(5)
「先日は仕事を変わって頂いて、ありがとうございました」
パート先の休憩室で頭を下げてお礼の言葉と共に菓子が入った小箱を差し出す早江。
「もう、別にいいのに。こっちこそ気を使わせて逆に申し訳ないわ。でもせっかくのお気持ちだから頂くわね」
早江のパート仲間の草間はそう言うと、差し出された小箱を受け取り嬉しそうに笑った。
「いえ、草間さんには常日頃からお世話になっているので、せめてもの気持ちです」
「お互い様なんだからいいのよ。まぁ、パートリーダー達はいつもの如くグチグチ文句言ってたけど、気になんてしちゃダメよ。何なら言い返したら良いんだからね」
「でも、皆さんにご迷惑お掛けしたのは事実なので、後で謝っておきます」
「もう。本当に早江ちゃんは優しくて真面目なんだから、少しぐらい
二人が他愛もないやり取りをしていると、休憩室のドアが開き不機嫌そうにパートリーダーの中屋が部屋に入ってきた。中屋は入り口の近くに立ったまま動く事なく椅子に座る二人を傍観している。
「仕事が始まる前に、頂いたお菓子ロッカーに入れてくるわね」
部屋に入って来た中屋の視線が、ブレる事なく二人に注がれていたせいか、草間は顔を青くして荷物をまとめると、慌てて部屋を出た。草間が中屋の隣りを通りすぎる際会釈をしたが、中屋は何の反応も示さなかった。草間が部屋を出ると中屋は、テーブルを挟んで早江が腰を下ろしている席の前に座り、早江の顔を目を細めて見た。
「お疲れ様です」
早江がいつもと変わらない表情で、先に挨拶をすると、中屋はため息を吐いた。そして次に軽く舌打ちをすると、鋭い眼光で早江の事を睨んだ。
「その前に何か私に言うべきことはないの高佐木さん。私はバックヤードのパートリーダーなのよ。それにもかかわらず、私に断りもなく勝手にシフトを変えるなんて、一体何様のつもりなの」
「急遽どうしても外せない用事が入ってしまいまして。なのでせめて当日、職場が困らない様に代わりの人は探したんですが、そこまで考えが及ばず、中屋さんにもご迷惑をお掛けしました」
「本当にいい迷惑だわ。そもそも、出勤出来なくなったのなら、まずはパートリーダーである私に連絡をしなさいよ。そうしたら私がどうすべきか判断してあげるわ。それにそもそもの話をすれば、外せない用事なんて誰にでもあるのよ。それでも仕事を優先するのが社会人ってものでしょ。もう少し社会人としての常識を覚えなさい」
身体の前で腕を組み高圧的な物言いをする中屋。
「はい。今後は中屋さんにご連絡するようにします。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
真剣な面持ちで頭を下げて謝罪する早江。
「わかったならいいのよ。今後は気をつけてちょうだい。それとあなたが休んだせいで出来なかったバックヤードの在庫確認と整理、それと従業員用のトイレが汚れてたから、あなたが責任持って今日中に全部やっておいてね」
最後に言い捨てる様に仕事を押し付けて中屋は部屋を出ていった。早江は目を瞑り目頭を手で押さえるとゆっくりとした呼吸を数度繰り返す。
目を開けると早江は部屋を出て、女子トイレに入り手洗い場で顔を洗った。ポケットを手探りしてハンカチを取り出し、顔の水滴を拭き取ると正面に備え付けられた鏡を見つめる。
鏡に映る早江の顔には、少し疲労の色が伺える。早江は顔をマッサージするように、手で指圧していつもと変わらない笑顔を作ると、中屋に申し付けられた仕事に取り掛かった。
シフトより一時間遅れて仕事を終えた早江は、自分の車に乗る為に駐車場に向かって歩いている。社員通路を通って出入り口に行くと早江は警備員室の前を通るのだが、毎度出勤時と退社時に受付をしている警備員の老夫に挨拶をしていた。
「お疲れ様です。お仕事頑張ってください」
早江がそう言うと、老夫が警備員室を出てきた。
「失礼だが、あんた高佐木さんって名前じゃないか?」
「えっ。……そう、ですけど」
早江が答えると老夫は周りを見回して何かを確かめると、手招きして早江を建物の外に連れ出して人通りの無い物陰に誘い込んだ。
「あんたの職場大丈夫なのか?」
老夫が唐突に出した質問に早江が言葉を詰まらせていると、見かねて老夫が話を続けた。
「こないだあんたがいなかった日の事なんだが。店内の見回りした後に休憩室の前を通ったら、何人か集まってあんたの名前を言いながら大声で悪口を言い合ってたんだ」
「そ、そうなんですか」
「お節介とは思ったんだけど、これが初めてじゃないから心配になってさ。あんた職場でいじめられたりしちゃいないかい?」
「ええ、まぁ。……大丈夫ですよ」
「それならええが、あそこは前から何度もそれで人が辞めてるから無理せん様にな」
老夫はそう言って建物に戻った。早江はその場で立ち尽くしていたが、建物の出入り口から職場の従業員が出てくるのを見て急いでその場を離れた。
駐車場に向かう早江の顔は、普段貼り付けている微笑みの仮面が剥がれ落ち、喜怒哀楽のどれらも含まない無表情で歩いている。
車のドアの前に着くと、窓ガラスに映る自分の顔を見た早江は溢れ出した様に笑い出した。しかしすぐに必死にその笑い声を押し殺すと、車に乗りルームミラーを覗き込みいつも通りの顔を作った。
エンジンをかけた早江は、ハンドルを握ると車は急発進させた。駐車場を出て公道に入ると速度を上げて法定速度を大幅に超えて走る。まだ帰宅ラッシュではない事もあり、道路には早江の行く手を阻むモノは何もない。
赤信号に変わりかけた交差点にアクセルを更に踏み込んだ早江の車が侵入して走り去る。そして目前に迫る次の信号機が赤信号に変わり、大型トラックが交差点を横切るのを見てようやく早江は力一杯ブレーキを踏み込む。
タイヤが金切り音を立てながら、速度を急速に落とすと停止線を少し超えた場所で車は止まった。早江は一度深く呼吸を整えるとフロントガラスから見える交差点を眺めながら言う。
「はーっ。スッキリした」
早江の表情は先程と一緒で喜怒哀楽のどれも含まないモノだった。
昼下がりのインターネットカフェ、とある個室で不器用そうに人差し指を使ってタイピングする香澄。老眼鏡を掛けて見難くそうにモニター画面を見て検索エンジンに【名腹市 婦女暴行 未解決】を打ち込むと、無数の検索結果が画面に映し出される。そしてそこに並ぶ多くのサイトは主にブログや匿名掲示板だった。
その内の一つの匿名掲示板を開くと、そこには的を得ない書き込みが無数に並べられている。
「何が楽しくてこんな無駄な事に、時間を費やしてるんだコイツら」
思わず心の声が口から出た香澄。
書き込まれている内の多くは、公表されている情報を元にした的を得ない個人の考察や感想などが主なものだった。中には犯人は俺だ、などと言う不埒な書き込みまであったが、あっさりと他の投稿者にその化けの皮を剥がされて事件とは関係がない事が証明されている。
その後、香澄は他のサイトを開いては書き込まれた情報を隅まで読むが、どのサイトも多少の違いはあっても内容には大した違いがないものばかりだった。
香澄は老眼鏡を外すと目頭を押さながら天を仰ぐ。その時後方のドアをノックする音がした。
「酒井です。入りますよ」
そう言うのと同時にドアが開くと酒井が狭い個室に無理矢理身体を押し込んで中に入った。
「あのな。ノックってのは何でするか知ってるか?」
「入りますの合図でしょ」
「ちげーよ。入っていいか確認の為にする合図だ。だから普通はノックしてから返事があるまでドアは開けないんだよ、お前それでよく採用時の面接試験に合格できたな」
「いやいや、面接試験の時はちゃんと中の返事を待ちましたよ」
呆れ顔でコメカミを手で摩る香澄。
「訳がわからん、何でその時はしたんだ。もういい、これからは返事待ってから開けろ」
「いや。試験の時はそうしろって、言われてたんで。早く言ってくれればいいのに、了解です」
更に出そうになる言葉を、喉元過ぎて口の中で噛み殺す香澄。酒井はそれに気づく素振りなく、手に持つ二つの菓子パンの内一つを香澄に渡すと、残ったもう一つの菓子パンの袋を開けると、何食わぬ顔で頬張り始めた。
「お前、すごいな。本当に今時の若い奴の考えが俺には、全くわからん。それで資料室からは何か新しい情報は出てきたのか?」
「いえ、全く。何せ三十年近く前の事件でしょ、加えて組織的に隠蔽されてるのに新しい情報なんて出てこないですよ」
酒井は頬張りながら話すので、口から溢れでたパンの屑が床やパソコンのキーボードの上にパラパラとこぼれ落ちる。
「きったねーな。飲み込んでから口を開け。……仕方ない、やっぱり容疑者だった麻井の周辺から当たらないと無理だな」
ポケットから取り出した缶コーヒーで口の中のものを、胃に流し込んでから酒井が話す。
「香澄さん、ちゃんと検索したんですか?」
「こんなモノでちょっと調べただけで、情報が出てくるなら苦労しねぇよ」
「何言ってるんですか、こんなモノがあるからこそ、今の世の中こんなに便利になってるんですよ。ちょっと僕に任せてください」
パソコンの前に座る香澄を押し除けて、酒井はキーボードを使い【〇〇県 警察 陰謀】で検索をかけると、これまた無数のサイトが画面に現れた。酒井は表示されているサイトの説明書きを流し見て次々に画面をスクロールしていく。
「おいおい。そんな見方で何書いてんのわからんだろ」
「欲しい情報かどうかぐらいは、わかりますよ。一つ一つ隅々まで見てたらそれこそ永遠に終わらないじゃないですか。そんな事するバカはいないでしょう」
腕組みして何も言えなくなった香澄は、口をもごつかせながら静かに酒井が操作するパソコンのモニターを見ていた。
「怪しそうなのがありましたよ。どうやら、ゴシップ雑誌の記者が書いた記事ですね」
「どこに、何て書いてあるんだ」
腕組みを解いて画面の近くに身体を乗り出す香澄。それを問題そうに手で押し返す酒井。
「狭いですよ。読みますから下がってください。……えぇっと、なんでも【〇〇県で起きたある事件を隠蔽した上級国民の特権と闇】って書いてます。でもこれは宣伝だけで記事はネットには上がっていないですね。記事の内容は当時発売されていた週刊誌を手に入れないと恐らくわかりません」
「ちなみにその雑誌は、今もまだ発行してるのか?」
「……いえ。数年前に雑誌は廃刊になってます。ですが発行元の会社はまだ在りますね。連絡先確かめます」
酒井は取り出した手帳のページを一枚破り取ると、そこに出版会社の情報を書き込んでそれを香澄に手渡した。
「行くには少し遠すぎるな。しょうがない、とりあえず電話するしかないな。車に戻るぞ酒井」
香澄が狭い部屋を出ると酒井はパソコンの電源を落としてから、急いで後を追った。外では車の場所が分からずに右往左往している香澄の姿があり、慌てて酒井は車まで案内した。
車に乗るとすぐに香澄は、支給されている携帯電話ではなく私物のスマートフォンを使って先程調べた出版社に電話を掛けた。
『はい。株式会社〇〇です』
『私、調査会社をしていて名前はカスガと言います。以前そちらで出版されてました週刊誌の記事の件で少しお話を伺いたいんですが、お話がわかる方にお引き継ぎ頂けますか』
『わかりました。少々お待ちください』
電話口からは保留を知らせる電子音で作られたメロディが流れる。香澄は何故か昔から変わることのない、この機械的な哀しげな音が昨今嫌いではなくなっていた。そして運転席に座る酒井は丁寧な物言いをする香澄の姿を見を細めて眺めている。
『はい。お電話代わりました。編集部の田中と言います。どう言ったお話で』
『カスガと申します。少しお話を聞かせていただきたいのですが、数年前に廃刊になった週刊誌に、二十七、八年前に掲載された記事のことなんですが』
『随分と昔ですね。そんな前の話となるとお答えできるかわかりかねますが』
あからさまに迷惑だと言わんばかりの口調で答える相手だが、香澄は変わらず丁寧な口調で話を続ける。
『見出しが、【〇〇県で起きたある事件を隠蔽した上級国民の特権と闇】って記事なんですがそちらに記事の情報が残っていたりしませんか』
『ちょっとこの場では分からないので、分かり次第折り返し電話しますよ。それでは失礼します』
淡々と話すと相手は香澄の返答を待たずに電話を切った。香澄は顔色ひとつ変えずにタバコを咥えて火を付けた。
「何だか、感じの悪そうな奴でしたね」
電話から声が漏れていて話を聞いていた酒井は車の窓を開けながら不満そうに言う。
「誰でもこんなもんだろ。お前だって仕事中に自分に、関係のない電話がかかってきたら面倒だと思うだろ。世の中の誰も彼もが聖人君主なんて幻想はさっさと捨てろ」
「幻想じゃなくて理想を持って生きてるんですよ。誰も彼もが聖人君主を目指すべきでしょ」
「お前にとっての聖人君主が誰かにとっての聖人君主って決め付けてる時点で、お前の理想であって誰かの理想じゃないんだよ」
「それなら、犯罪者達のクソみたいな理想でも配慮はいるってことですか?」
「違うね。理想なんて持つなってことだ。何度も言うが受け入れるって事も必要なんだよこのクソみたいな世界では」
酒井は言い返す事こそ辞めたが、あからさまに納得がいかないといった顔で車のエンジンを掛けると駐車場から車を発進させた。
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