2.疑惑
(1)
朝、いつもの起床時間に早江の姿は寝室に無い。昨夜勇雄が帰宅して眠りについた後も一睡も出来ずに、リビングで録画したテレビ放送を流しながらテレビ画面をただ眺めていたからだ。
後ろから急に肩に手を置かれた早江は、驚きのあまり大きく身体を反応させる。
「おい、大丈夫か?もしかして寝てないのか?」
起床して二階から降りてきた勇雄だ。
「えっ。……ごめんなさい。朝ごはんすぐ用意するから」
時計を確認した早江は焦った様子で、勇雄の手を振り解くとキッチンに向かい朝食の用意を始めた。
平日の朝食は勇雄の要望もあり、ご飯食が常になっているのだが、いつも前夜に準備する炊飯器のセットを早江が忘れていたせいで米が炊けて無かった。
早江は仕方なく休日の朝用に買っておいた食パンを、オーブントースターで焼き目を付けてサラダと目玉焼き、さらにホットコーヒーと一緒に食卓に並べる。
「……飯は、炊いてないのか」
「ごめんね。昨日の夜、炊飯器のスイッチ押し忘れてたみたいなの。だから今日はパンで我慢してね」
それを聞いた勇雄はテーブルに掌を叩きつけた。
「パンじゃ腹がもたないって、前から何度も言ってるだろ」
これまで見たことのない勇雄の態度に、異様に怯えて後退りする早江。それを見て勇雄は我に返った。
「いや。悪かった。近頃仕事が忙しくてな。ついイライラして八つ当たりした。本当にすまなかった」
「私の方こそごめんなさい。……明日からは忘れない様にするから」
そのやり取りは階段を降りてきていた珠紀の耳にも届いた。リビングに入った珠紀は勇雄の背中を睨みつけてからテーブルの席についた。しかし、食卓についてからの珠紀はいつもの様に勇雄に視線を向けることは無かった。
静まり返ったリビングには、些細な咀嚼音と食器が奏でる生活音だけが響いていた。
パート先のスーパーマーケットで、仕事に勤しみながらも早江の手は時折停止している。それを見ていた中屋は、したり顔でその場を離れた。
時間が経ち、休憩時間になった早江は休憩室で昼食を摂っていると、そこに副店長が現れた。
「高佐木さん。ちょっと聞いたんですが、午前中の仕事をサボりながらしていたとか。本当ですか?」
「いえ、そんなつもりは。でも、もしかしたら少しボーっとはしていたかもしれません」
「それは困ります。苦情も出ているので、仕事はキチッとしてください。会社はお金を払って雇っているんですから」
早江が謝罪をすると副店長はそそくさと部屋から引き上げた。それを見計らって一緒に休憩に入っていたパート仲間の草間が、声を掛けた。
「災難だったね、早江ちゃん。絶対に中屋さんだよ。あの人、早江ちゃんにまた次も仕事押し付けたいから、敢えて自分では言わず、わざわざ副店長に告げ口したんだよきっと」
「まぁまぁ。私がボーっとしてたのは本当の事なんですから仕方がないですよ」
それを聞いた草間は近くの椅子に座り直して小声で話す。
「何かあった?よかったら聞くけど」
「いえいえ。本当に大した事じゃないんで。また何かあったら相談させてください」
午後からの仕事を終えた早江は、一度家に帰って家事を済ませると再度車に乗って出かけた。車に備え付けられている時計は午後六時を表示している。
少し走らせると【〇〇テクノパーク300m先右折】の看板が早江の目に入った。丁度付近にコンビニがあり、そこの駐車場に早江が乗る車は停まった。早江はスマートフォンを取り出すと、今日は実家に行って祖母の様子を見てくるとメッセージを送った。
車は運転席から国道を見渡せる様に停車されていて、早江はずっと道路を走る車を見ていた。
最初の一時間ほどは退勤時間のピークの時間帯だった事もあり、多くの車が行き交っていたが夜の七時を回ると車の台数もまばらになっていた。
その間も早江の視線が道路から離れることは無かった。そして一台の車が目の前を横切るのを見て早江は目の色を変えると、急いで車のエンジンをかけて発進させた。
道路に出た早江の車両は、目標の車との間にバイクを一台挟んだ後ろを走っている。時刻は午後八時を過ぎ、道路上では昼間とは違い帰宅を急ぐ人達が法定速度を大幅に超えて走行していた。その為、夜間の道に慣れない早江はハンドルを力一杯握りしめて運転をしていた。
早江が車を追いかけ始めて数分、三つの信号機が並ぶ場所に差し掛かった時、ちょうど信号機が赤信号に変わるタイミングだった。気づけば目標の車を先頭に四台の車両が一塊で走っており、先頭の目標の車は黄色信号に変わるタイミングでその連なる信号を通り過ぎ次のバイクは赤信号で通り過ぎた。早江の車がそこに差し掛かった時、信号は既に赤に変わっていた為、早江はブレーキを踏んで停止線に停まった。
追いかけていた車はそのまま進み、あっという間にテールランプの灯りが見えなくなった。そして見えなくなったテールランプの代わりか、車のルームミラーに後続車のハイビームにしたヘッドライトからの強い光が反射して、早江は目が眩んだ。
信号機が青信号に変わっていたがライトの灯りでそれを確認出来ない早江の車に後続車は更にクラクションを鳴らして威嚇しする。
ようやく信号機を確認出来た早江の車が発進すると、更に後続車が車間距離を空けずに煽り運転をはじめた。しかし、早江は目標の車を見失ったこともあり、法定速度を守った運転に務めていると、遂に後続車は早江の車を追い越して急加速すると走り去ってしまう。
それを見送った早江は、それまで浮かべていた強張った表情のまま目に涙を滲ませながら引き続き法定速度で運転を続けた。
自宅の灯りが見えた時、一瞬早江の顔がほころんだが、駐車場に着くとその顔はまた強張った。
急いで車を降りた早江は家に入りリビングに向かうと、珠紀が一人で夕食を食べている。
「おかえり、お母さん。おばあちゃん元気にしてた?」
「え……、ええ。今度珠紀も顔出して上げて。きっと喜ぶと思うから。ところで、お父さんってまだ帰って来てないの?」
「さぁ。見てないけど」
勇雄の話になるや否や、それまで和かに話をしていた珠紀は無表情に変わり答えた。
「ご馳走様」
食器を流しに下げた珠紀はそのまま二階の自室に戻ってしまう。
リビングに一人残る早江は、テーブルの席に崩れ落ちる様に座り込んだ。
早江は頭を抱えて動けないまま時間だけが過ぎてしまい、気がつけば時計はその日の仕事を終えて、新しい一日を迎えていた。
玄関のドアを開ける音が聞こえ、次に足音が風呂場に向かう。
重そうに身体を動かして早江は、夕食の支度を整える。そして勇雄が入浴を終えてリビングに現れた時にはいつも通りテーブルには夕食が並べられており、勇雄は席について、それをいつもの通りに食べ始めた。
椅子に座り、お茶を飲みながら勇雄を見つめる早江。
「おかえりなさい。今日も遅くまでお疲れ様」
「ああ」
いつもならここで会話は終わるのだが、この日は違った。
「最近随分と遅い日が続くけど、なにかトラブルでもあったの?」
「んっ?いや、唯いつにも増して忙しいだけだ。その内、収まるだろ」
食事をしながら視線を向けない勇雄。その姿を注意深く早江は見る。
「そう。あまり無理しないでね」
「……ああ」
朝、満員気味の揺れる電車内で珠紀は何処も掴む事なく、バランスを取りながら本を読んでいる。相変わらず車内の男達は舐め回す様に珠紀を観るがそれを意に介さない。
駅が近づき本をカバンに入れ、顔を上げた珠紀の目に同じ車両に乗っていた巳姫の姿が映る。
開閉扉と向かい合い、背中を丸めて顔を伏せる巳紀。
よくよく珠紀が目を細めて見ると、巳姫の後ろに男がピッタリと身体を寄り添わせ、片手を吊り革、片手を巳姫との間に入れてモゾモゾと動かしているのが見えた。
男は歳こそ四十を超えていそうだが、渋さ漂うキリッとした顔に整った髪型、吊り革を掴む手にはいかにも高そうな金の時計が巻かれている。
一見すれば、まさか痴漢などする筈が無い。そう言われる類の人物だ。もし仮に今この場で巳姫が痴漢を訴えたとしても果たして何人がその言葉を信じるか定かでは無い程に。
学校の最寄り駅に着いた珠紀が駅に降り立ち、他のホームに降りる人達を見回す。しかし、電車の扉が閉まりホームを離れ始めても駅に巳姫は現れなかった。
電車を見送り終わると珠紀は、駅を後にして行きつけのファストフード店で、読書をしながら世奈が来るのを待った。
合流した二人は今日も、いつもと変わらない人に囲まれた登校風景を作り出し授業を受ける。
二時間目の授業が終わった後に教室に巳姫が現れたが、彼女に挨拶をする者は一人もいなかった。巳姫は席に着くと淡々と次の授業の準備をはじめた。
それを見ていた珠紀と世奈の周りに集まるクラスメイトの内の一人が口を開いた。
「ねぇ。知ってる?空山さんってパパ活してるらしいよ」
「あっ。それ聞いた事ある。三年の先輩が見たって話、私も聞いた。二人も聞いた事ない?」
珠紀は答えずに首を傾げ、代わりに世奈が口を開いた。
「でもそれってただの噂でしょ。結局みんな誰かが見たって言うだけで、直接見た人居ないじゃん」
世奈のその言葉で、盛り上がりを見せかけていた周りのクラスメイト達の火が鎮火された。次にその様子を見届けた珠紀が口を開く。
「ごめん。私ちょっとトイレ行ってくるよ」
「着いて行こうか?」
「ううん。大丈夫、すぐ戻るから」
今の状況で世奈が付いてくると、これまでの経験上、周りのクラスメイトも付いてくるのは明白だった。
教室を出た珠紀はトイレに向かうと手洗い場で顔を濡らした。ポケットを探るがハンカチが見つからず忘れてしまった様だ。
「これ、使って」
顔を濡らして水滴で目が霞む珠紀は、差し出されたハンカチを受け取り、水気を拭いて顔を上げた。すると目の前の鏡には自分の背後に立つ巳姫が微笑む姿が映されていた。
「あ、ありがと。これ洗って返すよ」
手に持ったハンカチを挙げながら言う珠紀。
それを聞いた鏡に映る巳姫の顔は先ほどまで見せていた微笑みが消えていた。そして急に差し込だ日の光が巳姫の眼鏡と鏡の両方に反射して眩しさのあまり珠紀は今の巳紀の表情を読み取れなかった。
その時、廊下から声が聞こえると、二人組の女子生徒がトイレに入って来きた。その二人が近くを通る時、鏡に映る巳姫の顔に微笑みが戻っていた。
「大丈夫大丈夫。私も使うから返してもらうね」
そう言って珠紀が手に持つハンカチを取ると巳紀はトイレの個室に姿を消した。
珠紀は早足にトイレを後にすると真っ直ぐ教室に戻り席に着いた。
「珠紀どうかした?なんだか顔色が悪いみたいだけど」
「何でもないよ。ちょっと重い日なだけだから気にしないで」
納得した世奈はそれ以上の追求はしなかった。
少ししてから教室に入ってきた巳姫は、珠紀には目もくれずに席に着いて授業の始まりを待っていた。
授業が終わり、帰り支度をしている珠紀。そこに世奈が振り返り話しかける。
「今日時間ある?」
「何で?」
「ちょっと買い物付き合ってよ。どうしても欲しいアクセサリーがあってさ」
目を輝かせて話す世奈を見た珠紀は、断りずらくなった。
「わかった。いいよ」
支度を済ませた二人は教室を出て駅に向かった。相変わらず二人が歩くと注目の的だが、やはり二人はそれを気にする素振りすら見せない。
電車に乗り込むと、世奈がお気に入りのアクセサリーショップが在ると言う駅に着いた。二人は、電車を降りると脇目も降らずに店に向かう。
店に着くとその外観に珠紀は目を丸くした。そして世奈に手を引かれて入った店内は、明らかに学生服を着た高校生が場違いだと一目でわかるほど、煌びやかな宝石がショーウィンドウに綺麗に並べられ展示されていた。
「世奈っ。本当にここで買うの?」
「えっ?そうだよ。よくママと来てるから心配しないで」
フロアに居た女性店員が二人をみると一度奥に消え、次に現れた時には見るからに立場が上の人間を連れていた。そしてフロアに来るや否や、二人の前に立ち塞がった。
「ようこそおいで下さいました、世奈様。本日はお母様はご不在でしょうか?」
「そうよ、今日は友達と来たの。実は欲しい物があって、ここならあるかなって」
世奈はスマートフォンの画面を突き出して欲しい商品を店員に伝えた。
「さすがは世奈様。お目が高い。タイミング良くちょうど本日入荷したところです。一度身につけられますか?」
「いえ、いいわ。そのまま包んでちょうだい。それと請求はいつもの様にママに回しておいて」
「畏まりました」
珠紀は見るからに自分の親より年上の大人が、自分と変わらない年齢の世奈に深く頭を下げるのを複雑な顔で見ていた。
「後で寄るから用意しておいて。行こっか珠紀」
店員の丁寧なお辞儀を背に浴びながら、世奈と珠紀は店を出てその足で、近くの小洒落たカフェに入る。そして外のテラス席に座り注文を済ませた。
「世奈。何なのさっきの」
驚きを交えて問いかける珠紀。
「何って?」
あっけらかんと話す世奈。
「何処がアクセサリーショップよ。あそこはジュエリーショップでしょ。しかも私なんか一生縁がない様な」
「何言ってるのよ。大した違いなんて無いじゃない。そうやって何にでも物おじしてると人生損するよ。何事も経験よ、けいけん」
そう言って世奈は、運ばれてきたロイヤルミルクティーを口にした。珠紀は納得できないと言った様子で、運ばれて来たコーヒーには口を付けず、通りに視線を移すと、歩道を歩く巳姫の姿を見つけた。
その隣には今朝、電車で巳姫の背後に張り付いていた男の姿があり、珠紀は二人を目で追う。だがすぐに角を曲がってしまい見えなくなった。
「珠紀、聞いてるの?」
何度か声をかけていた世奈は頬を膨らませて珠紀を見ている。
「ご、ごめん。なんだっけ」
「もう。知り合いでも居たの?」
「えっ。……居ないよ。ちょっと考え事してただけ」
「ならいいけど。それでさぁ、さっき言いかけた事なんだけど——……」
世奈の話を相槌を打って聞きながらも珠紀の視線は時折、巳姫が姿を消した曲がり角に向いていた。
初めて砂糖を入れていない、ブラックコーヒーを口にした珠紀は表情を変える事なくそれを飲み込んだ。
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