1.胎動

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 ○○県 坂山さかやま市 の街外れにある閑静な住宅街。そこには一軒、一軒が小さな土地に建てられた住宅が密集している。その数は実に五十軒にも上る。所狭しと建てられたそれぞれの家は、建ぺい率ギリギリの大きさで建てられている。小さいながらもバブル期に建てられたこれらの家は、バブル期の恩恵を受けられずに生活をしていた者たちにとって購入できる最大限の大きさの家だった。多くの家は隣家に隣接しており、ドミノの様に規則正しく並んで建てられていた。また築年数が二、三十年と古い家が多いので、誰の目から見ても経年劣化が際立って映る。しかし、過疎化が叫ばれるこのご時世において、この住宅街には空き家が数軒しかない。住民が集う要因は幾つかあるのだろうが、何よりも治安の良さが起因しているのは間違いない。この住宅街では空き巣はおろか、住民間のトラブルすら起きた事が無い。だがそれ以外は取り立てて突出した特徴が無い街とも言えた。その為、治安の良さが唯一のこの街の長所と言えるのかもしれない。

 そんな住宅街の中心地に居を構えて、家族三人で生活を営む高佐木早江こうさき さえの一家もその長所に惹かれてこの街に住んでいた。

 二階建ての3LDKの一軒家で暮らす早江の家族。一階には狭い家ながらも、広く作られたリビングルームがあり、三人はこれまで多くの時間を、この空間で共に過ごしてきた。次に二階の間取りは小さい部屋ながらも三部屋、確保されている。一つは高校二年生に進級したばかりの娘、珠紀たまきの部屋。さらに夫婦の寝室が一つ、最後の一部屋は夫である勇雄いさおが書斎として使用している。

 午前六時、二階の夫婦の寝室では前日の夜にセットされた目覚まし時計のアラーム音が、起床の時間を知らせる為にその音色を部屋中に響かせていた。早江は眠気と戦いながらも、身体を起こすと、目覚まし時計を見つめたまま動きが止まった。そのまま数秒、時が流れて隣で寝ている勇雄が起きそうな素振りを見せると、ようやく早江は我に帰ったように慌ててアラームの停止ボタンを押す。

 寝ぼけ眼を手で擦りながら早江はクローゼットから着替えを取り出すと、二人を起こさないように、忍足で一階に降りて洗面所に向かった。そして蛇口から出した冷水でそのまま顔を洗った。暖かくなり始めたとは言え、朝方の水道から流れ出る水の温度はまだ冷たかった。しかし、早江はその冷たさを求めていたのだろう。タオルで顔の水気を拭き取り、洗面台に備え付けられている鏡を眺めた早江の目からは、先程までの眠気が感じられない。

 早江は次にキッチンに向かい、炊飯器を開けた。中から白色の熱を帯びた煙がフワッと立ち上り、炊き立てのお米の香りを早江の鼻に運んだ。米が炊けているのを確かめて次に早江は鮭の切り身を三人分、グリルに入れて焼き、味噌汁を作り終わると化粧道具を持ってようやくテーブルの椅子に腰を下ろして一息ついた。

 大学を卒業して社会人になってからおよそ二十年、毎日欠かす事なく施し続けた化粧の腕前は、嫌でも手慣れたものになり、朝のちょっとした時間があれば事足りる程に上達していた。化粧を終えた早江は整った顔立ちとスマートな体型が相まって、とても四十代には見えない容姿をしている。

 早江が全ての用意を済ませて、リビングルームの壁に掛けられた時計に目を向けると、午前七時丁度を表示していた。

「おはよう」

 背後から聞こえた声に反応して、早江が振り返ると、勇雄が大きな欠伸をしながらリビングルームに入って来た。勇雄は顔も洗わずに、朝食が準備されているテーブルに向かうと、そのまま自分の席に座った。まだ身支度をしてはいないとは言え、早江とは対照的な少しふっくらした体に年相応の白髪とシワのせいもあるだろうが、二人を知らない者なら勇雄が早江と同年齢と言っても最初は信じてもらえないだろう。

「おはよう。眠たそうだけど、昨日は寝れなかったの?」

「んっ。……まぁ最近は仕事も忙しいからな」

 勇雄は家から程近い場所の物流センターで、月曜から金曜日、朝九時から遅ければ深夜、日付が変わる時刻まで働いている。しかし残業代の支給は二十時間分のみ、そんな決して良いとは言えない環境で働いている。日々ひっきりなしに行き交う膨大な荷物を、フォークリフトや時には自らの身体を使って荷物を運んび荷捌きをしている。

 早江が机に用意した朝刊を開いて、スポーツ情報を読みながら朝食を食べる。いつからか、これが勇雄の毎朝のルーティンになっていた。今の時代に新聞を取っているだけでも珍しいが、勇雄は通信機器の類いを毛嫌いしている。仕事の都合上、仕方なく通話のみが可能な携帯電話は持っていたが、家族すら使う所を見た事が殆ど無かった。

 階段を駆け降りる足音が部屋に響く。最後に起きて来たのは一人娘の珠紀だ。カバンを持って制服姿でリビングルームに現れた。

「おはよーー」

「あぁ、おはよう」

 珠紀の挨拶に対して勇雄が顔を向けて、答えたが、珠紀はカバンを置きテーブルに並べられた自分の朝食を、勇雄から離れた場所に移してから席について食べ始めた。

「どうだ学校は、新しいクラスになっても楽しく通えてるか?」

 新聞を折りたたんで珠紀の方を見て話す勇雄。

 だが、問いかけに対しての答えは返ってはこず、珠紀はテーブルに置かれていたリモコンに、手を伸ばしてテレビのスイッチを入れた。その様子をキッチンから見ていた早江は洗い物を中断してテーブルに座ると珠紀に話しかけた。

「そう言えば巳姫みきちゃんは元気してるの?確かまた同じクラスになったのよね空山巳姫そらやま みきちゃん」

「さぁ。元気なんじゃない」

「さぁってあなた。仲良かったでしょ小学校の時から」

 珠紀は朝食を食べながらテレビに顔を向けてそれ以上の返答はなかった。早江はやれやれといった表情を浮かべて自分も朝食をとりはじめた。

 会話の無い静かな食卓に、テレビから流れるニュースキャスターの声がやけに響く。

『——続いてのニュースです。○月○日○○県名腹市郊外の雑木林にて、車内に放置されたままの遺体が発見されました。警察の発表によりますと、現場の状況から事件性が極めて高いとの事です。周辺の住民の方々には——……』

「物騒ねーー。名腹市っていったら目と鼻の先じゃない。……そう言えば昔あなたが住んでたのも名腹市だったわよね」

 早江の声は勇雄に届いていないのか勇雄は据わった目でテレビのモニターを見ている。

「あなたっ。聞いてるの?」

 驚いた勇雄の身体がビクッと反応した。

「えっ。……ごめん、ボーーっとしてた。何だっけ」

「まったくもう。だから、あなた確か昔、名腹市に住んでたわよねって聞いたの」

「あぁ。でも住んでたって言っても、もうかれこれ二数年前だから何も覚えてないよ」

 勇雄は苦笑いを浮かべて答えた。そんな二人のやり取りを意に介さず、珠紀は食べ終わった食器を流しに運んで、カバンを肩に掛けると玄関に向かった。それを見た早江が椅子から立ち上がって声をかける。

「もう行くの?」

「今日、担任の先生に授業の準備お願いされてるんだ。だからもう出ないと、行って来ます」

「わかったわ。気をつけて行ってらっしゃい」

 珠紀は勇雄には目もくれず、そのまま振り返る事なく足早に家を出た。早江はそんな珠紀の後ろ姿を見送り、また椅子に腰を下ろすと溜息をついた。早江が横目で勇雄を見ると新聞で顔が隠れている。

「反抗期は成長の証よ。きっとまたすぐに仲良くできるから、今は許してあげて」

「……あぁ」

 早江からは新聞で顔が見えなかったが、勇雄の声には寂しさが滲んでいて、早江もそれを感じ取った。

 食事を終えた勇雄は、身支度を済ませて仕事に出発する為に、早江よりも先に家を出て車で職場に向かった。早江は勇雄を見送ると自分の出勤時間が迫っている事もあり、大急ぎで家事と身支度を済ませると、小走りで玄関に向かい並べられている運動靴を履いた。早江はスーパーマーケットでパート従業員として働いているので、ここ数年は動きやすい靴ばかりを買っていた。靴紐が緩んでいるのに気がついた早江は紐を結び直す。

 急に靴を見つめる早江の瞳に、ジワジワと涙が溢れ出てきて、遂には大粒の涙が数滴、運動靴の上に落ちた。早江は深呼吸を数回繰り返して、涙に濡れた瞳をカバンから取り出した赤いハンカチで拭って、涙を拭き取った。そしてカバンから化粧ポーチを出して、玄関に置かれた靴箱にはめ込まれた鏡を覗き込んで手早く化粧を直す。

 整え直された顔で何度も笑顔を作っては、鏡に映る自分の表情を確認する早江。

 いつも通りの笑顔を作れた早江はその笑顔を浮かべたまま玄関のドアを開けて外に出た。


「高佐木さん。それ終わったら、売り場のサポートもお願いするわね」

 恰幅のいい五十過ぎの中年女性がバックヤードで在庫確認をしている早江に、新しく別の仕事を頼んだ。風船でも隠しているのかと見紛うぐらい大きなお腹が目に着く彼女は、バックヤードのパートリーダーをしている中屋なかやだ。

「分かりました。終わり次第行きます」

 いつも通り、変わらぬ笑顔を浮かべて受け答えする早江を見て満足気に中屋はその場を離れた。それを見ていた早江と仲がいい年配女性のパート従業員、草間くさまが早江に話しかけた。

「中屋さんにまた仕事、押し付けられたんでしょ。ダメよ、ちゃんと断らないと」

「はははっ、大丈夫ですよ。それに中屋さんも忙しいんですよ、きっと」

「そんな事ないわよ。あの人いつも仕事を早江ちゃんに押し付けて、自分は事務所で、社員さんと馬鹿話してるだけじゃない」

 早江は笑いながらも淡々と、在庫確認の仕事を進めてあっという間に終わらせると、すぐに中屋に押し付けられた仕事に向かう為に移動を始めた。

 従業員専用の出入り口を通って早江は売り場へと入る。この店では売り場に入る際とバックヤードに戻る際に店内に向かって一礼する決まりがあるので早江は決まりに従ってしっかりと一度、頭を下げてから仕事に向かった。

 中屋に振られた仕事は、入荷した商品の棚への陳列で売り場にはすでに到着した荷物が運ばれており、複数人の店員が陳列に取り掛かっていた。早江は長年勤めている四十半ばの中年男性で、売り場パートリーダーでもある津和つわに声をかけた。

「中屋さんに言われてサポートに来ました」

 津和は薄くなった頭を掻きながら、早江をいちべつすると、聞こえるように舌打ちをしてから投げ捨てるように言い放つ。

「こっちは荷物が来たらすぐに来てくれるって聞いてたんだけど。遅れてるのにすいませんの一言も言えないわけ」

 少し離れた場所で商品を物色する客が様子を伺うほど大きな声で早江を叱責する津和。

「すいませんでした。私もついさっき聞いた所だったので」

 頭を下げて謝る早江に、更に強くなった口調で津和が吐き捨てる様に話す。

「だーーかーーらーー。社会人として先を見て動かないのはどうかって言ってんだよ。わかる?分かんないだろうな、あんたみたいに責任感を持って働かない人には。もっと人の事を考えて動けよ」

「はい。今後は注意します。すいませんでした」

 津和は再度頭を下げて謝る早江の横を通る際に、早江の尻を二度ほど撫でるように叩いて通り過ぎた。

「全く、お給料もらってる仕事なんだからしっかり頼むよ。それじゃ、俺は他の仕事があるからここはよろしく」

 そう言って津和はバックヤードに姿を消した。

 早江が顔を上げると、遠くから様子を伺っていた副店長が早江に近づいた。

「高佐木さん。お客様の前で騒ぎは困ります。以後注意してください。それとあちらの陳列もお願いしますね」

 広い額を整髪剤で隠す様に固めた前髪の副店長が、下手なセリフを読む様な口調で早江に注意をする。それに対して早江は低姿勢のままで答えた。

「すいませんでした。……分かりました。やっておきます」

 話終わると副店長は足早にその場から離れて、津和と同じくバックヤードに姿を消した。

 早江はすぐに並べかけの商品の陳列に取り掛かった。入荷数や商品に破損が無いかの確認をして、古いものを前に、新しい物を後ろに補充する。その作業を淡々と繰り返した。

 陳列作業も間も無く終わりに近づき、早江はポケットに入れているスマートフォンで時間を確かめると、既にシフトの終了予定時刻を三十分以上過ぎていた。

 全てを終わらせて、早江がようやく帰れる様になったのは、予定より一時間遅れてからだった。タイムカードの打刻は事務所に置かれたタブレット端末でする為、早江は事務室に向かう。

 事務室の前まで行くと、閉まっているドアの向こうから聞こえる副店長に津和、そして中屋の大きな笑い声が早江の耳に届く。早江は躊躇ちゅうちょする事なくドアを開けて中に入り、タイムカード打刻用のタブレット端末を手に取った。

「あら、高佐間さんまだ居たの?もう打刻は済ませてるから帰っても大丈夫よ」

 談笑していた中屋が早江に気づき話す。

 早江が確認すると、中屋の言う通り既に退社の打刻がされていた。それもシフト表通りの一時間前に。

「すいません、これ打刻が一時間前になってて。私、今仕事が終わったんですけど」

 次は談笑しながら副店長が話す。

「勝手に残業したらダメですよ。それに一度打刻したら変更はできません。ですから、今日の所は。って事で」

「分かりました。お先に失礼します」

 早江は感情を揺らす事なく挨拶を済ませて部屋を出た。そして更衣室で帰宅の準備をして職場を出て駐車場の車に乗った。

 車に乗った早江は少しの間、瞳を閉じて深呼吸を繰り返す。

 ゆっくり目を開けると早江は、ルームミラーを覗いて笑顔を作る。そしていつも通りの笑顔を作れたのを確かめてから、エンジンをつけて車を発進させた。

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