(4)
パートを終えて家に帰った早江は息つく暇もなく、出勤前に干しておいた洗濯物を室内に取り込むと畳み始めた。
早江が流し見するテレビでは今朝、報道された名腹市の事件の続報が流されており、遺体の身元が判明したと報じられている。
洗濯物をゆっくり畳みながら、早江の顔はテレビ画面に向いていた。時折自分で肩叩きをしては残りの洗濯物を全て畳む。
そして、それを仕分けしてそれぞれの場所に戻し始めた。最初にタオル類を脱衣所兼洗面所に、次に娘の部屋に入り洗濯物はまとめてベッドの上に置いた。この家では配られた衣類は各々が自分で保管場所に戻すのが、いつからか決まりにの様になっていた。
早江は自分達の寝室に入ると、まず自分の洗濯物をそれぞれの場所に戻した。そして最後に残った勇雄の洗濯物をいつもの様に、ベッドの隣に在る背の低い洋服タンスの上にまとめて置いた。
一仕事終えた早江はベッドの上に座ると、身体を倒して天井を仰いだ。天を仰ぐ早江の表情には感情は浮かんでいない。
唯々澄んだ顔で長年見上げ続けている天井を見つめている。
「まただ」
カリカリッ。と何かを引っ掻く音が部屋に響くと、それまでとは打って変わり天井を眺める顔が、不快感を示したものに変わった早江。
ベッドから飛び起きた早江は、クローゼットから昔、珠紀が子供の頃に使っていた虫取り網を取り出して構えた。そして天井を見つめたまま音の発信元を探す為に、部屋を徘徊する。耳を傾けて集中するが早江の気配を感じたのか、天井裏からの音は収まった。
早江は少しの間そのまま天井を眺めていたが、外から部屋に流れ込んできた音楽が、時間の進み具合を早江に知らせた。早江が夕食の用意の為にキッチンに向かおうと、一階に降りると玄関のドアが開き珠紀が帰ってきた。
「あら、今日は随分と早いじゃない。部活はどうしたの?」
「今日は音楽室が補習で使えないから、休みになった。それよりも、何でそんなの持ってるのお母さん」
珠紀の差した指先に早江は目を向けると先程出さした虫取り網を手に持ったままだった。
「また二階の天井で物音がしたのよ。そう言えば珠紀の部屋では聞こえない?ネズミの足音や引っ掻いたりした音」
「聞こえないね。お母さん達の部屋の天井だけなんじゃない」
「困ったわね。害虫駆除って高いのよね」
リビングに移動した早江が、対処法に頭を悩ませていると、冷蔵庫から麦茶を出してコップに注ぐ珠紀が助言を出す。
「あの人に頼めばいいじゃん。そうすればタダだよ」
「あの人じゃなくて、お父さんでしょ。あまりお父さんに当たらないであげて。見ていて可哀想よ」
麦茶を一息に飲み干した珠紀は、不貞腐れて階段を駆け上がると自室に閉じこもった。
半年ほど前から珠紀の反抗的な言動が増え始めていた。最初の内は勇雄が嗜めていたのだが、日を追うごとに拒絶の反応が大きくなり、今では勇雄を父と呼ぶ事さえ無くなった。それもあり、流石の勇雄も何も言えなくなってしまい、二人はかれこれ二ヶ月近く会話をしていない。
早江は勇雄に遅れて来た反抗期だろうと、言い含めていたがその実、それを言った早江でさえ不安に思う程に珠紀は不安定に見えた。
夕食の支度を済ませた早江は、部屋に戻ってから一度も顔を見せない珠紀を呼びに部屋の前に移動して、ドアをノックした。
「ご飯出来たわよ。今日は珠紀の好きなハヤシライスにしたから、一緒に食べよ」
近頃では、一度機嫌を損ねると相手が早江であってもなかなか機嫌を直さなくなっていたので、早江は少し不安げにドアの前で返事を待った。すると、部屋のドアがゆっくり開き中から部屋着に着替えた珠紀が顔を出した。
「すぐ、行くから。下で待ってて」
「わかったわ。ご飯よそっておくから早めに降りてきなさいよ」
珠紀は頷くとドアを閉めた。
一階に降りた早江はよそったハヤシライスとサラダ、スプーンとフォークを二人分用意して先に席に座り珠紀を待った。
なかなか二階から降りて来ないので、手持ち無沙汰になった早江は、テーブルの上に置いていたチャンネルを手にテレビを付けた。
チャンネルを回して面白そうな番組を探していると、あるチャンネルで手が止まった。
『お助けチャンネルです。この番組は困っている人を助ける為に、番組メンバーがお伺いする番組になっています。そこの困っているあなたどんな事でも構いません。どうぞご応募ください。お問い合わせは——』
「まさか、それに頼んだりしないよね?」
リビングの入り口で呆れ顔で珠紀が言った。
「どうしてよ、どんな事でもって言ってたわよ」
「学校で笑い者になるよ。選ばれるとは思えないけど、絶対にそれはやめてね」
珠紀が席に着くと二人で食事をはじめた。早江はこれ以上、珠紀との喧嘩を長引かせたく無かった。
「わかったわよ。お母さんが自分で何とかすします。それで、新しいクラスはどうなの?」
「どうって聞かれても」
「みんなと仲良くできてるの?」
「まぁ、普通かな。それよりお母さんこそパート先で、意地悪されたりしてないの?」
スプーンを口に運ぶ途中で早江の手が止まる。
「何言ってるの、そんな事ないわよ」
「それならいいんだけど。私の友達が前にお母さんと一緒のスーパーでアルバイトしてたらしいんだけど、その時に仕事は押し付けられるわセクハラはされる。その上、社員の人は知らんぷりしてるって怒ってたんだ。だからお母さんも気をつけてね」
「ありがとう。だけどお母さんすっごく強いんだから。だから大丈夫、大丈夫」
そう言って早江はハヤシライスを、次々に口に運び頬張った。子供みたいに口いっぱいに食べる早江を見て、珠紀は笑みを浮かべた。その顔を見て、久しぶりに見れた娘の笑顔に、安堵したように早江も微笑み返す。
時計が一日の仕事を終えて、新たな一日を刻み始めた頃、高佐木家の玄関の鍵が開けられた。中に入って来たのは全身から疲れが色濃く出た勇雄。
リビングでうたた寝をしていた早江は、扉の開いた音で起きると急いでキッチンに行き鍋に火をかけた。
勇雄は家に入るとリビングに顔を出さずに風呂場に直行する。汚れた身体で部屋を汚したくない勇雄と、汚されたくない早江、どちらの思惑も一致した上でのこの家の決まり事の一つだ。
早江はその間に食事の準備を済ませて、勇雄が風呂から上がりリビングに現れる時にはテーブルに一人分の夕食が並べられている。
シャワーで汚れと共に疲れも多少は洗い流された勇雄の表情は、玄関を開けた時に比べれば幾分かは元気を取り戻していた。
「お帰りなさい。今日も遅くまでお疲れ様」
平日、勇雄が家に帰って聞く最初の言葉だ。
「ああ」
それに対しての勇雄の返事はここ数年、一種二文字に決まっている。
「いただきます」
食事の挨拶をした勇雄は勢いよく、出された料理を黙々と食べる。美味い不味いの言葉はないが、早江はその様子を眺めるのが好きだった。
「おかわり」
早江は笑顔で差し出された皿を受け取り、おかわりをよそって勇雄に渡す。
普段、おかわりをしない勇雄だが、ハヤシライスの時は必ずおかわりをした。その為、早江はハヤシライスの日には大きな鍋いっぱいに作る。
二杯目も衰えないその勢いが、勇雄の空腹を表していた。
「ご馳走様でした」
勇雄は食べ終わると、食器を持って流し場に行き食器を洗う。早江がパートに出てから勇雄が率先して始めた唯一の家事だ。
食器を洗い終えた勇雄は、すぐに洗面所に行くと歯磨きを済ませた。そしてリビングで撮り溜めた録画のドラマを観ている早江に声をかける。
「先に寝るよ。おやすみ」
「あ……。うん。おやすみ」
目が半分閉じかけている勇雄を見て、早江は喉まで出かけていた言葉を飲み込んだ。
この日、勇雄と珠紀を送り出した早江はパートが休みな事もあり、一通りの家事を済ませるとゆっくりとリビングでワイドショーを観て過ごす。
数少ない自分の時間を過ごせるこの瞬間を、早江はすこぶる満喫している。自分以外、誰もいないので、早江は煩わしい昼食も朝の残り物で済ませた。
早江は遂に朝のうちに蓄えたエネルギーを、使う時を迎えた。
マスクと手袋を身につけて、手にはホームセンターで購入したネズミ用の粘着板にスプレータイプのネズミ用忌避剤、そして暗がりを照らすライトを持った早江が夫婦の寝室に立った。
早江は鋭い眼差しで天井を見つめながら、ネズミの生活音に聞き耳を立てる。
しかし、やはりネズミは早江の気配や殺気を感じているのか、一向にその気配を見せない。
痺れを切らした早江は意を決してクローゼットを開けて天井裏はの入り口を探すが見つからない。仕方なく隣の珠紀の部屋に向かいクローゼットを開けたがやはりそこにも天井裏への入り口は無く、クローゼットには衣服と小さい頃に遊んでいたオモチャがまとめて入っていた。
早江がネットで調べた情報では、押入れやクローゼットに天井への入り口があると書かれていた為、それを信じて探していたが二つの部屋のクローゼットにはそれらしきものは無かった。
珠紀の部屋を出た早江は、残る可能性がある勇雄の書斎の前で立ち止まる。
これまで部屋に入るな、などと勇雄が言ったことは無かった。それでも早江は勇雄の空間だと尊重し、今まで勇雄の書斎に入ったことは無かった。
それもあってか、早江は部屋に入るのをドアの前で複雑な表情を浮かべながら悩む。
ようやく決心した早江はドアノブを回してそっとドアを開く。
四畳半ある広さのフローリング部屋には机と本棚が置かれており、本棚にはビッシリと本が収められている。それに加えて机の上には所狭しと勇雄が何かを書いたノートが積み上げられていた。
興味本位か、早江は本棚に並べられた本や机の上を眺める。本棚には全国の路線図をまとめた本に日本地図を細かくまとめた本、人体図鑑やら心理学やら遺伝子学などその他諸々。さらに机の脇には年代物の古新聞が山の様に積まれている。傍目から見れば物を選ばずに、情報を頭に詰め込んでいる様に思える程、その方向性は多岐に渡る。
それを見た早江は一瞬、驚いた表情を浮かべたがすぐに表情を戻して首を振ると、当初の目的であったクローゼットを開けた。
そこには調べた通り天井裏に通じていると思わしき扉があり、早江は机の傍にあった椅子を、運んで扉の下に置いた。
ライトの灯りを付つけて忌避剤を手に持ち、天井裏を覗く準備を整えた早江。次にポケットからマイナスドライバーを取り出して、扉のロックを外すと一度呼吸を整えてから扉を開く。
長年使われていないはずにも関わらず、早江の力でも難なく扉は開けられた。早江から見える天井裏には剥き出しの木の柱がまず目に飛び込んだ。
建築関係にでも就ていなければ、それほど目にする機会がないこともあり、早江は少し楽しそうに目を輝かせている。
しかし、手に持つネズミの絵が描かれた忌避剤を目にすると、途端に表情は暗くなった。
「頑張れ私。今日はご褒美に高いアイス買ってもいいぞ」
早江は自分を奮い立たせる為に、独り言で自分自身を元気付けた。そして、片手でライトを照らし、片手で忌避剤を構えて恐る恐る天井裏に少し顔を覗かせる。
見通しを良くするライトの光は、安心をもたらすどころか早江の心臓の鼓動を高鳴らせる要因の一つになっていた。光をゆっくりと時計回りに動かしながら、目を細めて凝視する早江。
だが、そこにネズミらしき姿は見つけられない。しかし音が聞こえていた手前、そう簡単には諦められない早江は更に背を伸ばして隅々まで確認を試みる。
天井裏には至る所に電気コードが通っていて、さらに異様に湿度が高かった。加えて掃除など出来るはずもない為、埃も溜まっていた。
その時、背を伸ばした早江の目に何かが映り込んだ。それは柱の影に隠れていた為、背を伸ばすまで影すら見えなかった。早江は少し震えた手に持つライトの光でそれを照らす。
そこにはネズミでは無く、何かに包まれている物が在った。
手を伸ばしてそれを取ろうとするが早江の手の長さではあとほんの少し届かない。一度天井裏から頭を引っ込めて部屋に戻った早江は顔を伏せて神妙な面持ちで考え込む。
ハッと閃いた様に顔を上げた早江は珠紀の部屋に向かうと、クローゼットの中にあるオモチャから珠紀と小さい頃に行った縁日で、くじ引きで当たったオモチャのマジックハンドを手に取り、書斎に戻るとまた天井裏に身体を乗り出した。
マジックハンドを使って早江は柱の影に隠れた何かを掴もうとするが中々掴めない。ようやく掴めて持ち上げようとするがオモチャのマジックハンドハンドには重たいらしく持ち手が軋むが、ゆっくりと引き寄せてどうにか何かを取れた。
早江はそれを持って天井裏から書斎に戻り、床に置いた。何かは古く色褪せた布に包まれていて、紐で縛られている。早江は少し悩んだ素振りを見せたが、手を伸ばして紐を解きだした。
手先が器用な早江は固く結ばれていた紐を、いとも簡単に解いて布を勢いよくめくる。
「きゃっ——……」早江は後ろに飛び跳ねた。布の中には出刃包丁や刺身包丁など、数本の包丁が束ねて入っていた。殆どの包丁は刃が錆びており木で出来た持ち手は黒く変色している。
早江は恐る恐るマジックハンドを使って中身を確認する。包丁をマジックハンドで掴み持ち上げると、持ち手全体を覆った黒ずみを凝視する。するとその黒ずみが古びた血液だと気づいた早江は、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
狭い書斎の中には、怯えながら涙を流す早江の、過呼吸を起こしかけている呼吸音だけが聞こえていた。
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