5
生まれてこの方、清廉高潔に生きて来たと自負がある。
もちろん、この世に完璧な人間など存在しないし、僕だって完全に潔白だとは言わない。
ほんの、つぶさなことではあるが、悪行を働いてしまったことは無きにしも非ず。
けれども、それは本当に、日常のささいな一節にすぎない。
つまりは、警察のご厄介になることなんて、無かった。
「つまりは、痴情(ちじょう)のもつれ、ということかな?」
「いえ、ですから、僕らは決してそんな、不純な関係ではありません」
「じゃあ、どういう関係なんだい?」
「それは……」
「ただならぬ関係、とだけ申しておきます」
「ほら、やっぱり、痴情のもつれじゃないか」
この獏女は、本当にバカ女だと思う。
僕がなるべく早く事態の収束に向けて、粛々とおまわりさんに説明している最中、まだそんなふざけたことを抜かす。
こいつ、獏の能力で、他人様の頭の中を覗ける訳だけども。
いっぺん、こいつ頭の中も覗いてやりたいものだ。
何なら、脳みそをほじくりかえしてやりたい。
つまりは、それくらい、腹立たしい女、ということだ。
「あたし達は、ただの友人です」
話がもつれている最中、サッと言ってのけたのは、蒼井さんだ。
「久しぶりに再会して、お酒も入って、少し盛り上がってしまって……ああ、今はお酒は飲んでいないんですけど、この2人とも二日酔いなので」
「ああ、なるほどね」
やはり、何を言うかはさして重要じゃない。
誰が、何を言うのかが、大事なのだ。
僕みたいな、ヒョロガリの陰キャ男よりも、明朗快活な、蒼井さんみたいな子が言った方が、ずっと説得力がある。
無論、そこのバカ女は、論外である。
「まあ、若気の至りかもしれないけど、ほどほどにね」
「はい、申し訳ありませんでした」
おまわりさんはおいとました。
ペコっと会釈する蒼井さんの背後で、僕は最敬礼をしていた。
それはおまわりさんに対してであり、何よりも蒼井さんに対して。
「はぁ~、私すごく、ドキドキしちゃいました。危うく、逮捕されてしまうところでしたね」
「いや、さすがに、逮捕までは行かないけどさ」
「でも、渚さん。やはり、良い人ですね」
「何が?」
「私のこと、ストーカー女だと言えば、警察に身柄を引き渡すことも出来たでしょうに」
「あたし、そんなひどい女に見える?」
蒼井さんは苦笑する。
「いえ、見えません」
バカ女こと、獏女は笑顔で言ってのける。
こちらは内心で、というか実際に冷や汗をかきまくりだったというのに。
この1人あっけらかんとした様子、至極腹立たしい。
文句の一つでも言ってやりたいが、生憎、今はこのバカを相手にする気力はない。
「それで、少し遅くなりましたけど、お昼ごはんはどうします?」
「この能天気女め。お前のせいで、少し湧いた食欲もすっかり引っ込んだぞ」
「むっ、なぜ、私のせいだと言うのですか?」
「そもそも、お前がエキセントリックな発言で僕を翻弄するから、警察沙汰なんて大恥をかいたんだ」
「安心して下さい、敬太郎さん。あなたは生きているだけで、恥をさらしています」
「……よし、表に出ろ、バカ女」
「まあ、暴力ですか? 清廉高潔な紳士さんが、聞いてあきれますね」
「誰が暴力なんて低俗な行為に走ると言った。あくまでも、ゆっくり、じっくり、話をして決着をつけようと言っている」
「ケータロ、忘れているようだけど、外は灼熱だよ? あんたみたいなモヤシくんが、耐えられると思っているの?」
「ぐぅ……」
ぐぅの音くらいは出た。
けど、それ以上、反論の余地がない。
やはり、正論は、暴力だ。
失礼ながら、蒼井さんは良き人物だと認めているが、明らかにスポーツ、体育会系。
僕のように読書家ではないだろうから、言葉は僕よりも知らない。
ただ、その圧倒的な正しさで、僕の巧みな言葉遣いを、事前に封鎖してしまう。
全くもって、恐ろしい人物だ。
「ねぇ、あんた今、また失礼なこと考えているでしょ?」
「なっ……やはり、君も獏オチか?」
「だから、違うって。あんたの考えなんて、お見通しなの」
半ば怒るようにして、けど、最後の方は笑って言った。
シンプルなようでいて、中々に奥深い女だ、蒼井さんは。
「……浮気罪で通報します」
口を尖らせてバカ女が言う。
「バカ、浮気など一切ないだろうが。全くもって、成立しない」
「敬太郎さんには、私という恋人がいて、それにも関わらず、間女の渚さんとイチャついている……十分に罪なことです」
「お前、頭は大丈夫か? いつ、お前が僕の恋人になった?」
「生まれてから、結ばれる運命だったのです」
「……頭が痛い」
「まあ、まだ二日酔いが残っているのですね、可哀想に」
「ああ、僕は可哀想な男だよ。お前みたいな、キチガイ女に出会ったせいで。それまでは、分からず屋な世間に虐げられつつも、平々凡々と暮らしていたのに」
「はいはい、2人とも、そこまで。また、警察沙汰になりたいの?」
睨み合う僕らの意識を呼び寄せるように、目覚ましくパンパンと手を鳴らす蒼井さん。
「……ふん、仕方がない。今日のところは、これくらいにしておいてやる」
「それはこっちのセリフです、バカ敬太郎さん」
「なっ、誰がバカだと? 少なくとも、お前には言われたくない」
「はいはい、ケータロ、ここは男の方が身を引こうね」
「ぐぅ……」
またしても、ぐぅの音は出た。
けど、それ以上は何も出て来ない。
やはり、正論、正義は、僕にとって天敵かもしれない。
◇
とろっと、白いモノが伸びる。
「う~ん、美味しいですぅ~。ピザって、こんなに美味しいモノなんですかぁ~?」
「ハハ、大げさだなぁ。今まで、ピザを食べたことないの? 木野宮さん」
「ええ、そうですね。私、奥ゆかしい、和風美女ですから」
「すごいね、あんた」
蒼井さんはジュースの入ったグラスを片手に苦笑する。
一方、僕はひたすらに、むっつりと押し黙っていた。
「ケータロ、まだ気持ち悪い?」
「いや、もうだいぶ楽になったけど……」
慣れない。
今さらながら、慣れない。
僕は自分自身を、高く評価している。
誰よりも、清廉高潔にして、愛らしい紳士だと自負している。
けれども、そんな僕に対して、世間の評価は冷たい。
だから、これまで幾度となく歩んで来た、ぼっちロード。
常に孤独を愛し、孤独が隣人だった。
そんな僕が、今さらながら、自分のアパートの一室で、女子二人と、楽しく(?)おしゃべりをしながら、ピザと寿司を囲んでいるだと?
「はむっ、お寿司も、やはり美味しいです。そして、確かに、ビールが欲しくなるかもです」
「てか、木野宮さんも、お酒が好きなの?」
「いいえ、敬太郎さんと出会ってから、染められてしまいました」
「そんな覚えはない。お前が勝手に、アルコールの魔力に負けた、それだけのこと」
「もう、敬太郎さんってば、照れ屋さんですね~。ここは素直に、喜ぶところですよ」
「吐き気を催す」
「あ、天ぷらを頼むのを忘れてしまいました。そうだ、ここにいる敬太郎さんを……」
「酒だ、酒をくれ! 頭が狂いそうになる」
「ちょい、落ち着きなって、ケータロ。2人とも、今日はお酒ナシ!」
「ぐぅ……」
またしても、ぐぅの音しか出ない。
分かっている、お酒が入って、警察沙汰を起こして置きながら、自重しないのはバカだと。
バカ……実に屈辱的な言葉だ。
アホ、阿呆(あほう)なら、まだ許容できる。
それは、実に愉快な響きだから。
バカ、アホよりも上の罪は、愚か者と表現されると思うけど。
そちらの方が業が深いけど、悪くはない。
愚か者と言われるのは、何だか許容できる。
しかし、やはり……バカ者呼ばわりだけは屈辱的だ。
なぜだろう、以前はそれくらいの悪口、飲み込むか、あるいは受け流すことが出来たはずなのに。
「あ、しまった、食後のデザートが無いです」
「ああ、木野宮さん、甘党なんだっけ?」
「はい、そうです」
「じゃあ、コンビニ行く?」
「行きます」
「ケータロは、どうする?」
「僕はちょっと、横になるよ」
「ゴロ寝すると、太るぞ~……って、ケータロは、もう少しくらい、肉がついた方がちょうど良いか」
「ですね」
「黙れ、バカ女」
「何で私にだけ言うんですか? そもそも、渚さんが言い始めたのに」
「お前が僕のストレス源だからだ、さようなら」
「むぅ~……こんな人、天ぷらにする価値もありません」
「まあまあ、落ち着いて」
「渚さん、こんなしみったれた男なんて放っておいて、かわゆい女子2人だけで、美味しいスイーツを食べに行きましょう」
「ああ、じゃあ、コンビニのイートインコーナーで良い?」
「ええ、構いません。甘くておいしい、スイーツがいただけるのであれば」
「はは、分かったよ。じゃあ、ケータロ、お留守番できる?」
「ああ、そもそも、ここは僕の家だ」
「はいはい。じゃあ、行って来るからね」
「おととい行きやがれ、です」
それはお前だろうが、と言う言葉は何とか飲み込んだ。
これ以上、蒼井さんに迷惑はかけられない。
まあ、僕の方が大人であるし、男であるし。
ここは紳士として、譲歩してやろう。
このクソアバ◯レビッ◯なバカ女に対して、な。
「それじゃ、しばしごゆっくり~」
と、渚さんが笑顔で言って、部屋から出て行った。
いちいち、カギをかけるのも面倒だから、僕はその場に佇んだまま、ぼんやりとピザを見つめた。
癪(しゃく)に障るけど、あのバカ女が言う通り、僕は和風が好み。
ピザよりも、寿司の方が好ましい。
けれども、今は何だか、僕にとって半ば得体のしれない、このピザに食指が伸びる。
「あむっ」
一口、頬張った。
確かに、味は悪くない。
あのバカ女みたいに、脳みそ浸食されるほど、ではないけど。
――もう、ケータロ。口の端に、チーズがついているぞ。
一瞬、鮮烈に浮かび上がったイメージ。
これは、今のは……何だ?
相手の女は……蒼井さん?
そう言えば、彼女は僕と一緒に、放課後にピザを食べたと言っていた。
まさか、今のは……僕の記憶の残滓(ざんし)、であろうか?
あの獏男にあらかた、食べさせたつもりでいても……物事に、完璧なんて存在しないから。
まだほんの少しばかり、在りし日の、蒼井さんとの思い出の日々が、残っていたということか。
いま、久しぶりに孤独になったから、正直に認めよう。
いま、僕は彼女と過ごした光景を思い出して、少しばかり、高揚した。
ああ、僕にも、こんな青春があったんだと、驚くくらいに。
ただ、そうなると、おかしい。
僕はあくまでも、激苦……いや、ほろ苦い青春を獏男に食わせたはず。
けれども、今の記憶は……ああ、そうか。
今のイメージは、とても甘美だ。
僕はあのバカ女みたいに甘党じゃないけど。
というか、何だか心がムズムズするような……気恥ずかしさもあって。
「……うきゅぅ~」
自分でも信じられない声が漏れた。
今ばかりは、こんな自分を『キモッ』と罵られても、甘んじて受け入れるだろう。
それくらい、今の僕はきっと、キモい生物だ。
「蒼井さん、君は一体……」
僕との間に、何があったんだ?
いつの間にか、彼女に対する好奇心が、沸いていた。
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