(3)
捜査本部に向かう一台の車の中。運転席でハンドルを握っている酒井が大きな欠伸をして溢れ出た涙を手で拭う。それを助手席に座り背もたれを倒して横になっている香澄が、横目で見ると座席を起こして元の位置に戻した。
「珍しく欠伸なんてして、ちゃんと寝てないのか」
ぶっきらぼうに言う香澄に、酒井は苦笑いしながら答える。
「いやー、すいません。最近どうも寝つきが悪いせいか、なかなか眠気が取れないんです。本当、何処でもすぐに寝れる香澄さんが、羨ましい限りですよまったく」
「お前のその一言多い癖、早く治さないと出世に響くぞ」
「気をつけます。それよりも聞きましたか?この間会いに行った狭間の話」
車を走らせながら問いかける酒井。
「楢山さんに聞いたよ。飛び降り自殺したんだってな」
「俺たちの……せいですよね」
言葉を詰まらせながら話す酒井。
「自分がした事を突きつけられて、耐えられなくなっただけだろ。それに対していちいち責任なんて感じるな。そんなんじゃこの先やっていけないぞ」
淡々とした口調で話す香澄に、酒井はそれ以上何も言わない。
それ以降車内には沈黙が続いた。そして長い沈黙の果てに、二人が乗る車はようやく捜査本部を設置する署に着いた。酒井はいつもの様に決まった駐車スペースに車を走らせると停車させた。
香澄はシートベルトを外して車外に出ると、身体をほぐして腰を伸ばす。最後に首をぐるりと回すと、何やら帽子を深く被って、マスクをした大柄な不審者が署の敷地の入り口付近をウロウロとしているのが目に入った。香澄は気づかれない様に、視線を不審者に向けずに様子を探る。そこに車から降りて来た酒井が現れると、考えなしに大きな声で香澄に話しかける。
「何ですか、あの見るからに怪しい不審者は。ちょっと職質かけて来ます」
そう言うと酒井は香澄の静止の手を振り切って、不審者目掛けて猛スピードで走って行った。香澄はやれやれといった様子で、酒井の後を歩いて追いかける。
署の前の通りには酒井と不審者、両方の姿がない。それを確かめた香澄はポケットから出したタバコを一本口に咥えると、火をつけて携帯灰皿を手に持った。肺いっぱいに吸い込んだ煙を吐き出すと、タバコの煙は風に流されて空へと消え去る。その景色を遠い目で香澄が眺めていると、息を切らせた酒井が小走りしながら脇腹を押さえて戻ってきた。
「それで。さっきの不審者は何処に行ったんだ?」
香澄の問いかけに息を切らした酒井は、手を横に何度も振って答える。
「バカみたいに真っ正面から追いかけて、不審者に気づかれて、逃げられた。ってことで間違いないのか」
「いや。まぁ、はい。……すいません」
香澄は吸い殻を携帯灰皿に捨てて、頭を掻きむしった。そして呼吸を整える酒井の頭を軽く叩くと、署に向かって歩いた。酒井もまた、少し距離を取った後ろから香澄の後を追う。
二人が捜査本部に戻ると、部屋には数人の捜査官が待機している。だが誰もが有力な情報を集められておらず、事件は暗礁に乗り上げていた。そのせいで否が応でも捜査本部は元より署全体の空気がピリついていた。何せ捜査に要する時間が増加すればする程、それに比例する様に事件を解決できる確率が下がる事を誰もが知っているからだ。
更に今回は過去の未解決事件と関連があり、一度は取り逃した犯人を捕まえる絶好の機会は事もあり、組織全体が躍起になっている。しかし、昨今問題になっている数多くの不祥事のせいで、国民の警察に対する不信感は大きい。その為、取締りに対する市民の監視の目。俗に言う透明性という名の縛りが著しく、捜査効率を下げていた。取調室には監視カメラが付けられ、取調べを行う警察官を監視している。重要な情報を握っている昔ながらのグレーな情報屋に接触して、もしも表に晒されれば懲戒免職すらありえる。
複雑化し続ける現代犯罪に立ち向かう正義の者として、民衆が求めるのは一点の曇りも無い清廉潔白な純白の鎧を着た騎士だ。そして万が一にも敵を討ち漏らそうものなら、騎士の血が流れるまで許さず。また、一騎当千の騎士であろうとも一点でも曇りがあれば、騎士で在る事を許さない。敵を斬れば時には相手の思わぬ返り血で、純白の鎧に汚れが付くこともあるだろう。だが現代の騎士達は、戦いながら自らの鎧を過剰に気にしなくてはいけない。騎士達はこうして疲弊しながら日々戦っている。そしてその行き着く果ては容易に想像が及ぶ。
守る為に戦い続けた騎士はいつか朽ち果てるか、疲れ果て戦いから身を引く。そして騎士団に最後に残るのは、生活の為の日銭を稼ぐために働く、志を持たない機械的な騎士。そしてそれを見た時の民衆の叫びも容易に想像ができる。自分達にとつて都合のいい「志を持て」だ。
香澄と酒井が捜査本部を歩いていると、スーツ姿のままで床にブルーシートを敷いて横になっている者や、デスクに突っ伏して寝ている者。家族に今日も帰れないと電話で伝える者がいた。それらの側を通って自分達のデスクに進み、ため息混じりに息を吐き席に着いた。
香澄のデスクの上には過去の捜査資料が山の様に積まれていて突っ伏す場所すら無い。対照的に酒井のデスクの上には、ノートパソコンが一台と数冊のフォルダーが置かれているだけで、整理されている。酒井は冷めた目で香澄のデスクの上を見て口を開く。
「わざわざ大量の資料を漁らなくても、クリック一つで簡単に情報見られるんですから、パソコンで調べればいいじゃないですか」
「馬鹿野郎。俺は情報だけを見てるんじゃないんだよ。報告書を書いてる捜査官の心情やその他も同時に、文字から読み取ってんだ。例えばこれ、死んだ狭間が書いた事件の資料見てみろ」
香澄は資料の山からファイルを一つ手に取り酒井に渡すと、酒井はファイルの中にまとめられている資料に目を通す。
「パソコンのデータベースに載っていた情報と、ほとんど変わりないですけど」
「字を見るんだよ、字を。被害者について書かれた文章があるだろ」
香澄に言われた箇所を注視する酒井。
「合ってるかはわかりませんが、心持ち筆圧が他の箇所に比べて強い気がします」
「何で強いと思う?」
「……連続婦女暴行事件の犯人と知っていたからですかね」
香澄は酒井からファイルを取り上げて、資料を確認すると別のページを開いたファイルをデスクの上に置いた。
「次はこのページ。被害者周辺についての情報がまとめられてるのを見てどう思う?」
「一部消された痕跡が見られますね。でも単に書き間違えただけかもしれないじゃないですか」
香澄は首を傾げて酒井が指摘した点とは違う箇所を指差す。
「しっかり見ろ、見落としてるぞ。ここの部分が他とは明らかに筆跡が変わってるんだよ。関係なさそうな箇所だと思って、真剣に目を通さなかっただろ。ちゃんと隅々まで目を皿にして目を通せ」
香澄に指摘された酒井は、指摘箇所を他の部分と何度も見比べる。
「……言われてみれば確かに。この様子だと何度も修正しながら出したみたいですね」
「要するに筋書き通りに描かれた資料だ。こんなものに意味なんてないんだよ。やはり麻井眞一を実際に知る人物に話を聞きたいところだな」
「そうは言っても隠居したとは言え、元警察庁長官を尋問なんて出来ないですし。母親は麻井が幼い頃に既に他界。加えて育ての親である母方の祖父母も高齢の為、亡くなっていてもう話を聞ける人なんていないですよ」
「麻井の交友関係はどうだったんだ?そういった資料は一向に見つからないが、まさか常に一人で過ごしていた。なんて事は無いだろ」
事件資料に目を通しながら香澄が話す。酒井は自分のデスクからノートパソコンを持って来て、立ったまま操作する。
「どうですかね。データベースに残っている資料にもそれらしい情報はないですね。でも麻井眞一はこの事件では被害者な訳なんですし、仕方ないと言えば仕方ないでしょ」
「連続婦女暴行事件の資料にも一通り目を通したが、麻井の麻の字すら書かれちゃいなかった。まったくもって権力ってやつは厄介極まりないな」
それを聞いた酒井が慌てて周囲を見回すと、香澄に小声で注意する。
「まずいですよ。あんまり大声でそんなこと言うのは、下手したら二人揃って依願退職なんて事もあり得るんですから。もう少し慎重にお願いします」
「へいへい。そんな一蓮托生な相棒くんに頼みだ。頭を冴えさせる為に、濃いコーヒーを一杯お願いするよ」
酒井は無言のまま話を聞き終わると、パソコンを自分のデスクに戻した。そして肩を落としながら、入り口に用意されている飲み物を取りに向かった。
すると酒井が離れてすぐに、香澄のスマートフォンに着信が入った。
『以前お電話いただいた株式会社〇〇編集部の田中です。お話していた記事の件でお電話したんですが』
『カスガです。わざわざお電話ありがとうございます。それで、何かわかりましたか?』
『ええ、それがちょっと妙なんですけど、カスガさんがお探しの記事が載っている本が保管室から紛失していまして。なので当時編集に関わっていた者に話を聞いたんですが……』
『ですが。何です?』
香澄は顔を曇らせて話の続きを聞く。
『どうも当時、我が社の社長をしていた者が記事にストップをかけたそうで、その時に本も処分されたそうなんです』
『そう、ですか。……お手数おかけしました』
諦めて通話を切ろうとした香澄を電話相手が止める。
『待ってください。実は、……話には続きがありまして。記事の内容はわからないんですが、それを書いた記者の住所がわかったのでお教えしようと思い電話にしたんです』
『こちらが言うのもおかしな話ですが。何故よく知りもしない相手に、そこまでの事をして頂けるんですか?』
『記者の感ってやつですかね。この業界に長く居ると結構見聞きするんですよ、この記事みたいに封殺された情報を。本来そういったものこそ人に伝えないといけない仕事なのに、いつの間にか忖度が身体に染み付いてしまいました。……失礼。貴方にこんな事を言っても困りますね』
『いえ。よくわかります。……——わかりました。——ありがとうございます。では失礼します』
手近にあったメモに伝えられた住所を書いた香澄。電話を切るとすぐにメモを手にして立ち上がった。ちょうどそこにコーヒーを手に持った酒井が戻ってきた。
「行くぞ。車の鍵持ってさっさと付いて来い」
香澄は酒井の手からカップを取って一口飲むと、残りをデスクの側に置かれたゴミ箱に捨てて外に向かう。
小走りした二人が車に乗り込むと、不満そうに酒井が言う。
「たった今帰ってきたばかりなのに、次は何処に行くんですか」
「例の会社から連絡があって記事を書いた記者の住所を、教えてもらったから今から行くんだよ」
香澄はそう言って住所を書いたメモを酒井に渡す。
「ちょっと、これ隣の県じゃないですか。今から行ったら着く頃には日が暮れてますよ」
「ろくな情報がないんだから行くしかないだろ。文句言わずにさっさと車を走らせろ」
酒井は呆れ顔でエンジンをつけると、言われた通り車を発進させた。香澄はポケットを探りタバコを取り出すが、中身は空だった。
「おい、どの店でもいいから一番近くのコンビニに寄ってくれ。タバコが切れた」
酒井は応答しなかったが、言われた通りのすぐ近くのコンビニに入って車を停めた。香澄は店内に向かうと数分で車に戻り、手に持っていたドリンク剤を無言のまま、運転席に座る酒井の太ももの上に軽く投げ渡す。
「……ありがとうございます」
酒井は礼を言うと、冷えたドリンク剤のキャップを開けて一息で飲み干した。香澄はその様子を見終わると、買ったばかりのタバコを開けて早速一本吸い始めた。
酒井は香澄がシートベルトを締めたのを確かめると、再び車を道路に戻して走らせた。
時刻は夕方の五時を回った頃、道路には帰路に着く車が増え始めている。酒井は手慣れた様に路地などを通って渋滞する道路を避けて運転した。二人が行動を共にし始めた当初、運転を担当していた酒井はよく渋滞に捕まっていたので香澄は厳しく指導した。その成果もあり、県下であれば何も言わずとも酒井は渋滞を避けて運転ができる様になっていた。カーナビを使えばもっと簡単に出来ると思われがちだが、犯人追跡などの緊急走行時には、こうしたアナログな能力の方が最先端機器よりも有用な場合が往々にしてある。
しかし、アナログな時代を生きた香澄世代の人間がそれを謳うと、拒絶反応を起こした人達に否定される。香澄自身もその事をよく理解していたので、これまで厳しく人を指導する事もなかった。だが酒井に出会い愚直に正義を目指す姿勢に感化され、いつしか自分の持つ技術を伝える様になっていた。
さらに酒井は元々優れた運転技術を擁しており、運転技能競技会においても優秀な成績を収めていた。それもあり今では運転に関して、香澄から指導を受ける事も殆どなくなっていた。
二人が乗る車は目的地がある隣接の県に繋がる高速道路に乗ると、香澄はいつもの如く座席を倒して目を瞑った。酒井もまたいつも通り、それを咎めもせず不満も漏らさない。
多くの車が二人の乗る車の周りを走っている。目的地に荷物を運ぶ大型トラック、観光目的の大型バス、出先へ向かう又は会社に帰る社用車、旅行に向かう一般車。それらに混じって二人が乗る車は目的地を目指して直走る。
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