(2)
カフェを出て歩くこと三十分。先を歩く巳姫の数十メートル後方を身を隠しながら歩く珠紀。繁華街から逸れて入り組んだ住宅地に入り込むと、突如目の前に神社が現れた。境内には立派な御神木が立ち誇り、誰の目にも一目でその歴史を伝えるだろう。神社の周りには隣接した民家が多数あり、誰かが悲鳴でもあげようものなら即座に住民たちが顔を覗かせるだろう。
巳姫が境内に入るのを確かめた珠紀は、スマートフォンを手に持ち様子を伺う。すると境内に備えられたベンチに座る一人の男が珠紀の目に入った。その男は珠紀の記憶の中に残っている以前、登校時に電車内で巳姫に痴漢を働いていた男の姿に違いなかった。しかし、以前見た電車での自信に溢れた様子とは異なり、男の顔には悲壮感が漂っている。それとは正反対に、痴漢男の元に歩みを進める巳姫の姿からは高揚感さえ漂っている。
男は巳姫の姿見ると即座に立ち上がり、カバンから取り出した厚みのある封筒を押し付ける様に巳姫に渡してその場から離れようと足早に移動した。巳姫は大声でそれを呼び止めると、封筒から取り出した札束を丁寧に数えた。男は見るからに不機嫌にその様子を眺めている。ようやく札束を数え終わった巳姫が男に何やら口走ると、男は顔を紅潮させて巳姫を鬼の形相で睨みつけた。それに対して満面の笑みを巳紀が返すと、男は苦虫を噛み潰した顔に変わり走って境内を出た。
「あのガキ、あのガキ。いつか絶対に——」
ブツブツと呟きながら走る男が、物陰に隠れる珠紀の側を通ったが、男の視線がそちらに向くことは無かった。
男が去って程なくすると上機嫌な巳姫が、境内からスキップを踏んで出てくると珠紀の元へと戻ってきた。
「お疲れー。はい、これ今回のお礼ね」
何事もなかったかのように、あっけらかんとした様子で今受け取った封筒から、一万円札を数枚取り出して珠紀に差し出す巳姫。
「何回も言ってるけど、そんな汚いお金いらない。もう用は済んだでしょ、私は帰るから」
巳姫に背を向けると珠紀は、駅の方へと歩き始めた。それを巳姫は呆れ顔を浮かべながら眺めて言う。
「お金に綺麗も汚いも無いのに、本当に頑固なんだから。まぁ、私は儲かるからいいんだけど。それじゃあ、またよろしくね。タマちゃん」
背後からかけられた言葉が珠紀の耳に届くと、それまで開いていた掌が力一杯握り締められた。そして珠紀は走ってその場を離れた。
行きには三十分掛かった道のりが、帰りは十分程で駅に着いた。駅前で息を切らせて呼吸を整える珠紀の目に、先程の痴漢男の姿が飛び込んできた。
痴漢男は神社に居た時とは打って変わり、背中を丸めて力なく俯いて歩いている。そっと気づかれない様に隠れながら珠紀が後をつけると、痴漢男は駅の側に建つ新築マンションに入る。珠紀はすぐにエントランスを確認すると、オートロックの扉を抜けてエレベーター前で待つ痴漢男の姿がガラス越しに見える。エレベーターの呼び出しボタンを、何度も繰り返し押しており、目に見えて苛立ちをぶつけている。痴漢男はエレベーターホールを見回すと端に置かれた観葉植物の葉が、地面に一枚落ちているのを見つけた。それを手に取った痴漢男は鬼の形相で何処かに電話をかけた。
エレベーターの扉が開いてもまだ通話は終わっていない。痴漢男は電話口に怒声で話したままエレベーター乗り扉を閉めた。
珠紀はその場で留まり、痴漢男が乗ったエレベーターが止まった階を確認してからオートロックの扉の近くに移動した。少しすると、エレベーターが降りて来た。到着したエレベーターから現れたのは宅配業者だった。珠紀はタイミングを合わせて扉の前に向かうと、宅配業者と入れ替わる様にオートロックの扉を抜けた。
珠紀はその足で扉が閉まりかけたエレベーターにどうにか乗り込むと、痴漢男が降りたと思われる三階に向かった。エレベーターが到着して扉が開くと、珠紀は恐る恐る顔を覗かせて周囲を見回す。
エレベーターホールに人の気配は無く、珠紀は警戒しながらエレベーターを降りた。通路を歩くと防音設備がしっかりしている為か、どの部屋からもこれと言った生活音一つ珠紀の耳には届かない。
新築な事もあり、汚れがない綺麗な壁や床に珠紀の視線は向けられた。どの部屋の入口にも表札が掲げられており、マンションの人気具合がよくわかる。長い通路を進んで角を曲がろうとした所、その先の部屋の一室から中年男性が頭を下げながら出てきた所に珠紀は出くわした。
「——明日までにあの邪魔な植物どうにかしろよ」
珠紀は声色から追いかけていた痴漢男だと気づくと、耳を澄ませて話を盗み聞きする。
「はい、わかりました。この度はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。それではこれで失礼させて頂きます」
恐らくは部屋の住人が閉めたのだろう、勢いよくドアが閉められたせいで激しい音が通路に響く。疲弊した様子の中年男性は珠紀に気がつくとすれ違い際に頭を下げた。
「お騒がせして、申し訳ありませんでした」
そう言うと中年男性はトボトボと角を曲がって行った。珠紀は角の先を覗いて、中年男性の姿が見えなくなるのを待つ。
ようやく見えなくなると、先程騒がしかった部屋の前をゆっくりと通る。そして通り際に横目で【前木】と書かれた表札を確かめると、名前と部屋番号をスマートフォンのメモ機能に入力して保存した。そしてきびつを返すと真っ直ぐエレベーターホールに向かうと、急いだ様子でマンションを出た。
珠紀が再度駅へと向かうと、駅には仕事を終えて帰路に着く人でごった返していた。人混みの中には部活を終えた珠紀と同じ学校の生徒の姿もチラホラと見られる。珠紀はそれらの人から隠れる様に身を潜めながら自宅方向の電車に乗ると、車内でも絶えず辺りに注意を払いながら息を潜めている。
自宅の最寄り駅に着く頃には、珠紀に疲労の色が出ていた。その証拠にホームに降り立った珠紀は力無く近くのベンチに腰を下ろすと、ホームの天井を見上げた顔を手で覆って深呼吸を繰り返す。
ホームには珠紀と同じ電車で降りた多くの大人達が居たが、顔が隠れた珠紀を気にかける人は誰一人として居ない。
幾許かの時間が疲労を和らげると、珠紀は膝に手をついてゆっくりと立ち上がり、重い足取りで改札を抜けた。改札の先には数人が座れる程度の小さい待合場所が設けられていて、仕事終わりのサラリーマンのグループがその椅子を占拠している。
待合場所の隅には腰の曲がった老婆が杖を突いて立っている。サラリーマン達はその老婆に気づいて尚、これから行う宴会場所を決める為の話し合いを、椅子にふんずり返りながら駅構内に響き渡るぐらい大きな声でしていた。珠紀はそのサラリーマン達のすぐ横を通る。すると通り際、少なくとも全員が四十は過ぎているであろう、そのサラリーマン達の視線が珠紀の全身。頭のテッペンから爪の先まで、満遍なく降り注がれた。
「おばあちゃん、今から電車に乗るの?」
珠紀はサラリーマン達の視線を意に介さず一目散に、隅で立っていた老婆の元に行くと話し掛けた。
「乗らない乗らない。人を待ってるだけよ」
それを聞いた珠紀はサラリーマン達の方に振り返る。
「ねえっ。おじさん達、おばあちゃんが立ってるの見えてるよね。いい年した大人なのに、何をどうすべきかわからないの?」
自分の年の半分にも満たない女子高生の急な問いかけに、サラリーマン達は一瞬固まった。そしてその内の一人が、ふてぶてしい笑みを浮かべて話す。
「はいはい。子供が大人に生意気言ってんじゃないよ。あのね、世の中ってのは俺たち大人が一生懸命働いて回してやってるの。だから感謝して、もう少し敬意を持った話し方した方しなさい」
「何言ってんのおっさん。別にあんた一人が居なくたって、世界は何の問題も無く回るっつーの。それに今はそんな話してないから。分からないなら教えてあげるけど、座れなくて困ってる人が居たら、譲っても困らない人が席を譲るのよ」
男はアワアワと口をぱくつかせ、大きく目を見開くと爆発した様に怒号を上げる。
「何だとクソガキが。見た目がいいからって調子に乗りやがって、何言っても許されると思うな。目上の人に対する礼儀を教えてやるから、こっちに来やがれ」
興奮した男は珠紀のカバンを掴むと、乱暴に自分の方へと引っ張った。男の仲間は地蔵の様に固まったままその様子を傍観している。その他の周りを行き交う多くの通行人も視線こそ向けるが、行動を起こす者はいない。
全員が固唾を飲んだ次の瞬間、男の頬を力一杯叩いた珠紀の平手打ちの渇いた音が響く。
「あんた達の襟元に付いているそのバッチって、市役所の近くの不動産会社のマークだよね」
冷めた表情で言い放つ珠紀のこの一言で、その場の状況は一変した。掴み掛かった男は即座に手を離し、見る見るうちに青ざめる。仲間の男達はそれまで置物だったのが嘘のように、機敏な動きで掴み掛かってきた同僚の男を抱え込んだ。そして珠紀に向かって低姿勢で謝罪をすると逃げる様に姿を消した。
それまで傍観していた通行人の一部から、拍手が送られたが珠紀はそれに対して舌打ちで答えた。そして心配そうに見ていた老婆の元に戻り声を掛ける。
「おばあちゃん、うるさくしてごめんね。もう大丈夫だから座って待っててね」
「お嬢さん。こんなババの為に、ありがとうね」
珠紀は申し訳なさそうに謝る老婆を、椅子に誘導して座らせた。そして老婆に笑顔で別れを告げると出口に向かう。颯爽と歩く珠紀の背中に老婆は深々と頭を下げる。その他の騒動を見ていた通行人の多くも視線を送るが珠紀はそれらに視線に関心を示さなかった。
屋外に出ると夕陽がこれまで珠紀が見たことも無い程に、街を朱に染め上げている。あまりの異様な朱色に、駅へ向かっている通行人が、何人も足を止めて夕陽の写真を撮るぐらいに。
珠紀は空を眺める人たちを、軽蔑する様な眼差しで見渡す。
「もっと見るべきモノがあるでしょ……」
顔をしかめながら小声で呟いた珠紀の声は、誰の耳にも届かない。
珠紀は俯いて表情を戻すと鼻で笑った。そして顔を上げるといつも様に、脇目も振らずに家に帰った。
珠紀が家に着く頃にはすっかり陽も落ちていた。玄関に入った珠紀はリビングの早江に帰宅を伝えると、早々に自室に戻り着替えを済ませた。そして再度リビングに向かうと、テーブルにはいつも通り早江の手料理が並べられていた。
「おかえり。ちょうど今準備終わったから、食べよっか」
キッチンの方から早江が声をかけると、珠紀は夕食が用意された食卓に着く。早江はご飯をよそった茶碗を二つ手に持って来ると、テーブルに置いて席に座る。二人は姿勢を正して手を合わせると夕食を始めた。
「それで。今日はどんな一日だった?」
夕食を頬張りながら話しかけた早江。
「どんなって。普段と変わらない、いつも通りの一日だったよ。お母さんこそ、なんだが少し元気になってるけど今日は何かいい事でもあったの?」
少し疲労感が和らいで見える早江は、微笑んで答える。
「何よそれ、いい事なんて何も無いわよ。それより、お母さんそんなに元気なかったかしら」
「何だか最近、上の空が多かったじゃない。まぁ、気のせいならいいんだけど」
勇雄が居ない食卓では会話が弾む珠紀。二人の会話は途切れる事なく、その後も他愛のない会話が続けられた。
食事を終えた二人は食後のお茶を用意して、会話の場所をテレビの前に置かれたソファに移す。急に思い出した様に早江が立ち上がり冷蔵庫に向かうと、プリンを二つ持って戻り、一つ珠紀に手渡した。
「珍しいね、お母さんあんまりプリン好きじゃないのに。しかもこれ、隣街の有名店のヤツじゃない」
「ごめん、忘れてたんだけど。このプリンこの間、家の近くで巳姫ちゃんに会った時に貰ったヤツなのよ。お母さんすっかり忘れちゃってて。学校で巳姫ちゃんに会ったら、ちゃんとお礼言っといて」
それを聞いた瞬間、珠紀は険しい顔をしてプリンを目の前のテーブルに置く。
「へー、そうなんだ。でもお母さん、なんかこのプリン変な匂いするかも。もしかしたら傷んじゃったかもしれないし、食べない方がいいよ。これ」
「えー、本当?勿体ない事しちゃったな。ちょっとぐらい傷んでても案外いけないかな」
手に持ったプリンを鼻に近づけて匂いを嗅ぐ早江。
「子供じゃないんだから。お腹でも壊したらそれこそ大変だよ。残念だけど食べちゃダメだからね。もし食べたいなら今度、私が新しいの買ってくるから」
珠紀は立ち上がると早江が持つプリンを取り上げて、キッチンに在る生ゴミ用のゴミ箱にプリンを捨てる。更に冷蔵庫を開けて残りのプリンを取り出すと、同じ様にゴミ箱に捨てた。
珠紀が元の場所に戻ると、見るからに元気を無くした早江がソファで横になって顔をクッションに埋めている。珠紀はため息を吐きながらさえの隣に腰を下ろす。
「たかがプリンじゃない。何もそこまで落ち込まなくてもいいでしょ」
「そうじゃないわよ。せっかく巳姫ちゃんがくれたのに、申し訳がなくて。しかもわざわざ隣街まで買いに行ってくれたのに」
「……ところで、巳姫は何でプリンなんてくれたの?」
早江は不思議そうに珠紀を見て言う。
「お世話になってるお礼って言ってたけど……」
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