(4)
鳴り響くアラーム音で目を覚ます。物心がついた頃から今に至るまでの大半の朝を、この繰り返しで始めている勇雄。結婚してからは隣で寝ている早江が、なかなか目を覚まさない時には、寝返りを打つなどしてさりげなく起こしていた。昔まだ新婚の頃、早江を寝かせたまま勇雄が朝食の準備を済ませた事があり、その時早江がえらくショックを受けたのを見たのを境に、勇雄が自分で朝食を用意する事は無くなった。
この日、早江が一階に降りて朝食の支度を始めると、勇雄は布団から出て静かに自分の書斎に向かう。
隣の部屋で寝ている珠紀や一階に居る早江に気づかれない様に、書斎のドアを静かに閉めると椅子に座って机に向かい大きな欠伸を一度した。
机の上には昨夜勇雄が仕事帰りにコンビニで購入した週刊誌が、置かれておりパラパラとページを捲り、とある記事を見つけて手を止めると、そのページを開いたまま下に向けて机の上に置いた。次に本棚から【日本地図帳】を取り出すと名腹市の拡大図が載ったページを開く。
それを手に持ち椅子に座り、開いたままにしていた週刊誌と交互に見た。
週刊誌の記事の見出しには【〇〇県名腹市殺人事件と警察の闇】と書かれており、事件現場周辺の写真や周辺住人の証言が記載されている。そして記事の大部分は、現場で居合わせた刑事について書かれていた。横柄な態度を取っているだとか、恫喝をされただとか、見事なほどに取材記者の独断と偏見が書き綴られている。そして最後は【警察官としての適正に欠けている】の一文で記事は締め括られていた。
勇雄は記事に書かれている事件現場の住所を、手に持った地図で探して見つけると、ペン立てから出した赤ペンでその場所に印を付けた。記事のページの角を折ると、週刊誌を机の上に置いている古新聞の山の上に適当に投げて、印を付けた地図に再度注視した勇雄。
ページを捲り名腹市周辺の市町村拡大図のページと名腹市のページを見比べる。勇雄が開く全てのページに赤ペンで書かれた印があり、怪訝そうにその印を確認している。
その時、隣の寝室から漏れ聞こえたアラーム音が勇雄の耳に届く。
勇雄は本棚に地図を戻すと寝室に小走りで移動し、目覚まし時計のアラームを止めて、リビングに向かった。テーブルには朝食が用意されており、勇雄が自分の席に着くと見計らった様に早江が山盛りによそったご飯茶碗を勇雄の前に置いた。
そしていつも通りテーブルに置かれた朝刊を開いて、勇雄の朝食は始まる。新聞を読みながら黙々と食事を進めていると、珠紀がリビングに入ってきた。
相変わらず勇雄の方に視線を向ける事はなく、テーブルの対角線上に食器を移動させてから今日も食事を始めた。ようやく洗い物を済ませてひと段落した早江が、食卓に着く頃には勇雄の食事は既に終盤に差し掛かっている。リビングでは食事の音と時計の秒針が時を刻む音が強調されていた。
この日テーブルの隅に置かれたチャンネルを手に取り、テレビの電源を入れたのは早江だった。普段は自ら率先してテレビをつけることが無い為、目を大きく見開いた珠紀は早江の方に一瞬視線を向けたが、すぐにその視線をテレビ画面に移した。
テレビ画面には【今日の星占いランキング】なるものが映し出されており、早江と珠紀は食事の手が止まり画面に見入っている。一方勇雄は読み終えた新聞を畳むと、食べ終えた食器をシンクに運び、リビングを出て洗面所に入った。蛇口を捻り温水が出るのを待ってから顔を洗って歯を磨いた。最後に洗面台に備え付けられた鏡に映る自分の瞳を、数秒見つめると目を逸らして二階の寝室に足を運んだ。
着替えを済ませ再度リビングに入ると、テーブルの上に菓子パンが一つとコーヒーが入った水筒が置かれているので、勇雄はそれを手提げカバンに詰め込み玄関に向かう。
勇雄が靴を履いて家の中に振り返るとそこには毎朝早江が立って待っている。
「行ってきます」
「気をつけて行ってらっしゃい」
特別な事情がなければ結婚してから今日まで、仕事の日には一日も欠かす事なく続けている二人の習慣だ。
勇雄は玄関を出て車に乗り込むと、すぐにエンジンを掛けて職場に行く為に車を発進させた。この日は珍しく玄関のドアを開けて早江が職場に向かう勇雄の車を見送っていたのだが、勇雄はそれに気づく事なく走り去った。
「お疲れ様です。今日も疲れましたね」
仕事を終えた派遣社員の三川が、現場の片付けをしている勇雄に笑顔で話しかけると、勇雄は手を止めて三川の顔を見た。
「お疲れ様。何だか嬉しそうだけど良いことでもあった?」
「良いも何も、明日は土曜日じゃないですか。しかも月曜日が祝日の三連休、勇雄さん嬉しくないんですか?」
「そんな事ないよ。ただ三日も休みもらってもやる事がないけどね」
三川は驚きながら言う。
「やる事なんてやりたい事をするんですよ。俺なんてこの三連休は一人で山に行って趣味のキャンプするんです。ずっと楽しみにしてたんですから」
「キャンプが趣味なんだ。趣味があるのは羨ましいよ」
「もし興味あれば、近いうちにご一緒しませんか?」
「はははっ。そうだね、機会があれば是非お願いしようかな」
三川はあまりに嬉しかったのか鼻息を荒くして話す。
「本当ですか?絶対ですよ。楽しみにしてますから」
「機会があればだよ。もう遅いから早く帰りな」
勇雄が帰宅を促すと頭を下げて三川は早足で帰って行った。
現場の片付けを終えた勇雄は帰り支度を済ませると、早々に駐車場に向かい自分の車に乗り込んだ。車のドアを閉めると、カバンからまだなみなみとコーヒーが入った水筒を取り出して、勢いよく口に流し込む。
半分程の量を一息に飲み干した所で、ようやく思い出した様に慌てて呼吸をした。車のエンジンを掛けて窓を開けると涼しい風が車内に入ってきて仕事終わりで火照る勇雄を心地良い風が包んだ。
駐車場の周りに街灯がない事もあり、車の窓からは夜空に広がる星空がみえるのだが、勇雄が夜空に視線を向ける事はなかった。代わりに車内の時計に視線を向けると、時計は午後八時を表示している。勇雄は時間を確認するとサイドブレーキを解除してシフトレバーをドライブに入れ、ゆっくりと車を発進させた。
眠気まなこを擦りながらも、慎重に家の駐車場に車を停める勇雄。
車内の時計は午前零時過ぎを表示している。車のエンジンを切った勇雄は座席の背もたれを倒して天井を仰いだ。
少し視線をずらして窓の外を見れば、そこには多くの煌びやかに輝く星が夜空に浮かんでいるが、勇雄は見ようとはしなかった。数分そのままの体勢で遠くを見つめていたが、ふと我に返った素振りを見せると座席を戻して車を降りた。
玄関のドアの前に立ち深呼吸をしてから鍵を開けると、極力音を出さない様に、ゆっくりとドアを開いて家の中に入る勇雄。暗闇の中でリビングに通じるドアに、嵌め込まれたすりガラスから漏れる微かな灯りを頼りに靴を脱ぐと、週末なので持ち帰った作業着をカバンから取り出し、階段の下にカバンを置くと勇雄は風呂に向かう。
脱衣所に置かれた空カゴの中に持ち帰った作業着と脱いだ衣服をまとめて入れて風呂場に移動した。
勇雄は一週間の疲れを洗い落とす様に丹念に身体を洗う。そしてお湯が少なくなっている浴槽に入ると腰を落とした。ぬるく胸下までしかない風呂ではあるが平日は早く寝る為にカラスの行水を貫いており、湯船に浸かれるだけで勇雄には不満など無い様だ。
風呂を出て勇雄がリビングに向かうと、いつも通りテーブルには夕食が並べられている。ただし週末だけの特別な品も料理の横に備えられていた。
平日は決して飲むことがないビールだ。勇雄は特段酒が好きと言う訳ではないのだが、昔から週の仕事終わりには決まってビールを飲んでいた。もしかしたらそれは勇雄にとって、心のスイッチを切り替える為に必要な、ある種の儀式なのかもしれない。
いつもなら勇雄の前の席に早江が座り、食事の様子を眺めながらお茶などを飲んでいるのだが、ここ数日はテレビの前に置かれたソファに座って勇雄の前に座ることは無かった。
しかし勇雄はその事に対して文句を言うでもなく、いつも通りに夕食を食べた。食べ終わると皿を洗い、就寝前の準備を済ませて二階の書斎に姿を消しす。
そしてリビングに一人残る早江の瞳は、録画していたお気に入りの番組が流れるテレビ画面を越えて遠くを見つめていた。
「ちょっと聞いてるの珠紀」
前の席に座る世奈が窓越しに空を眺めている珠紀の肩を掴んで顔を覗き込むと、慌てた様に珠紀は世奈の方へと顔を向けた。
「えっ。ごめん、ちょっと考え事しちゃってた」
「もーー、最近ずっとそんな感じだよね。何か悩み事?そうならちゃんと私に言ってよ」
「悩みって言うほどの事じゃないんだけど。……最近、何だかお母さんが元気ない感じなんだよね」
珠紀に悩みを打ち明けられた世奈は、目を輝かせると身体を前に乗り出した。
「何々、ようやく話してくれる気になったの?お母さんの事で悩んでたんだ。それで、いつから様子がおかしくなったのよ」
「たしか、ここ数週間かな。話しかけても上の空だし、酷い時は話を聞いてすらいないの。流石に気になってどうしたか聞いても何もないの一点張りだし、お手上げ状態なのよ」
「気にしすぎだよきっと、だって珠紀も私の話聞いてない時結構あるし、母親譲りなんじゃない」
珠紀の頬を人差し指で押す世奈。
「そうなのかなぁ」
「そうそう。だから心配しなくても大丈夫だって。それよりも、さっき話してた新しく買おうと思ってるバーキンの事なんだけど……——」
雑誌を手にした世奈は、最低価格でも六桁の値段が並んだページを開いて意気揚々と話をする。その話を聞く珠紀の顔にはぎこちない笑顔が張り付いていた。
学校が終わり駅に着いた珠紀は、家とは反対方向の電車が来るホームに並べられているベンチに座り、終盤に差し掛かっているミステリー小説を読み始める。
ホームには部活に入っていない帰宅部の生徒たちが、チラホラと電車を待っている姿があった。中には珠紀と同じクラスの生徒もいたが、チラチラと横目でその姿を見るだけで話しかける人は誰も居ない。
なにせ一人でベンチに座る珠紀からは、話しかけ難い雰囲気が漂っていたので、それも致し方ない事ではあった。ホームに電車が到着すると、珠紀は家と反対方向に進む電車に乗り込み座席を探す。平日の下校時間と言う事もあり、電車に乗っている客の大半は学生だ。
珠紀は空いた座席を見つけたが、狭いスペースに加えて両隣に人が座っているのを見ると座るのを諦めて、出入り口の横にある空間に立って壁に背中を預けた。そして読みかけていた小説のページを開いて、駅を出た電車の振動に揺られながら読書を続けた。
電車内には友達グループやカップル、先輩後輩関係のグループなど多くが集団で行動して楽しそうに会話をしていたが、その殆どの人の視線は話し相手ではなく、それぞれが手に持つスマートフォンに向いていた。人との会話を行いながら器用に別の誰かにメッセージを送る人や、動画配信サイトを開いてお気に入りの配信者の情報をチェックする人、自分が好意を抱いている人が情報を垂れ流しているSNSを隅々まで熟読する人。
用途こそ多岐に渡っているが、多くの人の関心と視線は、手のひらサイズのスマホ画面に集中していた。
そんな世の中で、スマートフォンを鞄の奥に入れて小説を読み耽る女子高生の珠紀は、現代においては稀有な存在と言えるかも知れない。
珠紀は乗り込んだ駅から二つ目の駅に到着すると、電車を降りて改札を通り駅の外に出た。駅周辺は取り立てて栄えている訳ではないのだが、駅前にはこの周辺地域では一番大きな書店が店を構えており、珠紀の行きつけになっている。
書店の入り口の自動ドアを通ると、珠紀は迷う事なく真っ直ぐ目的の場所に進む。
お目当ての小説コーナーの目立つ場所には、発売されたばかりの人気恋愛小説家の書き下ろし単行本が、大量に平積みされている。
珠紀はそれを
十分程、物色をした珠紀は一冊の本を手に取った。【殺人犯の思考と心理】と書かれたその本の、裏側にはあらすじが書かれている。
あらすじからは殺人犯側から見える世界のあり方と、その心の内を読み解く物語である事が分かる。あらすじを読み終えた珠紀はそれを手に持ったままレジに向かう。
セルフレジの前に立つと、珠紀はカバンからブランド物の財布を出して会計を済ませた。
珠紀は買ったばかりの本をカバンに入れて出口に向かって歩き始めたその時、誰かに肩を優しく叩かれた。振り返るとそこには満面の笑みを浮かべた巳紀が立っていた。
「タマちゃん。お茶でも飲みに行こうよ。最近いいお店見つけたんだ」
そう言うと巳紀は珠紀の腕を引っ張りながら、書店の出口に向かって進んだ。
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