生まれてこの方、清廉高潔に生きて来たと自負がある。

 もちろん、この世に完璧な人間など存在しないし、僕だって完全に潔白だとは言わない。

 ほんの、つぶさなことではあるが、悪行を働いてしまったことは無きにしも非ず。

 けれども、それは本当に、日常のささいな一節にすぎない。

 つまりは、警察のご厄介になることなんて、無かった。

「つまりは、痴情(ちじょう)のもつれ、ということかな?」

「いえ、ですから、僕らは決してそんな、不純な関係ではありません」

「じゃあ、どういう関係なんだい?」

「それは……」

「ただならぬ関係、とだけ申しておきます」

「ほら、やっぱり、痴情のもつれじゃないか」

 この獏女は、本当にバカ女だと思う。

 僕がなるべく早く事態の収束に向けて、粛々とおまわりさんに説明している最中、まだそんなふざけたことを抜かす。

 こいつ、獏の能力で、他人様の頭の中を覗ける訳だけども。

 いっぺん、こいつ頭の中も覗いてやりたいものだ。

 何なら、脳みそをほじくりかえしてやりたい。

 つまりは、それくらい、腹立たしい女、ということだ。

「あたし達は、ただの友人です」

 話がもつれている最中、サッと言ってのけたのは、蒼井さんだ。

「久しぶりに再会して、お酒も入って、少し盛り上がってしまって……ああ、今はお酒は飲んでいないんですけど、この2人とも二日酔いなので」

「ああ、なるほどね」

 やはり、何を言うかはさして重要じゃない。

 誰が、何を言うのかが、大事なのだ。

 僕みたいな、ヒョロガリの陰キャ男よりも、明朗快活な、蒼井さんみたいな子が言った方が、ずっと説得力がある。

 無論、そこのバカ女は、論外である。

「まあ、若気の至りかもしれないけど、ほどほどにね」

「はい、申し訳ありませんでした」

 おまわりさんはおいとました。

 ペコっと会釈する蒼井さんの背後で、僕は最敬礼をしていた。

 それはおまわりさんに対してであり、何よりも蒼井さんに対して。

「はぁ~、私すごく、ドキドキしちゃいました。危うく、逮捕されてしまうところでしたね」

「いや、さすがに、逮捕までは行かないけどさ」

「でも、渚さん。やはり、良い人ですね」

「何が?」

「私のこと、ストーカー女だと言えば、警察に身柄を引き渡すことも出来たでしょうに」

「あたし、そんなひどい女に見える?」

 蒼井さんは苦笑する。

「いえ、見えません」

 バカ女こと、獏女は笑顔で言ってのける。

 こちらは内心で、というか実際に冷や汗をかきまくりだったというのに。

 この1人あっけらかんとした様子、至極腹立たしい。

 文句の一つでも言ってやりたいが、生憎、今はこのバカを相手にする気力はない。

「それで、少し遅くなりましたけど、お昼ごはんはどうします?」

「この能天気女め。お前のせいで、少し湧いた食欲もすっかり引っ込んだぞ」

「むっ、なぜ、私のせいだと言うのですか?」

「そもそも、お前がエキセントリックな発言で僕を翻弄するから、警察沙汰なんて大恥をかいたんだ」

「安心して下さい、敬太郎さん。あなたは生きているだけで、恥をさらしています」

「……よし、表に出ろ、バカ女」

「まあ、暴力ですか? 清廉高潔な紳士さんが、聞いてあきれますね」

「誰が暴力なんて低俗な行為に走ると言った。あくまでも、ゆっくり、じっくり、話をして決着をつけようと言っている」

「ケータロ、忘れているようだけど、外は灼熱だよ? あんたみたいなモヤシくんが、耐えられると思っているの?」

「ぐぅ……」

 ぐぅの音くらいは出た。

 けど、それ以上、反論の余地がない。

 やはり、正論は、暴力だ。

 失礼ながら、蒼井さんは良き人物だと認めているが、明らかにスポーツ、体育会系。

 僕のように読書家ではないだろうから、言葉は僕よりも知らない。

 ただ、その圧倒的な正しさで、僕の巧みな言葉遣いを、事前に封鎖してしまう。

 全くもって、恐ろしい人物だ。

「ねぇ、あんた今、また失礼なこと考えているでしょ?」

「なっ……やはり、君も獏オチか?」

「だから、違うって。あんたの考えなんて、お見通しなの」

 半ば怒るようにして、けど、最後の方は笑って言った。

 シンプルなようでいて、中々に奥深い女だ、蒼井さんは。

「……浮気罪で通報します」

 口を尖らせてバカ女が言う。

「バカ、浮気など一切ないだろうが。全くもって、成立しない」

「敬太郎さんには、私という恋人がいて、それにも関わらず、間女の渚さんとイチャついている……十分に罪なことです」

「お前、頭は大丈夫か? いつ、お前が僕の恋人になった?」

「生まれてから、結ばれる運命だったのです」

「……頭が痛い」

「まあ、まだ二日酔いが残っているのですね、可哀想に」

「ああ、僕は可哀想な男だよ。お前みたいな、キチガイ女に出会ったせいで。それまでは、分からず屋な世間に虐げられつつも、平々凡々と暮らしていたのに」

「はいはい、2人とも、そこまで。また、警察沙汰になりたいの?」

 睨み合う僕らの意識を呼び寄せるように、目覚ましくパンパンと手を鳴らす蒼井さん。

「……ふん、仕方がない。今日のところは、これくらいにしておいてやる」

「それはこっちのセリフです、バカ敬太郎さん」

「なっ、誰がバカだと? 少なくとも、お前には言われたくない」

「はいはい、ケータロ、ここは男の方が身を引こうね」

「ぐぅ……」

 またしても、ぐぅの音は出た。

 けど、それ以上は何も出て来ない。

 やはり、正論、正義は、僕にとって天敵かもしれない。




      ◇




 とろっと、白いモノが伸びる。

「う~ん、美味しいですぅ~。ピザって、こんなに美味しいモノなんですかぁ~?」

「ハハ、大げさだなぁ。今まで、ピザを食べたことないの? 木野宮さん」

「ええ、そうですね。私、奥ゆかしい、和風美女ですから」

「すごいね、あんた」

 蒼井さんはジュースの入ったグラスを片手に苦笑する。

 一方、僕はひたすらに、むっつりと押し黙っていた。

「ケータロ、まだ気持ち悪い?」

「いや、もうだいぶ楽になったけど……」

 慣れない。

 今さらながら、慣れない。

 僕は自分自身を、高く評価している。

 誰よりも、清廉高潔にして、愛らしい紳士だと自負している。

 けれども、そんな僕に対して、世間の評価は冷たい。

 だから、これまで幾度となく歩んで来た、ぼっちロード。

 常に孤独を愛し、孤独が隣人だった。

 そんな僕が、今さらながら、自分のアパートの一室で、女子二人と、楽しく(?)おしゃべりをしながら、ピザと寿司を囲んでいるだと?

「はむっ、お寿司も、やはり美味しいです。そして、確かに、ビールが欲しくなるかもです」

「てか、木野宮さんも、お酒が好きなの?」

「いいえ、敬太郎さんと出会ってから、染められてしまいました」

「そんな覚えはない。お前が勝手に、アルコールの魔力に負けた、それだけのこと」

「もう、敬太郎さんってば、照れ屋さんですね~。ここは素直に、喜ぶところですよ」

「吐き気を催す」

「あ、天ぷらを頼むのを忘れてしまいました。そうだ、ここにいる敬太郎さんを……」

「酒だ、酒をくれ! 頭が狂いそうになる」

「ちょい、落ち着きなって、ケータロ。2人とも、今日はお酒ナシ!」

「ぐぅ……」

 またしても、ぐぅの音しか出ない。

 分かっている、お酒が入って、警察沙汰を起こして置きながら、自重しないのはバカだと。

 バカ……実に屈辱的な言葉だ。

 アホ、阿呆(あほう)なら、まだ許容できる。

 それは、実に愉快な響きだから。

 バカ、アホよりも上の罪は、愚か者と表現されると思うけど。

 そちらの方が業が深いけど、悪くはない。

 愚か者と言われるのは、何だか許容できる。

 しかし、やはり……バカ者呼ばわりだけは屈辱的だ。

 なぜだろう、以前はそれくらいの悪口、飲み込むか、あるいは受け流すことが出来たはずなのに。

「あ、しまった、食後のデザートが無いです」

「ああ、木野宮さん、甘党なんだっけ?」

「はい、そうです」

「じゃあ、コンビニ行く?」

「行きます」

「ケータロは、どうする?」

「僕はちょっと、横になるよ」

「ゴロ寝すると、太るぞ~……って、ケータロは、もう少しくらい、肉がついた方がちょうど良いか」

「ですね」

「黙れ、バカ女」

「何で私にだけ言うんですか? そもそも、渚さんが言い始めたのに」

「お前が僕のストレス源だからだ、さようなら」

「むぅ~……こんな人、天ぷらにする価値もありません」

「まあまあ、落ち着いて」

「渚さん、こんなしみったれた男なんて放っておいて、かわゆい女子2人だけで、美味しいスイーツを食べに行きましょう」

「ああ、じゃあ、コンビニのイートインコーナーで良い?」

「ええ、構いません。甘くておいしい、スイーツがいただけるのであれば」

「はは、分かったよ。じゃあ、ケータロ、お留守番できる?」

「ああ、そもそも、ここは僕の家だ」

「はいはい。じゃあ、行って来るからね」

「おととい行きやがれ、です」

 それはお前だろうが、と言う言葉は何とか飲み込んだ。

 これ以上、蒼井さんに迷惑はかけられない。

 まあ、僕の方が大人であるし、男であるし。

 ここは紳士として、譲歩してやろう。

 このクソアバ◯レビッ◯なバカ女に対して、な。

「それじゃ、しばしごゆっくり~」

 と、渚さんが笑顔で言って、部屋から出て行った。

 いちいち、カギをかけるのも面倒だから、僕はその場に佇んだまま、ぼんやりとピザを見つめた。

 癪(しゃく)に障るけど、あのバカ女が言う通り、僕は和風が好み。

 ピザよりも、寿司の方が好ましい。

 けれども、今は何だか、僕にとって半ば得体のしれない、このピザに食指が伸びる。

「あむっ」

 一口、頬張った。

 確かに、味は悪くない。

 あのバカ女みたいに、脳みそ浸食されるほど、ではないけど。

 ――もう、ケータロ。口の端に、チーズがついているぞ。

 一瞬、鮮烈に浮かび上がったイメージ。

 これは、今のは……何だ?

 相手の女は……蒼井さん?

 そう言えば、彼女は僕と一緒に、放課後にピザを食べたと言っていた。

 まさか、今のは……僕の記憶の残滓(ざんし)、であろうか?

 あの獏男にあらかた、食べさせたつもりでいても……物事に、完璧なんて存在しないから。

 まだほんの少しばかり、在りし日の、蒼井さんとの思い出の日々が、残っていたということか。

 いま、久しぶりに孤独になったから、正直に認めよう。

 いま、僕は彼女と過ごした光景を思い出して、少しばかり、高揚した。

 ああ、僕にも、こんな青春があったんだと、驚くくらいに。

 ただ、そうなると、おかしい。

 僕はあくまでも、激苦……いや、ほろ苦い青春を獏男に食わせたはず。

 けれども、今の記憶は……ああ、そうか。

 今のイメージは、とても甘美だ。

 僕はあのバカ女みたいに甘党じゃないけど。

 というか、何だか心がムズムズするような……気恥ずかしさもあって。

「……うきゅぅ~」

 自分でも信じられない声が漏れた。

 今ばかりは、こんな自分を『キモッ』と罵られても、甘んじて受け入れるだろう。

 それくらい、今の僕はきっと、キモい生物だ。

「蒼井さん、君は一体……」

 僕との間に、何があったんだ?

 いつの間にか、彼女に対する好奇心が、沸いていた。






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