、ですが今ならあなたが調べた情報で、救われる人が居るかもしれない。もしそうであればあなたの人生の一部ではあるが、報われませんか」

 男は俯いて無言になる。そこにトイレから戻ってきた酒井が現れると、二人を一瞥して元の場所に座った。それと入れ替わるように男は立ち上がると、無言のまま部屋を出て行った。男を見送ると酒井が小声で話し始めた。

「トイレついでに少し家の中を見たんですが、どの部屋も荷物なのかゴミなのかわからないモノで溢れかえってましたよ。先日行った狭間の家はスッカスカだし、なんで歳を取った男の一人暮らしってのはこんなに両極端なんですかね」

「さぁな。だがあの男の場合は失ったモノを別のモノで埋めたかったのかもな」

 二人が話を続けていると、廊下を歩く足音が部屋に近づくのを察知した二人は揃って口を閉じる。するとそこに手に古びた段ボール箱を抱えた男が戻ってきた。そして段ボール箱をテーブルに置いて中を開けた。その次の瞬間、長い年月を経て蓄積されたであろう大量の埃が舞い上がり、全員の目鼻を刺激した。

「すまん。何せ二十数年仕舞い込んだままだったからな」

 手で埃を払いながら男は言うと、中に詰め込まれている書類をテーブルの上に出した。次々にテーブルに並べられた書類の変色具合が、それらが如何に長い時を過ごしたかを物語っている。そして箱の中身全てを出し終えると男は、ファイリングされたモノをひとつ手に取り懐かしそうにページを捲りゆっくりとした口調で話す。

「本当はこの資料も処分するつもりだったんだ。だが、どうにも悔しくて捨てることが出来なかった。俺の口から色々と話してやりたいのは山々だが、時間が経ち過ぎたせいで俺は自分の記憶に自信が持てない。……だからこの資料あんた達にやるよ」

 香澄は頭を深く下げて言う。

「ありがとうございます」

 その姿を酒井が見て後追いするように深く頭を下げた。男もまたそんな二人を見て同じように深く、長く頭を下げた。

 貰った書類を車に乗せた二人が男の家を出発したのは、時計が夜の十時を表示した頃だ。タバコを吸いながら香澄が窓を開けると、走行音に混じり虫の鳴き声が車内に届く。

「すっかり遅くなりましたね。腹も空きましたし何か食べて帰りますか?」

「そうだな」

 窓の外を見ながらそっけなく答える香澄。酒井は助手席に座る香澄を横目で見る。

「こんな時間だとファミレスか、牛丼ぐらいしか無いですけどどっちがいいですか?」

「どっちでも」

「なら早い安い美味いの牛丼で」

「あぁ」

 香澄の手に持つタバコの灰が今にも落ちそうになっている。しかし酒井はそのことを指摘する事なく前を向いたまま話す。

「灰。落ちますよ。……疲れてますか?」

 灰を落とさないようにタバコを灰皿に押し付けて火を消す香澄。

「いや、……いや。そうだな、少し疲れているのかもしれないな」

「香澄さんがそんな疲れるなんて珍しいですね」

「人を何だと思ってる。ロボットじゃないんだぞ、俺ももう五十過ぎなんだ疲れもするに決まってるだろ」

 酒井は横目で一度香澄に視線を向けたが、すぐにその視線を前方に戻した。そしてハンドルを握り直して力強く握り締めると、恐る恐る問いかける。

「明日、ですよね。ご家族の命日」

 香澄は酒井に視線を向けると頭を軽く叩く。

「何をビビりながら聞いてんだ。別に気になんてしねえよ。聞きたいなら普通に言えばいいだろうが」

「いや、すいません。なんか、詮索するのは如何なものかとも思ったので。……墓参りとか、行かなくていいんですか?」

 香澄は新しく出したタバコを加えて火をつける。

「定期的に墓参りはしてるよ。それにこんな仕事してるんだ。いつも命日にいける訳でもないだろ」

「そうですよね……——」

 口ごもる酒井を見て香澄はため息を吐く。

「何だよ。さっきから、まだ聞きたい事があるならさっさと言え」

「あの。殺人事件が原因で亡くなったと聞いたんですが……」

「何だそりゃ、どうせ噂で聞いたんだろ。警察官が噂話を間に受けるな、まったく。……交通事故だよ。それも被害者じゃなく加害者だ」

「えっ。……すいません。そうだったんですか」

 車内は沈黙に包まれる。

「馬鹿野郎、黙りこくるな。気まずくなるだろ。聞くならしっかり全部聞けってんだ」

「すいません。あの。どういった事故だったんですか?」

 香澄は頭を掻きむしると、座席を倒す。

「何てことはない。警察官をしていればさして珍しくもない事故だよ。あれはまだ俺が警察官になって数年で、交番勤務をしていた頃の話だ。その日俺は当直勤務に就いていた。まだ子供が産まれたばかりで家内のアイツを一人にするのが心配でな。アイツは大丈夫と言ったが、俺は用心の為と言い聞かせて二人を実家に帰らせたんだ。そして実家に向かう途中で事故は起きた」

 香澄はタバコを一服すると、話を続ける。

「事故が起きたのは見通しの良い山林沿いの直線道路、歩道はなく普段から滅多に歩行者が居なかった。ましてや二人が乗る車が通ったのは、陽が暮れてからだから尚のことだ。目撃者の証言によるとアイツが運転する車の前に、突然山林から現れた人が飛び出してきたそうだ。現場検証の結果、アイツは咄嗟にハンドルを切って避けようとした事がわかった。だが避けきれずに被害者を轢いた」

「加害者なら何でお二人はお亡くなりになったんですか」

「咄嗟にハンドルを切った先が対向車線を走るトラックに向いていたんだ。トラックドライバーはセンターラインをはみ出して向かって来た車に気づいて、目一杯ブレーキを踏んだ。それはタイヤ痕からも明らかだった。だが、見通しの良い道では誰もがスピードを出して走るからな。お互いに停まれずに正面衝突だ。トラックドライバーは軽傷で済んだが、アイツと子供は即死だったそうだ。轢いてしまった被害者は辛うじて息があったそうだが、搬送された病院でまもなく亡くなった」

 二人が乗る車が信号で停車すると、車内は信号から放たれた赤色で染まる。

「こんな言い方が正しいのかは分かりませんが、避けられない事故もこの世界にはあります。別に香澄さんや、奥さんが悪い訳じゃないですよ」

「……飛び出してきたのは地元に住む主婦だった。何故そんな場所にいて、急に飛び出してきたのかは結局分からず仕舞いだった。そして彼女にはお子さんが二人居た。子供から母親を、旦那さんから奥さんを奪ったんだ。何度か直接謝罪したいと伝えたんだが、結局最後まで旦那さんに拒まれて一度も会うことが出来なかった。まぁ、失ったモノを考えたら当然だがな」

「大切な人を失ったのは……香澄さんもでしょ」

 香澄は座席を戻すとタバコを灰皿に捨てると、腕を頭上に上げて背筋を伸ばす。

「あーぁ。お前が辛気臭い話をするから腹が減ったな。今日はもう仕事は終わりだ。知り合いの店なら朝まで開いてるから、飲みに行くぞ」

「はい。……香澄さん」

 信号が変わり車内を緑の光が照らす。酒井はアクセルを優しく踏むと、車をゆっくりと発進させた。


 仕事を終えた勇雄は車に乗り込むと車内の時計を確認する。表示が午後八時半であることを確かめると、エンジンを掛けて車を動かした。車内のラジオからは今若者の間で流行っているガールズグループの音楽が流れている。勇雄は歌を口ずさみながら水筒に残っているコーヒーを口にした。

 少し車を走らせると勇雄の乗る車は、自宅ではなく二十四時間営業のスーパーの駐車場に入った。車を停めた勇雄は店内に入ると、迷うことなくアルコール飲料コーナーに足を運んだ。そしてアルコール度数の高い酒の小瓶を手に取りレジで会計を済ませ足早に車へ戻った。

 車に乗ると勇雄は再度車を走らせ自宅近くのコンビニの駐車場に車を停めた。着いて早々シートベルトを外した勇雄は、先程買ったばかりの酒を開けて一口飲むと、助手席のダッシュボードの奥の奥から古びた一枚の写真を出す。勇雄は街灯の明かりを頼りに写真を眺めると、また一口酒を飲んだ。

 写真には一度クシャクシャにしたであろう痕跡が見られ、さらに所々が色褪せている。だが幸いな事に被写体部分は問題なく見ることが出来る。勇雄は酒を飲んでは何をするでもなく、唯々写真を眺め続けた。

 ようやく写真を元の場所に戻した時には、買ったばかりの酒の小瓶を飲み干していた。勇雄は車から降りると酒で熱った身体を冷ます為に、車体を背もたれに夜風に当たる。雲一つ無い空には満天の星空が広がっているが、街灯の下に立つ勇雄の瞳にその景色が映ることは無い。

 勇雄はマスクをしてコンビニに入ると、店内に備えられているゴミ箱に酒の小瓶を捨てた。そしてペットボトルの水を一本持ってレジに向かうと、顔を背けて会計を済ませ再び車に戻り乗り込んだ。そして買ったばかりの水の蓋を上げて一息で飲み干した。

 ペットボトルから口を離すと思い出した様に慌てて息をした勇雄は、ルームミラーを覗き込み自分の顔を見つめた。鏡に映る勇雄の顔には疲れの色が見えており、目は少し充血している。勇雄は瞳を閉じると深呼吸を数度繰り返す。そして目を開けると自宅に向かい車を走らせた。

 数分車を走らせて自宅の駐車場に車を停めた勇雄は、顔の前にかざした掌に何度も息を吐きかけては鼻で息を吸うを繰り返す。それを終えると自宅に入り、いつも通りリビングに顔を見せずに浴室へ直行した。そして手早く身体を洗い終えると浴槽に浸かって天井を見上げる。浴室の天井には立ち昇る湯気が作りだした無数の水滴がぶら下がっており、自重に耐えきれなくなったモノから順に重力に従い滴り落ちる。その内の一粒が天井を見上げる勇雄の額に落ちた。

 勇雄は顔を水面に向けて目を閉じると、湯船から掬い上げたお湯を自分の顔に浴びせた。すると瞳を閉じたままの勇雄の目尻から溢れた水滴が水面にポツリと一粒落ちると、波紋が浴槽全体へと広がった。

風呂から出た勇雄がリビングに入ると、いつも通りテーブルの上には夕食が用意されていた。しかし早江はテレビの前に置かれたソファーから「おかえりなさい」と言うだけで、テーブルに着こうとはしない。

勇雄は席に着くと、一人静かに用意された夕食を食した。

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