(2)
自宅から車を走らせること、約十五分。勇雄が到着したのは。三人の住まいと同じく、街の外れにある工業団地内だ。勇雄の職場である物流センターもその工業団地内に建っている。
近頃は工業団地と呼ばずにテクノパークと呼ばれることも多いそうだが、その違いを明確に表せる言葉が見つからない。時代の流れと共にそれまでの総称や名称が、ある時を境に別の名で呼ばれるようになる事はままある。またそれら全てのものが以前と全く同じという訳でも無いのだろうが、少なくと知識を持たない者が傍目で見た際には、その違いに気づくことは困難だろう。
工業団地に繋がる入り口には標識が建てられており、デカデカと〈〇〇テクノパーク〉と書かれている。
勇雄は毎朝出勤時にその看板の横を通る度に渋い顔を浮かべて車を走らせていた。勇雄と言う男は、こういった変化をすべからく嫌っているからだ。
職場には従業員専用の駐車場が完備されていて、それぞれが決められたスペースに車を停めている。勇雄は駐車場に入ると、職場の建物から近い駐車スペースに車を止める。そして荷物をまとめて持ち車を降りて職場に向かって歩く。この会社に勤めてまだ十数年の勇雄だが、気がつけば現場作業員の中では古株の一人に数えられていた。
歩道を歩く勇雄の背後から一台のサイクル自転車が近づいて来た。
「おはようございます、勇雄さん」
つい最近、派遣従業員として入社し、勇雄と同じ現場に配属された
「三川君。おはよう、今日も元気がいっぱいだ。やっぱり若いってすばらしいな」
三川は今年で二十六歳になる。がっしりとした体つきに、短く刈り上げた黒髪。そして程よく伸ばした口髭がトレードマークの今時の若者にしては珍しい風貌の青年だ。職場に居る、他の若者は明るく染めた髪に、女と間違えかねない程の白い肌。不要な体毛に関しては剃られており、顔に薄っすら化粧まで施している者までいた。そうした者たちと比べた時、三川は対称的な存在と言える。それもあり、職場の若手従業員との接し方に悩んでいる勇雄も三川とは自然体で話せた。
「何言ってるんですか。勇雄さん、まだ四十過ぎじゃないですか。老け込むには早過ぎですよ」
「三川君も四十超えるとわかると思うけど。この歳になると体力はもちろん、気力も無くなってくるんだよ」
「そんなもんですか」
三川が目をまんまるくして聞く。
「そんなもん、なんだよ。ところで仕事には慣れたかい」
「えぇ、おかげさまで。みなさんのご指導のおかげです」
世間話をしながら職場に着いた二人は、そのまま一緒に更衣室に入り着替えを済ませて持ち場に着いた。
時計が始業時間を指すと館内放送でラジオ体操の音楽が流れ出す。工場などではありふれた事なのだが、初めての工場で働いた三川は、その光景を目にした時、やけに驚いていた。
従業員達は皆、サボる事なく入念に体操を行う。もしも体操をせずに先に仕事でも始めていようものなら、告げ口が大好きな誰かが上司に報告するのは避けられない。そうなれば注意されるのは勿論。給与査定に響く事さえ考えられるのだから、誰もがふざけずに真剣に取り組むのも頷ける話だ。
勇雄はそうした従業員同士で行われる、相互監視を上手く用いた会社経営に感心してはいたが、決して好きではなかった。
体操が終わると全員が、一斉に仕事に取り掛かる。勇雄は物流センターに当日入る荷物と出る荷物、預かり荷物の保管場所を確保したりと朝から忙しく動く。
勇雄は主任という肩書きこそ付いてはいたがやる事は平社員と大して変わらない。
主任としての役割を強いて挙げるならば、問題が発生した時の体のいい的だろう。
若者にハラスメントで訴えられる事を恐れる上司、査定や人事権に関わらない相手に不平不満を溢したい若者。それらの人達が気持ちよく働く為に酷使されるポジションだ。
物で例えるならば緩衝材だ。だが緩衝材も長い間、激しい衝撃を受け続ければ消耗して擦り減る。そんな簡単な事を考えられない人間が今の時代には増え過ぎていた。
本来ならば昼休みまでに一度、十分の小休憩があるのだが、勇雄は他の作業員には休憩を取らせて、自分はその間も休む事なく働き続ける。
長い午前の仕事の終わりであり、昼休憩を知らせるチャイムが館内放送で流されると、作業員達はその瞬間に仕事の手を止めて休憩に入り現場を離れる。しかし勇雄は昼からの作業を考えて区切りがいいところまで働く為、六十分ある筈の昼休憩を三十分程しか取れないのが常だった。
昼休憩に入った勇雄は家から持参した菓子パン一つと、コーヒーを入れた水筒を手に持って休憩室の椅子に、腰を下ろすと一度深く息を吐いた。
「待ってましたよ主任」
口に咥えた爪楊枝が、食事を終わらせた後である事を、如実に物語る二十代の現場作業員の二人が、勇雄が座る席に近づく。
「どうかした?」
菓子パンの包装紙を開けながら勇雄は尋ねる。
「どうもこうも、今朝の休憩に向かう途中で係長に用事を頼まれて休憩が取れなかったんですよ」
「えっと。係長には休憩中って事は伝えたのかな」
「はい。なのに急ぎだから頼むって言われて。これってパワハラじゃないんですか」
一人が鼻息を荒くして捲し立て、もう一人は仏頂面でただ横で立っている。勇雄は菓子パンを一口頬張ってから答えた。
「いやいや、パワハラは言い過ぎじゃないかな。本当に急を要したのかも知れないんだし」
「僕は本気で話してるんです。食べながらじゃなくて、真剣に聞いてください。それにパワハラどころか、ここで働く時に言われた条件と違うんだから、違法ですよ違法」
勇雄は食べかけの菓子パンをテーブルの上に置いて立ち上がり、訴える作業員の前に向かい合った。
「わかったよ、大変だったね。係長には俺から言うから、今回は許してもらえないかな」
「いつ言ってもらえるんですか。
「わかった。今から言ってくるよ」
勇雄は休憩室を出て係長の席がある事務室に向かった。
事務室では昼休憩中にも関わらず、取引先などからひっきりなしに電話がかかってきて忙しそうに働いている。勇雄はまっすぐ係長のデスクに向かったが、生憎、電話対応中でそのまま五分ほどその場で待ち惚けを食らった。
ようやく係長が受話器を置いたので勇雄は軽く咳払いをしてから話しかけた。
「係長。すいませんお話が」
「忙しいんだけどなぁ。……手短に済ませてよ」
「実はうちの現場の若い子から苦情が出てまして。ご面倒をおかけしますが、休憩時間中には用事を申し付けるのを控えて頂きたいんです」
それを聞いた係長はしかめ顔で勇雄の顔を見た。
「何だよそれ。こっちは休む暇さえないのに。休憩中だなんて聞いてないし、ちょっとした用事を頼んだだけじゃないか。それに頼んだ時はニコニコしながら、分かりましたなんて言っていたんだぞ。なのに——……」
勇雄が終始丁寧に説明すると最後は渋々ながらも係長は了承した。勇雄はその後すぐに休憩室へ戻ると、苦情を申し出た二人に話し合った結果を伝えて、この話を終わらせた。
ようやく勇雄が休憩室の椅子に腰を下ろした時、始業を知らせるチャイムが館内放送から流れてきた。それを合図に次々と休憩室から人が出始め、最後に勇雄一人が椅子に座ったまま取り残されている。
勇雄は一度、首をぐるりと一周まわすと立ち上がり、食べかけの菓子パンと水筒を持って休憩室から出た。
急いで家を出た珠紀は、駅に着くと改札を通りホームで電車を待っている。カバンを漁り中から最近購入した小説本を忘れたことに気がつき肩を落としす。
珠紀は気が進まないといった様子で、カバンからスマートフォンを取り出して、既に読み終えている電子書籍の最初のページを開いて読み始めた。
学校の最寄駅に停まる電車に珠紀が乗り込むと、母親譲りの整った顔立ちに加えて女性らしい膨らみを備えた身体を持つ彼女に、年齢関係なく男達の視線が集まる。彼らはまるで、品定めするかの様に彼女を上から下まで観た。しかし、それを意に介していないのか、電車に乗った後も変わらず文字の集合体から目を離さない珠紀。
学校の最寄駅に着くまで珠紀は、座席が空いていても座ろうとはせず、電車内の壁に背中を預けて立ったままスマートフォンで小説を読み
珠紀は電車を降りるとスマートフォンをカバンに戻して足早に改札を抜ける。そして学校の近くにある、二十四時間営業のファストフード店に入ると、レジでアイスコーヒーを一つ注文した。丁寧な接客の店員に商品を渡されるとお礼を口にしてからアイスコーヒーを受け取り、店の二階にある飲食スペースに足を運んだ。
早朝にも関わらず、店内にはチラホラと客の姿がある。珠紀はこの店に頻繁に通っており、いくつかあるお気に入りの席の一つ、大きなガラス張りの窓から通りが見えるカウンター席の右端から二番目の椅子に腰を下ろした。
カバンからスマートフォンを取り出して電子書籍のページを開く。そしてアイスコーヒーに被せられた蓋を取るとガムシロップを一つ入れて掻き混ぜた珠紀。
少し甘くなったアイスコーヒーを飲みながら、ガラス越しに通りを歩く人達を見下ろす。そこには出勤途中のスーツに身を包んだ会社員、通学途中の制服を着た学生。夜勤明けで帰宅途中なのか、疲れた表情を浮かべて歩く作業姿の中年。何処から来て何処に行くのか分からない騒がしい外国人の集団。沿道の花壇に腰掛けて話し込む二人組の老人。老若男女、多様多種な人間達が人間で在る為の、社会活動に勤しんでいた。
珠紀はその光景をやけに冷めた眼差しで、ただ眺めていた。
その後、視線を小説に戻し、幾らかの時間を読書に費やしていた珠紀のスマートフォンにメッセージが届く。
メッセージを開くと『着いたよ』の文字に可愛いウサギのスタンプが添えられていた。珠紀が通りを覗くと下で、制服を着た少女が一人、大きく手を振っていた。
それを見た珠紀は急いで荷物を片付けると、小走りで店を出る。
「おはよ、珠紀」
店の外には、珠紀と比べても遜色ない綺麗な顔をした少女が立っていて、珠紀に抱きつきながら挨拶をした。珠紀のクラスメイトで学校一の人気者、
「おはよう、世奈。ごめん、ボーっとしてて気が付かなかったよ」
「珠紀は本当に何をしてても、よく上の空になってるよね。あんまりボーっとしてたら痴漢に狙われるよ?私は珠紀が心配だよ」
「大丈夫だよ。私、世奈みないに綺麗じゃないし」
「何言ってるの。珠紀すごく可愛いよ。だからこそ私は、親友としてすごく心配になるんだもん」
「ありがとう。気をつけるね」
二人は会話をしながら学校へ向かう道を歩く。
通勤、通学のピーク時間になり多くの人が行き交う中、彼女達の横を通り過ぎる誰もが、二人に目を奪われて歩く速度を緩めるので、人流が滞り渋滞が起きるほどだ。
同じ高校に通う学生達は、学年に関係なく二人に朝の挨拶をする為に群がる。それに対して世奈は嫌な顔一つせず、分け隔てなく挨拶を返す。
「世奈は人気者ですごいね」
「珠紀も人気者なのよ。みんなの挨拶だって私達二人に言ってくれてるんだから、手ぐらい振ればいいのに」
「私は、そう言うのは苦手だから世奈に任せるよ」
靴箱についた二人はそれぞれ自分の靴箱の前に行く。
珠紀が靴を履き替えようと自分の靴箱の前に行くと、先客が居た。
先客は珠紀の靴箱の上の段から出した上履きを今まさに履き替えている最中だった。
珠紀に気がついた先客は、急いで靴を履き替えて横にズレると珠紀の顔を見た。
「お、おはよう。タマちゃん」
控えめな笑顔を浮かべて珠紀に話しかけたのは幼馴染の巳姫だった。華やかさは無いが愛嬌のある顔に今時珍しくコンタクトレンズではなく眼鏡を常用している。
声をかけられた珠紀は周りの見回して、誰かに見られていないか確認していると、背後から世奈がやって来た。
「お待たせ、珠紀。行こっか」
「えっと。今、履き替えるからちょっとだけ待って」
珠紀は急いで靴を履き替え、世奈と一緒にその場を離れて教室に向かった。靴箱の前では、一人取り残された巳姫が立ち止まったまま、その場を去る二人の背中を見つめていた。
教室に着いた珠紀と世奈を既に登校しているクラスメイト達が暖かく迎え入れると、それまで静かだった教室内が急に賑やかになり始めた。二人の席は教室の一番奥の一番後ろで前後に並んでいる。
珠紀が後ろに座り、その前に世奈が座ると、その周りにクラスメイト達が集まった。クラスメイトが次々に口にする話題は、昨夜放送されたテレビの話題や配信サイトに新しくアップされた動画の話、隣のクラスの誰かが誰を好きかなど、多岐に渡るが大して変わり映えしない話を、毎日繰り返していた。だがこの日は少し違う話題が何処からともなく飛び出す。
「ところで知ってる?名腹市で殺人事件があったの」
「あぁーー。何かテレビでやってた気がするね」
「そうなんだ。名腹市ってすぐそこじゃん。怖いよーー」
クラスメイト達が盛り上がる中、世奈が割って入るように話し始めた。
「実はさ。その事件の面白い話知ってるんだけど。……聞きたい?」
世奈がそう言うと、興味を持ったクラスメイト達が大きく頷いて、話を急かす。
「これ、本当は言ったらダメなんだけど。絶対誰にも言わないでね」
世奈は前置きした上で話を続ける。
「私のお父さん、県会議員してるじゃない。それでたまたま今回の事件を担当している警察の人と、知り合いで聞いたらしいんだけど、なんでも昔にも名腹市で同じような事件が起きてたらしいよ」
それを聞くとクラスメイト達は質問の雨を世奈に浴びせたがこれ以上の情報が世奈の口から出る事はなかった。
賑わうクラスメイト達の
しかし珠紀はすぐに目を逸らして盛り上がって話をするクラスメイトの方に視線を戻した。
巳姫はその様子を見た後で、珠紀の席と対極に位置する入り口に一番近い、一番前の席に座り一人で授業の始まりを待った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます