逢着

(1)

「——このようにして、この戦争は終結に至りました。ここまでで何か質問がある方はいますか?」

 世界史を担当する中年男性教員が教壇に立ち生徒に向けて言うと、黒板の真ん前に座る如何にも秀才な風貌漂う男子生徒が手を挙げる。

 それを見た窓際の、一番後ろの席を陣取るグループの一人が小声で男子生徒を馬鹿にする。世奈を含む数人はお世辞笑いをしたが、そのグループの一員であるはずの珠紀は、笑みを浮かべる事さえしなかった。

 男子生徒の耳には馬鹿にされた話し声と笑い声の両方が届いていたが、意に介さず座ったままで話し始めた。

「何故、そんな一方的な戦争を世界が許したんですか?普通に考えればそんな侵略戦争許されるはずが無いのに」

「なるほど。確かに一理ありますね。では一つお聞きしますが、普通とはどういったことを指した言葉なんですか?」

 思いがけない質問だったのだろう。男子生徒は目を泳がせながら言葉を出せずに居る。それを見かねた教師は返答を待たずに話を進めた。

「当たり前に思っている事を説明するのはとても難しいですよね。何故なら多くの人がそれを基準に生きているから、それについて何も考えないんです。でもその普通の基準を作ったのもまた同じ人なんですよ」

 教室の後ろに陣取るグループは教師の話を聞いて小馬鹿にする様に笑ったが、教師は一瞥すらせずに話を続ける。

「私が昔、恩師に聞いた何気ない話をしたいと思います。まず最初に皆さんは真球と言うものを知っていますか?」

 生徒たちは互いに顔を見合わせるだけで、答える者は一人もいない。

「真球とは、完全なる球体を意味する言葉だそうです。そして完全なる真球を作る事は、不可能とされています。これほど進歩した現代技術を持ってして、何故作る事が出来ないと思いますか?」

「完全を……観測できないから、ですかね」

 先程質問をした男子生徒が、自信なさげに口を開いて答える。

「とても良い答えです。そうですね、完全を観測するには完全な測量機が必要になります。そしてその測量機が完全なモノであると証明するには、また別の完全な何かが必要に。こう言った様に、堂々巡りが始まります。ですが、ある意味でなら完全なる球体。真球を作る事は可能とも言えるかもしれません。ではどうすればいいと思いますか?」

 黙り込む生徒達。そして教師の話に飽き始めた後方のグループが授業に関係のない話を始めると、教壇に立つ教師はそのグループを指差して言う。

「答えは今、うしろで話をしている貴方達にも通じますよ」

 それを聞いた生徒達は、一斉に後ろを振り返り教師が指差す方。珠紀や世奈が居るグループを注視した。ばつが悪くなった彼女達が話を辞めたせいで、教室は静まり返った。そして指を向けたまま教師は話を続ける。

「人はそれぞれ、自分だけのものさしを持っています。例えば彼女達の様に自分に関係が無ければ、他の人が迷惑を受けても構わない。そんな考えを持った人も居れば、私の前に座る彼の様に何事も吸収しようと、積極的に授業を受ける人も居ます。ではどちらが正しいのかを考えてください」

 不思議そうに教師を見つめる生徒達。だが全員が声を出せずにただ沈黙を続ける。

「答えは簡単。答えは無い、です。何故なら私が持つものさしと、他人が持つものさしは違う。それならそれぞれが思う正しさや答えは違って当然でしょう。それを踏まえて真球の話に戻すと、それが真球だと信じ込めばいいんです。人にそう思わせたいならそう洗脳すればいい。否定する者が居なければ、それは完全なる球体。真球になるんです。例えそれがどれほど歪んでいようとも」

 納得いかないといった顔で前列の男子生徒が話す。

「そんなのは屁理屈じゃないですか。答えになってませんよ」

「なるほど、君のものさしでは今の話は受け入れられないと。ですが、私は私が持つものさしで判断して皆さんに伝えました。それが理解出来ないのであれば、残念ではありますが理解できるまでクラス全員が、補習を受けなくてはいけませんね」

 それを聞いた途端それまで口を閉ざしていた生徒達が、各々の不満を口に出し始めた。仕舞いにはこの事を教育委員会に言い付けると言う者まで現れた。その意見を一通り聞きいた教師は、机を両手で力強く叩きつけバンッという音が教室に響くと全員が静かになった。

「こんな風に戦争が始まる事も、あるのかも知れない。私の主張を受け入れられない貴方達が、自分たちの譲れないモノを守る為に、私という国に攻め入ってきた訳です。今、怒りを見せた貴方達の中に私の意見を考慮して私のことを思い遣った人はいましたか?もしいたとしても、大勢が進む流れの中では容易にはそれを主張できませんよね」

 我に帰った生徒達はまた先程と同じ様に口を閉ざし、教壇に立つ教師の事を見れずにいた。しかし、ただ一人。珠紀だけは違った。教師の目を真っ直ぐに見つめて手を挙げたのだ。それを見た教師は落ち着いた口調で言う。

「どうぞ、高佐木さん」

「話が難しくてよく分かりません。結論として、先生は何が言いたいんですか?」

 不快そうな表情で言う珠紀に、教師は微笑んで答える。

「結論としては、完全や完璧、絶対なんてモノは無い。と言うのが私の意見です。人はそれぞれのものさしで判断をする。だから私たちはその中で互いに妥協しながら生きるしかありません」

「それとさっき私達の方を指さして言った、通じるって意味が分かりません」

 教師は微笑みながらも困った様な仕草を見せた。

「これは高佐木さんだけではないのですが。皆さん、もう少し自分の頭で考える、という事をしてください。今後皆さんの前に、人に聞いても、ネットで調べても答えが分からない問題が必ず現れます。……ですから高佐さんの最後の質問には答えません。是非自分たちで考えてみてください」

 教師が話終わるのとほぼ同時に、授業の終わりを告げる電子音が、スピーカーから流れた。教師は挨拶をすると、黒板を消して荷物をまとめるとそそくさと教室から出て行った。教師が居なくなると、それまで沈黙していた生徒達が次々に話し始める。話題はもっぱら、先程の授業で言われた内容だった。そしてその多くは否定的な意見が占めている。

「何言ってんだろうねあの先生。世界史に関係ない事、教える意味がわかんないよ。ねっ、珠紀」

 普段表立っては人の事を悪く言わない世奈が、珍しくご立腹するのを見て二人を囲む女子が互いに目を合わせる。

「……そうだね。なんだか難しい話だったね」

 遠い目をして話す珠紀の目の前に掌をかざして手を振る世奈。

「おーい。聞いてないでしょ」

「えっ。ごめん、なんだっけ」

 焦って謝る珠紀を一瞥してから世奈は、席を立って教室を出ていった。その後ろを他の女子が付いて行く。

 一人教室に取り残された珠紀は、窓から見える空に目を向けてため息を一つ吐くと、机に突っ伏して顔を隠した。


 終業のチャイムが響く教室で帰り支度を始める珠紀。前の席の世奈がチラチラと様子を伺っているのが分かるが珠紀から話しかけはしない。珠紀がカバンを肩に掛けたところで、ようやく世奈は重い口を開いた。

「さっきは黙って教室出て行ってごめん」

「世奈は何も悪くないよ。私が話をちゃんと聞いてなかったのが悪いんだし、ごめんね」

 それを聞いてそれまで曇っていた世奈の表情は晴れ、笑みが溢れた。

「よかった、これで仲直りだよね。そうだ、時間あるなら帰りにお茶でもして帰らない?」

「ありがとう。でもごめん、今日はこの後予定があるんだ。また今度一緒に行こうね」

 世奈は残念がってこそいたが、そこに負の感情は無く素直にそれを受け入れた。帰りの挨拶を済ませた珠紀は、学校を後にすると家とは反対方向に向かう電車に乗った。そして四駅先で降りて改札を出ると、駅前の小洒落たカフェに入った。

 珠紀は店内を一通り見回した後にスマートフォンで誰かにメッセージを送った。そして通りを見渡せるテラス席に座り、水とおしぼりを運んできた店員にアイスコーヒーを注文した。店はそれほど混雑しておらず、すぐにアイスコーヒーが席に運ばれると、珠紀は一口飲みカバンから小説出して読み始める。

 そうして一時間ほど珠紀はテラス席で時間を潰していると、駅の方から大勢の人が出てくるのが目に入った。一際目を引く人物が一人。それはほとんどの人が足早に歩く中を、一人マイペースに歩く巳姫だった。巳姫は制服姿ではなく大人びたハイブランドの服を身に纏っている。そして真っ直ぐカフェのテラス席に向かうと、珠紀の席の向かい側に座った。

 席に着いたのを確認した店員が水とおしぼりを持って注文を取りに来ると、巳姫は無言のままメニューをトントンッと指差した。それを確認した店員は「かしこまりました」と言って店の奥に消えた。

 巳姫はカバンから取り出した化粧品の数々をテーブルの上に並べると、手慣れた様にメイクを施す。珠紀は小説をカバンに入れて、ただ黙って巳姫が化粧をするのを見ている。

 十分もすると巳姫の化粧された顔は、誰が見ても巳紀だと気づかれない程に様変わりしていた。知人がこれを見たら驚くべきはずだが、珠紀は眉一つ動かさずに唯々見ている。

「なに?何か言いたいことでもありそうな顔してるけど。不満があるなら言ってよタマちゃん。ちゃんと話は聞くよ。まぁ、聞くだけだけどね」

 立てた鏡に視線を向けて化粧をしながら、バカにした様な口調で話す巳姫。

「あんた何をどうしたいの。もう私に構わないでって言ったわよね」

「つれないなー。最初にお願い事して来たのはタマちゃんなのに。ちょっと想定外な事が起きたからって私に当たらないで欲しいな。……そうそう、今日着けてきたこのネックレス、やっぱり私にすごく似合うと思わない?これ一点ものらしいよ」

 珠紀に見せびらかす様に、服の中から引っ張り出したネックレスには煌びやかな小さな星型のトップが付いており太陽の光をよく反射して輝いた。珠紀はそれを見るや否や巳姫を睨みつけた。

「恐いなぁ。そんなに怒らないでよ、二人でちゃんと話し合ったじゃない。約束を守ってないのはタマちゃんの方なんだから」

 化粧を終えた巳姫の顔は学校でのそれとは別人になっていた。普段から彼女を見ている同級生が今の彼女を見ても恐らくは気が付かないだろう。

 巳姫は運ばれてきたアイスミルクティーを飲むと、ストローを使ってグラスの中の氷を弄ぶ。珠紀は先程と変わらず巳姫に、睨みを利かせたまま話す。

「それで、今日は私に何をさせたいの」

「そうそう、そうやって協力的ならお互いやり易いでしょ。今日貴方にお願いしたいのは、こないだ引っ掛けたアホなおっさんと会うから、何かあった時には通報してほしいのよ」

 椅子の背もたれに寄りかかり背筋を伸ばす巳姫。

「それってこの間、電車の中で痴漢してた奴?」

「そうそう。この間タマちゃんが遠目で見てたあの時の人だよ。いやー、何回か示談金って名目で少額巻き上げてたんだけど今回は結構な大金要求したから不安でさ」

「いつまでそんな脅迫紛いなことばっかり続けるつもりなの」

 それを聞くと、舌打ちをして真顔になる巳姫。

「はぁ?あんたに説教されたくないわ。後ろめたい事してる奴が悪いんでしょ。それとも何、警察にでも行くの?」

 歯を食いしばり口を噤む珠紀を見て、うすら笑いを浮かべた巳姫が話す。

「よかったね、私と友達で。わかったらやる事ちゃんとやってよね。タマちゃん」

 一万円札を半分以上残ったアイスミルクティーのグラスの下に置くと巳姫は荷物を持って立ち上がった。

「それじゃあ、お会計済ませてきて。すぐに出発するから」

 珠紀は荷物をまとめるとテーブルに置かれた伝票と一万円札を握りしめてレジに向かった。レジを打つ店員が二人の会計をまとめようとした所を珠紀が止めて、別々に支払いを済ませた。そして入り口でスマートフォンを操作する巳姫にお釣りを手渡そうとした。

「なに?要らないよ。タマちゃんのお小遣いにでもしてよ」

 それでも珠紀がお釣りを渡した為、巳姫は渋々受け取ると直接触らない様に小銭を近くの沿道を通る排水溝に捨て、お札は財布に戻した。

 珠紀はそれを冷めた目で見るだけで、何も口出しすることは無かった。

 その時、巳姫のスマートフォンに着信が入る。巳姫は画面に表示された【金蔓かねずる8号】の文字を見ると、口角を上げて電話に出たした。

「はいはい。……わっかりましたー。そうそう、今日は友達と一緒なんです。……わかってますって。連れては行かないですよ。ただ近くで待っててもらうだけですから。ほら、タマちゃんも言ってあげてよ」

 話途中で電話口を向ける巳姫。

「あの、すぐ近くで待ってるだけなので、気にしないでください」

「ねっ。一緒には行かないって言ったでしょ。そんな訳で急いでるんでチャチャっと用事を済ませましょうね、お互いの為に。それじゃあ今から向かいます」

 電話を終えた巳姫は歩みを進める程に軽やかな足取りで道を歩く。それとは対照的に珠紀は一歩を踏み出す度に、見るからにその足取りは重くなっていた。

「ほらほらー、早く行くよ。タマちゃん」

 作られた巳姫の満面の笑顔が、夕暮れ前の陽の光に照らされて輝いている。

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