(3)

 楢山の元上司が暮らす部屋の前に着くと、香澄はドアスコープを指で塞いでインターホンを押した。しかしインターホンは、どうやら故障している様で反応せず使えない。

 出鼻を挫かれた香澄は、ドアを強く叩いて大きな声で住人を呼ぶ。

狭間はざまさん。配達です、サインをお願いします」

 ドアに耳をつけて室内の音を探ると、玄関に近づいて来る足音が香澄の耳に届いた。

「はいはい」

 返事と同時に開いたドアに、香澄が足を差し込んでドアを閉められなくする。驚きながらも、狭間は力一杯ドアノブを引っ張った。そのせいでドアに挟まれた香澄の足は締め付けられる。

「痛い痛い。酒井、見てないで開けるの手伝え」

 香澄が叫びながら言うと、慌てて酒井はドアの隙間に指を入れて開けようとした。だが老人とは思えない力でドアノブを引き続ける狭間に二人は手間取る。コント劇の様な押し問答を数分続けて、ようやく軍配は二人に上がりドアは開かれた。身構えた狭間は後退りしながら部屋の奥へ逃げた。それを追う様に香澄も素早く玄関に足を踏み入れる。

「邪魔しますよ」

 乱雑に靴を脱いで家に入る香澄の後から、疲労の色が見える酒井が続いて入り、荒れた玄関の履き物を直してから二人の後を追った。

 家の中は良く言えば小綺麗に片付いている。だがその実は物が極めて少ない度を過ぎたミニマリストが住む家の様だ。ダイニングキッチンには冷蔵庫すら置かれておらず、どの部屋もテレビも無ければラジオも無い。そんな風に通り掛かるすべての部屋に生活感が見受けられない。

 狭間が逃げ込んだ一番奥の部屋に行き着くと、二人の目に唯一部屋に置かれた布団に隠れた狭間の姿が飛び込んだ。香澄は酒井と目を合わせると気まずそうに、頭を指で掻いて視線を狭間が潜り込む布団に戻す。

「狭間さん。俺は楢山さんの部下で香澄と言います。今日連絡があったはずですが」

「知らん。俺は何も知らん。楢山にもそう言ったわ、さっさと帰れ」

 狭間は布団に隠れたまま、声を張り上げて早口で話す。

「本当に知らない人はそんな態度は取らないでしょうが、いいからさっさと出てきてください」

「知らん、知らん、知らん。ワシは何にも知らん」

「いいから早く布団から出て」

 香澄は布団を激しく引っ張り狭間からもぎ取った。布団を失った狭間は部屋の隅に行くと身体を丸めて手と腕で顔を隠した。その姿を哀れみの目で見ている酒井が小声で話す。

「香澄さん。もういいんじゃないですか?」

 横目で酒井を睨んで舌打ちをする香澄は、狭間に近づき手を掴んで顔を出させた。

「いい加減にしろ、ガキじゃねえんだ。往生際が悪いにも程がある、あんたが何をしたか知らんが、さっさと知ってる事を全部話せ」

 それまでの香澄にしては丁寧な口調から一転、いつも通りの荒々しい口調に戻った声が部屋を震わせる。そして静まった部屋には今だに興奮している狭間の息遣いが静かに響いた。

「……わかった。わかったから、とりあえずこの手を離せ」

 投げやりな言い方をする狭間は、観念したのか諦めたように丸めていた身体を解いて、身体を起こした。香澄は息を一度勢いよく吐き出してから掴んだ手を離すと、狭間に向かって手招きして「こっちに来い」と言うと、ダイニングキッチンに向かい換気扇を回した。そして上着のポケットを弄り、タバコを取り出して一本、口に咥えると躊躇なく火を付けた。

 狭間を連れてダイニングキッチンに入ってきた酒井は慌てて香澄に向かって片手を伸ばす。

「ちょっと。人の家ですよ香澄さん。早く消してください」

「いい、いい。俺も昔はよく吸ったもんだ」

 失笑しながら酒井を宥める狭間に、香澄はポケットから再度出したタバコの箱を一本出した状態で狭間に差し出すが、狭間は首を横に振って手でそれを遮った。

「退職した時に辞めたんでな。……それで、何を聞きたいんだ」

 見るからに過剰に力が入った腕組みをして、神妙な面持ちで尋ねた狭間。

 タバコの煙を深く肺に吸い込んで吐き出した香澄はポケット灰皿を取り出し、吸っていたタバコの火を消してポケット灰皿に捨てた。

「楢山さんから連絡があったと思いますが、二十八年前の殺人事件の件です。当時のあなたがまとめた資料、一通り目を通しました。分かりやすくまとめられていたので、とても読みやすかったです。その上でお聞きたいんですが、その資料に嘘偽りはありませんよね?」

「嘘偽り、か。……そういった類いのものは、見る角度によってどうとでも変わるもんだ。警察官であるお前達なら当然わかってるだろ?」

 顔を強張らせながら答える狭間。

 その様子を腰に両手を当てて聞いていた香澄が、しかめっ面で口を開く。

「こっちは、そんな言い訳めいた話を聞きに来たんじゃ無いんだ。資料に嘘があるのか、それと資料に載せていない情報があるのか、それだけ話せ」

「……事件の被害者の情報はどこまで知っている?」

「事件が起きた名腹市に祖父母と暮らしていた青年で、氏名は麻井眞一あさい しんいち。仕事は住まいから近いコンビニエンスストアでのアルバイト、逮捕歴は勿論、補導歴も無く、周りの評判も上々の好青年。そんなとこか」

 視線を落としている狭間は歯を食いしばりながらその話を聞く。

 数秒の静寂の後、それまでと打って変わり覚悟を決めた顔になった狭間はゆっくりと話し始めた。

「お前達、波豆川太一はずがわ たいちって名前に聞き覚えはあるか?」

「波豆川?」

 首を傾げながら言う香澄。

「ひと昔前の警察庁長官の名前ですよ」

 それを見ていた酒井が呆れながら答える。

 その返答を受けて答える狭間。

「そうだ。二十八年前の警察庁長官の名前だ」

「そ、それでその長官がなんだってんだ」

 バツが悪そうに香澄が言うと、狭間は話を続けた。

「波豆川は当時とある地方都市に構えていた自宅に、妻と二人の子供を住まわせていた。だが実は波豆川には戸籍上の繋がりが無い実子がもう一人別に居てな。……それが事件の被害者だった青年、麻井眞一だ」

「おいおい。それが本当なら一大事だろ。警察は躍起になって事件に取り組むはずだぞ。なんで、そうならなかったんだ?」

「あんた、香澄って言ったか。二十八年前あんた警察で働いてたか?」

「あぁ、まだまだ下っ端の頃だがな」

「それなら、同時期に県内全域で騒がれていた別の連続事件を覚えていないか?」

 狭間の言葉を聞いた香澄は指で顎を撫でながら、考えを巡らせて当時の記憶を探る。

「もしかして、迷宮入りした連続婦女暴行事件の事か?」

 確信を持てない香澄が、自信なくボソボソと小声で言う。それを聞いた狭間は目を閉じ、憂鬱な表情で小さく小刻みに頷いた。

「そうだ。……当時、極小数の限られた者にだけ知らされていた事なんたが。その事件は最初の事件発生時から実は、有力な容疑者が一人居たんだ。此処まで言えばもう察しはつくだろ」

「まさかと思うが。……分かっていて、そのまま野放しにしていたのか?」

 唖然とした顔を固めたまま、問いかける香澄。その香澄から顔を背ける狭間の態度が全てを物語っていた。

 瞬時に顔を真っ赤に染めた香澄よりも早く、それまで沈黙を貫いていた酒井が狭間の胸ぐらに掴み掛かると、そのまま壁に勢いよく押し付けた。

「ふっ、ざけんなっ‼︎ お前達一体何様のつもりでそんな事を……——」

 酒井が拳を振り上げた所で、ようやく香澄が力尽くで二人を引き離した。狭間はそのまま壁を背にへたり込むと顔を伏せてむせび泣く。

 引き離された酒井は振り下ろす先を失った拳を、更に力強く握り締めて歯を食いしばった。

 二人の様子を見ていた香澄は、頭を掻きむしり息を吐くと、座り込んだままの狭間の前に腰を落としす。

「被害者の麻井眞一が連続事件婦女暴行事件の容疑者だったって事で間違いないんだな」

 狭間は顔を伏せたまま力なく頷いた。香澄は立ち上がると酒井の腕を引っ張り、立たせると玄関に向かう。

 二人が居なくなったダイニングキッチンでは、嗚咽交じりに泣き続ける狭間の声がいつまでも響いていた。そして玄関に向かう二人の耳にもその声は届いていたが、ピクリとも反応見せずにそのまま部屋を去った。

 団地を出た二人は、駐車していた車に乗り込むと、すかさず酒井が会釈をしながら小声で絞り出す様に言う。

「すいませんでした」

 返事を言葉では出さず、香澄は優しく酒井の肩に手を置いて答えた。

 酒井は香澄が常日頃から多くの問題を起こす反面、こういった時に見せる何気ない優しさを併せ持つ事をよく知っていた。

 すぐに何事も無かったかの様に、助手席の座席を倒して目を瞑る香澄を見て、酒井はもう一度頭を下げてから車のエンジンを掛け、車をゆっくりと発進させた。


「——以上が報告になります」

 駐車場の車中では捜査本部に戻って来た香澄と酒井の二人が、車に呼び出した楢山へ狭間から入手した情報を報告していた。

「……そうか。面倒をかけたな」

 眉間にシワを寄せて目を閉じる楢山をルームミラーで確認した香澄は、開きかけた口を一旦閉じて視線を窓の外に向けた。

「それで、どうしますか?」

 香澄が運転席に顔を向けると、悪びれる様子もなく酒井が楢山に話しかけていた。そして助手席に座る香澄が、呆れ顔で見つめている事に気が付いた酒井は慌てて口をつぐむ。

「会議では勿論、署内だけだとしてもとてもじゃないが、その事実は出せんな。香澄、お前の考えはどうだ」

 後部座席で車内の天井を仰ぎながら淡々と話す楢山。

「楢山さんの言う通り、とても表に出せる情報じゃあ無いですね。ですが事件の被害者である筈の麻井眞一が、別の事件の容疑者ともなれば調べない訳にもいかないでしょう。それらを踏まえた上で出せる答えは一つ、俺と酒井で麻井眞一の事を秘密裏に探ります」

「確かにそれ以外に方法はないだろうな。だが、俺が危険だと判断したらその時は即刻この件からは手を引くぞ。下手したら仕事どころか命さえ失いかねない案件だからな。……おいっ、香澄。タバコ一本くれ」

「いいんですか?禁煙してたんじゃ……——」

 話しの途中で楢山は後部座席から身を乗り出して、香澄の上着のポケットを探るとタバコを見つけて一本奪い取った。

「火、火はどこだ?ったく、さっさとしろ」

 香澄はズボンのポケットからライターを出すと、今か今かと待ち望む楢山が咥えているタバコに火を付けた。

 窓も開けていない密室の車中は、楢山が煙を吐き出す度に見る見る煙りで満たされた。咳き込む酒井が手を窓の開閉スイッチに伸ばすと、運転席の座席を後ろから楢山が強く蹴って言う。

「開けるな、ここは書の敷地内だぞ。色々とバレると不味いだろうが。タバコの煙ぐらい我慢しろ」

「非喫煙者の僕には相当キツイですよ。話は後で香澄さんに聞きます。なのですいませんが僕は一度、捜査本部に戻るんで後の話はお二人でお願いします」

 そう言って車を降りて署に向かい歩く酒井の後ろ姿を、香澄と楢山はタバコを咥えながら見送った。

「それにしても楢山さん、せっかく禁煙二週間続いていたのに残念でしたね。これまでの最長記録ですよ」

「出来るなら辞めたかったんだがな。このまま吸わないでこの事件の担当を続けている方が、卒煙より先に上がりすぎた血圧で、脳卒中を起こして人生を卒業する羽目になるわ。それよりも、よく聞き出せたな。俺が狭間さんに連絡した時は取り付く島もなく断られたのに、どうやって聞き出したんだ?」

「知りたいなら話しますけど。ただ俺の意見としては後々問題になった時の事を考えると、楢山さんは知らない方がいいと思いますがね」

 背もたれにだらしなく身体を預けて、遠くを見つめながらタバコを吹かす楢山。

「もういい。……聞きたくなくなった。とりあえず一つは収穫があったんだ、今回はそれで良しとしておく」

「それが賢明です。それと事件とは関係ないですが、収穫はもう一つありましたしね」

「……っま。それも聞かないでおくよ」

 後部座席の楢山は、ルームミラーに映り込む香澄の普段あまり見ることのない微笑みを、穏やかな表情で眺めていた。

「俺はそろそろ行くが、他に聞いておいた方がいい事はないか」

「今はそれぐらいですね。……あぁそうだ。俺から一つ確認しておきたいことがあるんですが、いいですか?」

「何だ、さっさと言え」

 後部座席に顔を向けて楢山の目を見据える香澄。

「楢山さんは、上の厄介事に関わったりしてないですよね?」

 香澄の声色はそれまでの和やかなものから一転して、普段から嫌と言うほど楢山が耳にしている刑事のものに変わっている。楢山は晒す事なく香澄の目を見返す。

「香澄。世の中ってのはあらゆる事柄が、複雑に絡まり合って出来上がってるのはお前も解ってるだろ。でもな、そんな世の中でも俺は家族や後輩のお前達に後ろめたい事は何一つしてきちゃいねえよ」

「分かってますよ。これからお互い何が出てもおかしくない物騒な薮に、手を突っ込むんだから言葉で聞いておきたかったんですよ」

「これだけ長い付き合いにも関わらず、まだ疑おうとするんだからこっちはたまったもんじゃないがな。しかし今回は本当に無茶をせず、慎重に動けよ。あと何かわかったらすぐ連絡をいれろ」

 言い終わると楢山は車を降りて、署の中に姿を消した。車に残った香澄はドアに肘をついた手で頭を支えて、静かに物思いに耽ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る