(6)

 家のインターホンが鳴り、早江は早足で玄関に向かうと、ドアの前で荷物を手に持って、待っていた配達員からダンボールに入った荷物を受け取った。その足でリビングに向かうと、荷物をテーブルの上に置きダンボールの口を止めているガムテープを、爪を使って乱雑に開けて中から一冊の本を取り出した。

 本は、数日前に早江が電話会社に依頼して発送してもらった電話帳だった。

 早江はポケットから氏名と消印が手書きで書かれた紙を取り出すと、それを元に電話帳で一致するモノを探し始めた。一つ一つ丁寧に確かめていた為、一ページの確認には数分を要している。

 小一時間ほどその作業を続けた早江は、とあるページで手を止めて何度も手書きのメモと見比べる。そしてそこに書かれた住所と電話番号を、手書きのメモに更に書き写して電話帳を閉じた。

 早江は車の鍵とカバン、更に電話帳と手書きのメモを持って家を出て車に向かうとトランクを開けた。トランクにはちょっとした荷物が積まれており、その荷物に隠れる様に電話帳を載せてトランクを閉めて運転席に乗った。エンジンが掛けられて表示された車内の時計は、午前十一時を表しており早江はそれを目で確認してから、カーナビに目的地の住所を設定して車を発進させた。

 平日の道路には休日に比べて多くのトラックが行き交い、日本の物流を支えている。それもあり普通乗用車に乗る一般人は、背の高い車両が多いと見通しが悪く走り難い。それが普段走り慣れていない道なら尚のことだ。

 早江が運転する車は、交通量の多い国道を通ってちょうど名腹市に入ったところだ。前方には大型トラックが走っており、標識が見え難くなっている。車内のカーナビは案内こそしているが、年式が古い早江の車のカーナビは手動でデータの更新をしなくてはならないにも関わらず、もう何年もその作業を怠っていた。それもあり早江はカーナビに全幅の信頼を寄せる事が出来ないでいた。

 ようやく早江の周りから大型トラックの姿が無くなったのは、カーナビに導かれて侵入した。センターラインが入っていない路地の細道に入ってからだった。周囲には住宅が多く建ち並び、対向する車両は手慣れた運転で早江の車の横を通り過ぎている。その手慣れた運転から彼等が周辺に暮らす住人であることは、早江にも容易に想像ができた。

 初めて通る慣れない路の走行中、両手でしっかりとハンドルを握り締める早江の視線は、前方とカーナビの両方を何度も行き来している。入り組んだ路地を抜けると、辺りに田んぼが広がる見通しのいい道路に出た。

 カーナビを確認した早江は車の速度を落として、周囲を見回しながら運転をする。『目的地に到着しました。案内を終わります』到着を知らせるカーナビの音声を聞いた早江は、ハザードを点けて車を路肩に寄せる。

 車の周囲には数軒の一軒家がポツポツと点在していた。どの家も古い日本家屋で、どの家も軒先には表札らしきものが確認できない。早江は手書きのメモを読み返すが、そこには今の事態を打破する手立ては書いてはいない。諦めて車を発進させて少し走らすと近くに車を駐車できる休憩施設を見つけた早江はハンドルを切って車を駐車場に停めた。

 エンジンを切った車内は、季節外れの照りつく太陽の光のせいで徐々に熱せられ、十数分もすると夏場に匹敵する暑さにまで上がっていた。その為、たまらずに早江は外に逃げ場を求めて車を出た。

 駐車場にはエンジンをつけたまま座席を倒して、休憩を取るサラリーマンの乗る車が何台か停まっているだけで、全体的にガラ空きだ。

 早江は飲食店や小売店が入っている建物に向かうと、建物の外に置かれていた自販機で水を一本買いその場で水を飲んだ。そして自販機の隣に置かれている古ぼけた公衆電話に目が留まり側に近寄った。

 公衆電話は長年この場所に置かれているせいか、所々傷がついており色も霞んでいる。しかし、一人一台スマートフォンを持つ時代になったことを考えると、意外なことに蜘蛛の巣などは張られておらず日頃から使用されている形跡があった。

 財布を開いた早江は小銭入れから、十円玉と百円玉を数枚ずつ取り出して、公衆電話の上に置いた。手にした受話器を頭と肩で挟み投入口に小銭を入れて、手書きのメモに書かれた番号を押す。

 呼び出し音が繰り返されるに、従って早江の心臓の鼓動は早くなる。

『はい。もしもし』

 年を重ねているのがわかる、しゃがれた声が電話に出た。

『あの、……文雄ふみおさんはご在宅でしょうか?』

『どこの誰で、何の用だ』

 早江の質問の仕方に気を悪くしたのか、電話相手は強い口調で言う。早江はそれを察すると慌てて口を開いた。

『すいません。私は高佐木早江といいまして、勇雄さんの妻です。文雄さんにお聞きしたい事があって電話しました』

『勇雄の……。それは申し訳ない。文雄は私です。それで聞きたい事とは?』

 先程とは違い穏やかな口調で話す文雄。

『はじめまして。折角の機会なので、ご迷惑でなければ直接お会いしてもらえませんか?』

『あいつは。勇雄は了承してるんですか?』

『いえ。連絡を取ろうとしてた事も知りません。それでも、是非一度直接会ってもらえませんか?』

『……わかりました』

 文雄のその返事をもって二人は後日、日を改めて文雄が指定する場所で会う事を約束してこの日は話を終えた。

 公衆電話の受話器を戻した早江は、追加でメモに記入した内容を読み返している。そしてスマートフォンを使い早速、指定の場所を検索していた。

 その結果、文雄が指定した場所は名腹市の主要駅近くにある、昔ながらの喫茶店である事がわかった。早江はそれを確認し終わると自分の車に戻り、自宅方向に車を走らせた。


 券売機の前で路線図を眺めて料金を確認する早江。現代ではカードに料金をチャージするのが主流となっているが、久しぶりに電車に乗る早江にはそもそもその知識自体が無い。

 早江の住む街から目的の駅までは、乗り換えなく一本の電車で向かうことができた。その事は、多少なりとも早江の救いにはなっていた。

 都市部とは違い、そこそこの地方都市でさえ一人一台の車、又はバイクなどの移動手段の確保は、その土地に住む人にとってはそれこそ生活に直結する問題だ。中には余儀なく自転車での移動をしている者も居はするが、行動範囲は極端に狭まり生活環境も一変する。現代ではスマートフォンなどの個人所有の通信機器が必須となっているが、場所によっては、個人所有の通信機器よりも個人所有の移動手段の方が優先される場合すらある。

 早江の住む街は決して田舎では無い。だが都市部とは違い、蜘蛛の巣状に張り巡らされた交通機関が行き交う訳でもない。その為早江も車社会の一員なのである。そうなると余程のことがないと、公共交通機関を利用する機会は無くなるものだ。加えて勇雄が昔から遠出を嫌う事もあり高佐木家では、旅行に出かけた事もなかったのだ。

 早江がホームに行くと丁度、電車が発車する直前でタイミングよく乗ることができた。あまり楽しい目的を持って電車に乗っている訳ではないが、それでも普段乗ることがない電車に乗った早江の口角は少し上がっていた。

 平日の通勤ラッシュを終えた電車内には、外回り中らしきサラリーマンと老人が数人乗っている。ガラ空きの座席に腰を下ろして車窓を眺める早江。

 その目には線路沿いに建てられて在る民家や工場が次々に横切る。電車が駅に近づくと速度を緩めてゆっくりとホームに進入する。がらがらなホームに電車が停まると、早江の乗る車両に母親に手を引かれた小さな女の子が、見るからに一張羅らしき綺麗な服を着て乗り込んできた。女の子は母親の隣にちょこんと座り、行儀良く足を揃えてその上に手を添えた。

 出発した電車の振動で、汚れ一つ付いていない女の子の純白の靴が揺れる。車窓から入り込んだ光が一際その靴を輝かせていた。早江は親子が車両に乗り込んでからずっと目の端でその様子を伺っていた。そして楽しそうに話す二人を見て昔を思い出して懐かしそうに微笑んだ。

 まだ珠紀が幼い頃、たまに早江は出不精の勇雄を残して繁華街に二人で出掛けていた。その時はまだ車が多い場所での運転に、慣れていなかった事もあり、電車での移動が主だった。その日は二人とも普段あまり着る機会がない、オシャレな服を着て出かけるのが常だった。そして決まって帰りに、駅の売店でお菓子を一つ買い分けて食べた。そんな楽しかった思い出を早江の瞳は親子を通じて、重ねて見せていたのかも知れない。

 駅に着くと早江は仲睦まじい親子の姿を、最後に一瞥してからホームに降りた。

 改札口を出るとさえは、事前に道順を調べていた事もあり迷うことなく目的地である喫茶店に辿り着いた。

 店の佇まいは長い年月を経ているであろう、風格が漂っている。入り口は開き戸になっていて、早江がドアを開くと年季が入った呼び鈴が店内に鳴り響く。

 その音を聞きつけた店員が、入り口に来たので早江は待ち合わせしている旨を店員に伝えると「お伺いしております

 」と言って一番奥の席へと案内した。

 案内された席に座っていた老夫は、案内されてきた早江の姿を確認すると立ち上がって会釈をした。それを見た早江は先に、案内をしてくれた店員に飲み物を注文した。店員がその場を離れるとようやく早江は、老夫の前へと移動して深々と頭を下げた。

「初めまして。高佐木早江と言います」

「どうも、電話で話した文雄です」

 中肉中背の文雄は取り立てて、身体的特徴が無い老夫だった。それでも強いてあげるならば、勇雄によく似た目元が早江にとっては印象的に映った。

 挨拶を済ませて対面の席についた二人だが、お互いが口を閉ざし妙な沈黙が場を支配する。そしてその沈黙を破ったのは、二人の内のどちらでもなかった。

「お待たせ致しました。アイスコーヒーになります。ご注文は以上でよろしかったでしょうか」

「ありがとうございます。えっと……お義父さん。注文は全部来てますか?」

 早江の問いに文雄が手を挙げて答えると、それを見ていた店員は丁寧に頭を下げてその場を離れた。店内には二人以外に客はおらず、小さい音で流れている筈のジャズミュージックがやけに二人には大きく聞こえていた。

「勇雄との間に、子供は?」

 掠れた声で文雄が、話すと早江は姿勢を整え直して答える。

「一人、娘が。名前は珠紀って言います」

「女の子か。私には息子しか居なかったから羨ましいですよ」

 そう言って微笑みを向けた文雄に早江も微笑んで返した。そしてまた少しの沈黙が続くと、早江は太ももの上で拳を作り神妙な面持ちで口を開く。

「実は、勇雄さんからは天涯孤独で家族は愚か親戚すら一人も居ないと聞いていたんです。なのでお義父さんの手紙を見つけた時には驚きました」

「そうですか。それでは。あいつから私の事は何も聞いていないんですか?」

「……はい」

 申し訳なさそうに答える早江。それを見て文雄は一度深く息を吐き、目の前に置かれているティーカップに入った湯気があがる紅茶を一口飲んだ。

「あいつとは二十数年前に仲違いしてそれっきりで。だけど家族を持って立派に生活してるみたいで安心しました。それを知れただけでも今日来た意味は十分にありました」

「あの、差し出がましいですが。どうしてこんなにも長い間、仲違いをしていたんですか?」

「色々とありますが。……結局の所はお互いの考え方の違いが原因なんだと思います。あいつ。勇雄の考え方も理解は出来たんですが、私にも譲れないモノがありましてね。勇雄は私の譲れないモノが許せなかったんです」

 遠くを見つめながら話す文雄を見て、早江はそれ以上何も言えなくなった。

 いつの間にか店内は多くの客で賑わっており、何処となく文雄は不機嫌そうにそんな店内を見回す。

「早江さん。店も混んできたんで、話が無ければこれで」

「あのっ」

 立ちあがろうと腰を上げた文雄を呼び止める為に発せられた早江の大きな声が文雄の動きを止める。

「もう少しだけ、いいですか?」

 文雄は椅子に腰を下ろして早江の方へと顔を向ける。

「勇雄さん。昔はどんな人だったのか知りたくて」

「どんな、と言うと?」

「何と言うか。何か収集癖があったとか、どんな性格だったかを知りたくて」

 見るからに怪訝な表情を浮かべている文雄だったが、早江のすがるような目を見て真剣な表情に変わった。

「性格は良く言えば芯がある子供でした。でもその反面、融通が利かない子供でもありました。それと、収集癖は特に無かったと思います」

「そう、ですか。わかりました」

「……勇雄の事で何かお困り事なら、話してくれませんか」

 それを聞いてすぐに早江は力強く口を噤んだが、力尽きた様に次第に口元を緩めた。そして堰を切ったように、早江の瞳から溢れ出た涙が頬を伝う。

 文雄は持っていたハンカチを早江に差し出し、何も言わずにただ椅子に座って泣き止むのを待った。そして落ち着きを取り戻した早江は、取り乱した事を文雄に謝罪すると意を決した様に口を開いた。

「実は——……」

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