歪な真球

九路 満

 プロローグ

 身体を通り過ぎる風が、寒気から心地良いそよ風に感じられ始めた季節の変わり目。

 〇〇県 名腹なばら市 郊外の雑木林に多くのパトカーが集まり規制線が事件現場を中心に張り巡らせていた。

 居住地域から離れた場所と言うこともあり、野次馬の類は現場に居合わせてはいない。しかし、鼻がいい新聞記者や雑誌記者が数人、規制線の外から写真を撮影していた。

 そんな時、一台のセダンタイプの乗用車が赤灯を回し、サイレンを響かせながら現れ、規制線のすぐそばに車を停めた。助手席側のドアが開くと、車内からは年齢が五十程の無精髭を生やした男が、無造作に伸びた白髪頭を掻きむしりながら降りて来た。

 県警本部捜査一課の香澄英夫かすみ ひでお警部補だ。それを見た記者達が少しでも情報を得ようと、一斉に香澄を取り囲むように集まり、それぞれが思い思いの質疑を投げかけた。

「被害者の身元、何か確認取れたんですか?」

「犯人に繋がる情報は?」

「犯行はいつ行われたんですか?」

 矢継ぎ早に投げかけられる記者達のどの質疑にも香澄は表情一つ変える事なく沈黙を貫いていると、エンジンを止めた車の運転席から、香澄と同じく県警本部捜査一課の酒井慎吾さかい しんご巡査部長が降りて来た。香澄に比べて若々しく、年齢は三十代で、整えられた身だしなみは香澄とは正反対だった。酒井は急ぎ、記者と香澄の間に割って入る。

「今、お話できる事はありません。急いでますので道を空けてください」

 そう言うと二人は周りを囲む記者を散らして規制線を潜って現場に向かおうとした。しかし、飯の種が欲しい記者の一人が、二人の背後から怒声混じりで暴言を浴びせた。

「おいっ、公僕こうぼく! お前達は俺たち市民の為にいるんだろうが。少しは役に立てってんだよ」

 それまで反応一つしなかった香澄が、きびつを返して一直線に今、暴言を吐いた記者の元に歩き始めた。酒井はそんな香澄を止めようと肩に手を掛け必死に呼び止めるが、香澄はその手を払いのけ真っ直ぐ記者を見つめて歩を進め、暴言の発信源の眼前に立った。

「な。……なんだよ」

 決して睨んでなどいないが、真っ直ぐ目を見つめてくる香澄の眼力に負けた記者は先程の威勢を失っている。

「香澄さん、もう行きましょう。早く行かないとまたドヤされますよ」

 背後から耳元で囁くように話す酒井の忠告にも耳を貸さず、香澄は何も話さないまま、ただ静かに暴言を浴びせた記者の目を正面から真っ直ぐ見つめている。その内、記者の方が根負けすると、目を逸らしてその場を離れた。

 香澄はその後ろ姿を見送り、姿が見えなくなるとようやく振り返り事件現場に向かい歩き始めた。酒井は浅いため息を吐いた後で、また香澄に話しかけた。

「あんなのいつもの事じゃないですか。もしもまた問題起こしたら、次こそ本当に退職が早まりますよ」

「うるせーーよ。あの手の輩は何もしないと、それこそ何処までも付け上がるんだ。俺の為じゃなくて、将来お前達がやり易い様にしてやってんだよ」

 二人は少し歩くと、一台の軽ワゴン車の周りを取り囲む人集りに辿り着いた。

 事件現場は整備された道路から数十メートル外れていて、木々に隠れて見にくい場所に車は停められていた。二人の到着が遅れた事もあり、既に現場には役者が勢揃いしている。香澄は遅くなったことなど、気にする素振りすら見せずにスーツの内ポケットから煙草とライターを取り出し、一本口に咥えて火を付けようとライターを着火した。

 その次の瞬間、香澄の後頭部を張り手が直撃した。香澄は怒りを滲ませた表情で、振り返るとそこには県警本部捜査一課係長である楢山正高ならやま まさたか警視が腰に手を当て仁王立ちしている。とても定年へのカウントダウンが始まっているとは思えない、張りのある肌艶も去ることながら、熟練の楢山からは貫禄と生気が溢れ出していた。そして普段誰に対しても物怖じしない香澄が、唯一、頭の上がらない人物でもあった。

「現場で吸うなと何度言ったらわかるんだ香澄。もう昔みたいにやりたい放題が許される時代じゃねーーんだよ」

「楢山さん。それなら暴力もダメでしょ。そんなんだから若い子に煙たがられるんですよ」

「うるせーー。これが俺のやり方だ。文句でもあるのか」

 これ以上の問答は楢山を更に怒らせるだけだと知っている香澄は、それ以上、火に油を注ぐのをやめて煙草とライターを元の内ポケットに戻して、人集りが出来ている車両へ歩いた。先頭を香澄が行き、その後ろに遅れたことを謝罪する酒井とそれを咎める楢山が歩いた。

 香澄が人集りをすり抜けて、規制線に囲まれた中心地である車両の全貌を目にすると、すぐに事件の凄惨さを感じ取った。車両の窓は全て赤黒い色で埋め尽くされており、車内の様子を伺えなかったのだ。

「楢山さん。中は見たんですか?」

 香澄は視線を窓が赤黒く染まった車に向けたまま聞いた。

「ああ、見たよ」

「それで。……どうでした?」

「断定は出来ないが、酷似しているな」

 神妙な面持ちの二人を見て酒井が恐る恐る尋ねる。

「話がつかめないんですけど、何かあるんですか?この事件」

 酒井の問いかけを聞き流したのか、耳に届かなかったのか定かではないが、香澄は車の周りを歩きながら隅々まで目を凝らして調べた。そして一通り見終わると、最後に車両の前にしゃがみ込む。

 その様子を見ていた酒井が、言い辛そうに小声で、楢山にもう一度問いかけた。

「何度も聞いて申し訳ないんですけど、何かあるんですか?」

 楢山は一瞬、酒井の顔に視線を向けて、またすぐに視線を香澄に戻して答えた。

「似てるんだよ」

「何が似てるんですか」

「……昔、関わった未解決の殺人事件に。だ」

 その答えを聞いた酒井は、問いかけをやめて楢山と同じく、視線を香澄に移した。

 昨夜に降った雨のせいで濡れた地面は水はけが悪いせいか、まだ大分とぬかるんでいたが、香澄は気にする素振りすら見せずに車両の下を覗き込んで犯人に繋がる情報をひたすら探している。

 しかしその甲斐もなく、車外にはそれらしい痕跡を見つける事が出来なかった香澄は、鑑識から渡された手袋を手にはめて運転席のドアを開けた。

 ドアを開けてすぐに酷い悪臭が香澄の鼻をつく。車内側の窓ガラスにはびっしりと血が塗られており、ルームミラーも同様に血が塗りたくられていた。更にダッシュボードや座席の上にも窓ガラスを塗る時に滴ったであろう血痕がポツポツと残されている。車内に漂う悪臭は高い湿度が災いしたこともあり、死臭をより一層際立たせている。香澄は吐き気を駆り立てられ一度車外に身体を逃して、呼吸を整えてから次に後部座席のスライドドアを開けた。

 後部座席の椅子は畳まれて収納されていて、座席が無いはフラットな状態になっている。その一番後部のリアゲートに、持たれかかり座った状態で遺体があった。香澄は車内に乗り込む前に、靴の上からビニール製のシューズカバーを履いてから乗ると、後部座席の入り口で腰を落としてしゃがみ込む。

 死体には近づかず、そのまま遠目でじっと、死体を眺める香澄。被害者の性別は男。血塗れではあるが年齢は香澄とそう離れていない五十歳前後である事が確認できた。そこに急に現れた楢山が、香澄の顔の横に、顔を覗き込ませた。

「どう見るよ、香澄。やっぱりそうだと思うか?」

「確かに似てますね。ですがいかんせん記憶だけでは断定しかねます。なにせ三十年近く前の記憶なんで」

「だな。俺も歳を取って自分の記憶に自信が持てなくなった。全く歳を取るってのは厄介な事ばかりだよ」

 剃り上げた頭を撫でながら、しかめっ面で話す楢山。

「まだまだ俺達とお偉方の間で、板挟みになってもらわないといけないんだから、弱音吐かないでください。それよりも死因は刺殺でいいんですよね」

「おかげさまでストレスが俺の毛根を全て持っていったよ。検死の結果が出ないと、確かなことは言えないが、恐らく複数箇所刺されたことによる出血死で間違いないだろう」

 香澄はそれを聞いて遺体の側に近寄り、遺体の状態を確認する。顔、胴体、腕、足、果てには陰部と全身を見回すとそのいずれの箇所にも刺し傷が残されていた。しかし、一番狙われそうな首には傷痕が一つも付いておらず、香澄は目を細めて首回りをまじまじと見つめた。

 一通り車内を見た香澄が車外に出ると、待ってましたと言わんばかりに、酒井が支度を済ませて車内に乗り込んだ。軽自動車の狭い車内なので現場確認の順番を待っていたのだ。しかし、威勢よく乗り込んだ酒井だったが、そのあまりに酷い悪臭と凄惨な光景に1分と経たずに、車外に飛び出して規制線の外、目掛けて走り去った。

「お前が選んだから引っ張って来たが、本当にあいつ使える様になるのか?」

 怪訝けげんな表情を浮かべた楢山が呆れて香澄に問う。

「他に当てがあるのなら、代わりを連れて来ればいいでしょ。今時、俺達みたいな古臭い人間に、付いてこれる若い奴の方が珍しいんだ。あれでもまだ、随分とマシな方ですよ」

「時代。……ってやつなのかこれも。規制が増えていくばかりか、今の世の中には俺じゃ考えつきもしない動機で犯行に及ぶ奴が多過ぎる」

「いつの時代にも、俺達の考えでは理解出来ない奴らは一定数居ますよ。例えば今日の事件の犯人が以前探していた奴ならそれこそ最たる例でしょう」

 返す言葉を持たない楢山は指で頭をポリポリと掻いた。そして香澄が続けて口を開く。

「ですが、以前の事件と違う点もありますね。鑑識の結果を確かめないと確実では無いですが、恐らく今回の被害者は手足を拘束された上で殺されてます」

「そうか、お前が言うんだから確かなんだろう。とりあえずは鑑識の結果を待つとするか。俺は一旦本部に戻るが、お前達は捜査本部を設置した所轄署にこのまま直行して事件に当たってくれ」

 そう言い残すと楢山はその場を後にした。

 香澄は所轄署に向かう為に、規制線の外へ歩くとげっそりした顔で酒井が肩を落としながら歩いていたが、香澄の姿を見るや否や姿勢を正して小走りで香澄の元に駆け寄って頭を下げる。

「すいませんでした」

「謝るな。あんな光景を初めて目の当たりにして、平気でいられる奴なんてどこにもいやしない。もしそんな奴が居れば狂人や変人の類だ。だから少しずつ耐えられる様になるしかないんだよ。……もう出発するからさっさと付いて来い。運転手」


 二人が乗り込んだ車は事件現場を離れて、捜査本部が置かれている所轄署へと走り出す。ハンドルを握って運転する酒井の隣で香澄は、座席を倒して横になり目を閉じている。その姿を運転をしながら酒井は、横目でチラチラと見ては話すタイミングを伺っていた。

「前を見て運転しろ。聞きたい事があるならさっさと言え。事故でも起こされたらたまったもんじゃない」

 急に香澄が声をかけたので酒井は驚きを見せたが、すぐに姿勢を正し前を見て運転を始めた上で香澄に質問をした。

「今回の事件が、昔の未解決事件と類似してると楢山係長に聞いたんですが、その未解決事件ってのはどんな事件だったんですか?」

 倒した椅子を元の位置に戻した香澄は煙草を一本取り出して咥えた。

「何回も言ってますけど、警察車両は禁煙ですよ」

 香澄は酒井の忠告を聞き流して煙草に火をつけると窓を開けて肺から煙を吐き出した。

「嫌な事を思い出すんだからこれぐらい多めに見ろ。あれはもう三十年近く前の事件だな。何せ当時俺は交番勤務で、楢山さんにしたって捜査一課に配属されたばかりの新米の頃の話だからもう大昔だ」

「二人にもそんな時代があったんですね」

「馬鹿にしてやがるな。まぁいい。とにかく、そんな若い時代に起きた事件でな。今回と同様、車内で刺殺体が見つかり、窓やバックミラーに血が塗られていたんだ。被害者は二十歳過ぎの青年でな、周囲の評判も良くて、とても無惨に殺される様な素行の悪い青年じゃ無かったって話だ。そんな現場も怪奇的な事件が未解決のままなんだから嫌でも脳裏に焼きついて離れやしない」

 携帯灰皿をポケットから取り出して灰を落とす香澄。

「その事件の犯人が今回と同一って事ですか。でも、模倣犯って線も残っているでしょ」

「確かにゼロではないが、当時メディアが流した情報には、車両の窓に血液が塗られていた事は入っていない。と言うよりもその事は伏せて報道されたんだ」

「それなら確かに、同一犯の可能性が高いですね。三十年近く前の事件、か。……でも何で今になって——」

「それは犯人を捕まえて、直接本人に教えてもらえ」

 言い終わると、火を消した吸い殻を携帯灰皿に入れて、香澄はまた座席を倒して目を閉じて眠りについた。

 沈みかけの太陽から届けられた光が、その長い旅路を終えて、最後に大地を怖い程に赤く染めた。

 帰宅ラッシュで渋滞した路を見て酒井の表情からは苛立ちが浮かんだ。そして二人が乗る車はゆっくりと前に進む。

 終着地まではまだまだ長い道が続いている。

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