(2)

 朝、勇雄と珠紀を送り出した早江は、本来ならば仕事のシフトが入っている日なのだが、この日はパート仲間の草間に頼んで仕事を変わってもらった。

 早々に家事を済ませた早江は、書斎のドアの前に立つ。

 立ったまま手を揉み合せ、ドアノブを見つめた早江は、少し震える手でドアノブを掴んで、ドアを開けた。部屋の中は以前入った時と何ら変わらず、机の上に古新聞が積み上げられている。

 前回とは違い今回早江は、凝視しながら部屋の中を見回している。本棚の前で立ち止まると、綺麗に並べられた本から一冊手に取りページを開いた。【人体解剖図】と表紙に書かれた古びた本の開いたページには、臓器の実物写真が掲載されており、その臓器の役割が共に記載されている。

 それを見た早江の呼吸は見る見るうちに浅くなり、強い力でその本を閉じた。本を本棚に戻すと、次に別の【日本地図帳】と書かれた本を手に取るとペラペラとページをめくった。本の痛み具合が使い込まれている事を物語っていた、その中でも一際、使い込まれたページを見つけると早江の手が止まった。

 ページは〇〇県の拡大地図のページだった。何枚か捲ると名腹市の拡大ページに行き着き

 、早江の手はまた止まった。そして地図に赤ペンで書き込まれた丸印に目がいく。地図を睨みつける早江は、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、カメラを起動させて印が書き込まれているページの画像を撮り始めた。他のページを確認すると、名腹市以外の拡大ページにも幾つかの印が書き込まれており、早江はそれを全て撮影して本を元の場所に戻した。

 部屋を見回して、次に机の上に置かれた古新聞に手を伸ばしたが、乱雑に積み上げられていた事もあり早江は古新聞には触らなかった。しかし机に備えられている三つの引き出しの内、鍵が付いていない二つを開けると中を物色した。中にはこれといって何も保管されておらず、すぐに閉じると早江の視線は唯一鍵が付いた引き出しに釘付けになる。

 引き出しを開いてみるがやはり鍵がかけられており、開けることが出来ない。早江はスマートフォンを取り出すと、【机、引き出し、開け方】で検索をすると、瞬時に夥しい情報が画面を埋め尽くし、ヘアピンを用いてのピッキングを見つけた早江はそのページを開いて熟読している。

 スマートフォンの画面の中には、一昔前では想像する事さえ出来なかった無数の答えが詰め込まれている。そして、その簡易さと比例して深い闇もその見えない世界には広がっていた。早江が調べたピッキング方法なんて物は昭和後期から平成初期に知っていた一般人は鍵屋ぐらいで、後は泥棒とそれを取り締まる警察官ぐらいなものだろう。

 それがいつの間にか、技術力はさて置き知識のみなら誰もが容易く手に入れられる世界に変わった。

 早江は駐車場に向かうと、隅に置かれている小さな物置の扉を開いた。そして中からペンチを探すとそれを持ってまた書斎へと戻った。書斎に入るとすぐに作業に取り掛かり、苦戦しながらもヘアピンをスマートフォンで調べたピッキングが出来る形状に変化させた。

 スマートフォンの画面では動画が流されており、事細かくピッキングを説明している。それもあり、決して器用では無い早江でも難なく鍵を開けられた。

 鍵が開くと、伸ばした早江の手は少し震えながら引き出しを開けた。恐る恐る覗き込む早江の瞳には、これまた古びた口が開いた封筒が一通だけ映る。

 封筒を手にした早江は、中から一枚の便箋を取り出して広げた。内容を読み進める内に早江の表情は、驚きから次第に懐疑的なものへと移り変わった。全てを読み終えたのかもう一度封筒を確認する早江の目に、切手に押された消印に釘付けになり、スマートフォンでその消印を写真に収めた。更に裏面に書かれた氏名【奈須文雄なす ふみお】をメモすると部屋を元の状態に戻してその場を後にした。


 香澄と酒井が乗る車が、昼下がりの車通りの少ない道路を走る。車内では相変わらず酒井がハンドルを握り、香澄は横で寝入っている。

 空には雲一つない晴天が空一面に広がっており、この季節にしては異常な程の熱気が車内に漂っている。酒井の額にはじんわりと汗が滲み出しいて、それを上着のポケットから出したハンカチで拭う。さらに隣で寝ていたはずの香澄は目を覚ましてネクタイを緩めると窓を全開まで開けた。

「暑くてたまらん。とりあえず、その先にコンビニがあるから一旦そこに寄れ」

「急がなくていいんですか?」

「干からびたら行くことさえ出来ないだろうが。いいからさっさと寄れ」

 酒井はやれやれと言った様子でハンドルを切って近くのコンビニに入るが、駐車場には多くの車が停まっていて空きを探すが見つからない。業を煮やした香澄は叫ぶ様に言う。

「もういいからそこのスペースに停めろ」

「ですけど、そこは駐車場所じゃないですよ」

「いいから停めろ」

 あまりの剣幕に酒井は根負けして車を停めた。すると停まるや否や香澄は車を飛び出してコンビニに入り、雑誌コーナーで本を立ち読みし始めた。その姿を外に停められた車からガラス越しに呆れた目で酒井が見ているが、香澄はそれに気づいても尚、気にする事なくクーラーが効いた店内で雑誌を読んだ。

 十分程経つとようやく店からビニール袋を手にした香澄が出てきて車に乗り込んだ。

「香澄さん。本当に楢山さんに言いつけちゃいますよ?」

 香澄は袋から取り出した冷えた缶コーヒーで酒井の頭を小突いてから、そのまま缶コーヒーを投げ渡した。

「馬鹿タレ。もう少し心にゆとりを持って捜査しろ。俺達の仕事は頑張ることじゃねぇ。犯人を捕まえるのが仕事だ。要するに結果を出さなきゃならんのだ」

「痛いですって。それはそうですけど、……真摯に誠実で居たいじゃないですか」

 それを聞いた香澄のそれは深い溜息が、車内に充満した。待ってる間も車内ではエアコンが付けられておらず、その暑さは尋常ではない。香澄は酒井にエンジンをかけさせると、冷房を全開の風力で付けた。それを見た酒井は慌てて香澄を止めようとしたが、手を払われた。

「ダメですって。つい最近、わざわざ何処かの誰かが、本部にまで苦情を入れて来たじゃないですか。こんな季節から車の冷房入れんなって。それで上から真夏になるまでは、出来るだけ冷房入れるなってお達が出たでしょ」

「そんなもん、誰も従っちゃいないってんだよ。上は苦情が来たからアホみたいな事ほざいてるだけだ。お前は上の命令なら何でも従うのか?」

「それが公務員ってものでしょ」

 すかさずエアコンのスイッチに手を伸ばす酒井の手を、今度は力強く香澄は叩き落とした。そして普段と違い真剣な眼差しで酒井の目を真っ直ぐに見た。

「酒井。昔お前によく似た奴が居てな。そいつは今、どうしてると思う?」

「何ですか藪から棒に」

 叩かれた手を押さえながら答える酒井。

「自分の頭に銃口を向けて引き金を引いたんだ」

 それを聞いた酒井の時間が止まり、顔から少しだけ血の気が引く。

「本当に真面目な奴でな、正義感が強くて曲がった事が大嫌いな奴だったよ。ある時、そいつは上司とのパトロール中にある事件現場に遭遇したそうだ。そいつは見事に犯人を取り押さえて、すぐに上司も駆けつけた。犯人はニ十代の男だったそうだが、何処ぞのお偉いさんに連絡しろとずっと喚き散らすもんだから、ビビった上司がそのお偉いさんに連絡を入れたんだと。そしたらどうなったと思う?」

「どうにもならないでしょ。現行犯ですよ、間違いなく逮捕です」

 仏頂面で答える酒井。

「電話を終えた上司は顔が青ざめていたそうだ。そしてすぐに管轄署の署長から直々のご連絡が入って、その犯人はその場で解放されたんだ。そいつは納得なんてしなかったが、ただの下っ端の言うことに誰が耳を貸すんだ」

「……それを苦にして自殺を」

「いや、そいつが引き金を引いたのはその事件の一年後、事件の被害者だった女性が電車に飛び込んで亡くなった直後だ」

 言葉を出せずにいる酒井を横目で見た香澄はタバコを咥えて火を付け終わると続けて話し始める。

「今のお前は正しさに固執しすぎだ。俺と違って若いんだ、もう少し柔軟にあらゆる可能性ってのを多角的に見ろ、そして狡猾に動け。その上で守るべき人を守れ、本物のクズどもから、な」

「出来るんですかね。……俺に」

「この間も言ったが、最初から出来る方が稀なんだ。凡人は長い時をかけて積み重ねていくしかないんだよ」

「はい」

 酒井は複雑そうな表情を浮かべてはいたが、香澄の言葉には素直に返事を返すと、冷えた缶コーヒーを開けて熱を帯びた身体に労いを与えた。

 するとその時、二人の乗った車が、道路から侵入してきた車の邪魔になり後ろからクラクションを鳴らされた。慌てて酒井が車を動かそうとしたが、その前に香澄が窓を開けて赤灯を車の屋根に取り付けた。

 香澄はサイレンを鳴らさずに赤灯だけを点灯させると、それまで激しく鳴らされていたクラクションがピタリと止まった。そして後ろにいた車が二人の乗る車の横を通る際、車に乗っていた爽やかそうな青年達が小刻みに頭を下げながら通り過ぎた。

「香澄さん。流石に今のはダメでしょ」

「なにがだ?今日の事をきっかけにあいつ達はそう簡単にクラクションを鳴らさなくなるかもしれないぞ?その結果、起きるはずだった事故が免れたかもしれないし、そうじゃないかもしれない。多角的に見るんだよ酒井君」

 悔しそうに歯軋りをする酒井だが、深く息を吐いて肩を落とした。

「分かりましたから、さっさと赤灯を引っ込めてください。多角的に見て、楢山さんにバレたら締められますよ」

 香澄はその言葉に従って、そそくさと赤灯を戻すと、いつもの様に座席を倒して目を閉じた。


 捜査本部を出てから二時間ほどで、香澄と酒井の二人はようやく楢山に教えられた住所付近に辿り着いた。そこには年代物の公営団地が数多く建てられており、二人が乗る車はその通りを低速で走行している。

「おい、酒井。どの建物なんだよ、塗装が剥げ落ちて何号棟なのか、てんで分からないぞ」

「何で俺に聞くんですか?こんな昭和チックな建物は香澄さんの方が得意でしょ」

「お前、時々本当に俺を馬鹿にしてるだろ。……もういい。そこの歩道を歩いてる人に聞いて来い」

 車を路肩に寄せて停めると、ハザードを点灯させ酒井は車を降りて近くを歩く老婆に話を聞きに行った。座席を倒した香澄の目には所々に綻びが生じているアパートが映っており、数多ある部屋のベランダのほんの数室だけで干された洗濯物がなびく姿がその目を釘付けにさせた。

 香澄はようやくそこから目を離すと、近くに在る公園に目が移る。公園内には撤去されずに残ったままの錆びついた鉄棒と壊れたベンチだけが残されており、地面からは処理されることの無い背の高い雑草が所狭しと生えている。

 急に座席を起こして車を降りた香澄は、公園の入り口に向かうと空から降り注ぐ陽の光で、瞬く間に額に朝方浮かび上がった。

 入り口付近には多くの犬の糞が処理されずに放置されており、野晒しのせいで水分を奪われてカピカピに乾燥してある。

 高台に位置するこの公営団地内の公園からは、麓の新興住宅地に建てられた新築一戸建ての多くの住宅がよく見えた。香澄はその姿を目に焼き付けてから後ろを振り返り、いつ朽ち果てるかもしれない公営団地とその姿を重ねた。

「分かりましたよ香澄さん。あっちの棟だそうです」

 ボーッとしていた香澄は酒井の呼びかけで我に帰り二人は車に乗り込む。

 酒井は通行人に教えられた建物に車を走らせると、建物の近くに車を停めて二人は車外に出た。

「ここ。だそうですけど、何だか一段と寂れてますね」

「分かってるとは思うが、人前で言うんじゃないぞ」

「もちろん、分かってますよ。楢山さんに貰った住所だとこの建物の五階です。早く行きましょう」

 二人は目的地の団地に着き、香澄が階段に足をかけると酒井が立ち止まる。

「あの、香澄さん。もしかして、エレベーターとかって無いんですかね」

「こんな古い建物に在るわけないだろ。立派な足を親に貰ってんだから、ごちゃごちゃ言わずにさっさと階段を登れ」

 渋々、後に続いて階段を登る酒井。階段には比較的新しい手すりが備え付けられていて、二人が登るのを微力ながらではあるが、手助けした。最初こそ勢いよく階段を上がっていた香澄も、三階を過ぎた辺りからスピードを失いつつあった。その時、香澄のポケットに入れてあるスマートフォンから音が鳴り、取り出して確認した途端に疲労感漂う顔から、怪訝な顔に変化した。

 スマートフォンをポケットに戻した香澄は、表情こそ戻したが、階段を上がるその足音は、それまでよりも確実に大きな音に変わっていた。



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