アルコールと言えば、悪しき対象物として認知されているだろうけど。

 僕に言わせれば、アルコールは友である。

 そして、憎むべきは、そのろ過によって生じるアセトアルデヒドだ。

 こいつが、吐き気を催させる張本人だ。

 吐き気さえなければ、いくらでも美味なるお酒を飲むことができる。

 ん? いや、待てよ?

 とめどなく、好きなだけお酒を飲んだら、間違いなく体を壊してしまう。

 何だかんだ、アルコールは多量を摂取すると、有害だから。

 恐ろしいほどに、体を老化させると聞き及んでいる。

 吐き気を催すことで、ストップがかかるということ。

 そもそも、きちんとした大人は、適量の酒をたしなむもの。

 吐き気がこみあげる前に、切り上げる。

 吐くまで飲むなんて、くされ大学生の所業だ。

「……オエエエエエェ」

 朝から、トイレの住人と化す。

「……ホエエエエエェ」

 ああ、もう1人、トイレの住人が。

 バカ女であり、獏女。

「ちょっと、あんたら、大丈夫?」

 背中をさすさすとしてくれるのは……

「……すばない、あおいざ……オエエエエエェ!」

「良いよ、喋らなくて」

「……うぅ、ぎのうのでぎはぎょうのども……ホエエエエエェ!」

「だから、喋るなって!」

 何たる醜態、初対面の相手にここまで……いや、違うか。

 僕と彼女、蒼井渚さんは、初対面ではない。

 ちゃんと、何かしらの関係、つながりがある。

 ただ、僕がすっかり、忘れてしまっている。

 いや、食わせてしまったのだ。

 あの、獏男に。

「「ハァ、ハァ……」」

 ひとしきりゲロったところで、ようやく少しだけ、平穏を取り戻す。

「2人とも、ちょっと横になろうか」

 蒼井さんが言う。

「でも、布団は1つしかないから……」

「敬太郎さん、私は同じ布団の上でかまいませんよ?」

「僕は、ごめんだ」

「むっ……天ぷら」

「ひっ!」

「はい、木野宮さん、脅し禁止。敬太郎も、あまり怒らせない」

「「ごめんなさい……」」

 蒼井さん、あまり見た目のイメージには無かったけど、母性的だな。

 というか、面倒見がいい。

『――もう、ケータロ、こっちおいで!』

 ……あれ? 何だか、懐かしいイメージが浮かんだような気が……

「ケータロ、もう大学は夏休みなんだよね?」

「まあ、そうだね……」

「じゃあ、今日はゆっくり休んで。木野宮さんは、図書館のお仕事は?」

「今日は非番です……」

「よろしい。じゃあ2人とも、今日はゆっくり休むように」

「でも、私にはやることが……勝さんのところに行って……」

「朝の時点でこんなアッチッチなのに? 外出するの?」

「……うっぷ」

「……うっぷ」

 咳が連鎖する原理。それは、吐き気も同様。

 放っとけば布団にダブルゲロする最悪の事態に直面するも、

「はいはいっ!」

 すぐそばの機転が利く子ちゃんが、サッサッ、とビニール袋を2つ用意してくれる。

 昨晩、コンビニでの買い出しで得たブツだ。

「オエエエェ……」

「ホエエエェ……」

 しっかりと、受け止めてくれるビニール袋に感謝。

 何よりも、蒼井さんに感謝。

「……ありがとう」

「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

 澄まし顔で頷く蒼井さんは立ち上がり、エアコンのスイッチを入れる。

 初動にいささか時間がかかるも、すぐに心地良い冷風がやって来た。

「ふわああぁ~……」

「ほわああぁ~……」

 文明の利器、最高。

 芥川とか太宰とか、古典文学をこよなく愛する僕だけど。

 彼らと同じ時代に生まれたら、どんなに素晴らしいかと妄想していたけど。

 今この時ばかりは、現代人に生まれて良かったと思う。

 この時代に、僕を産んでくれた母に感謝。

 そしていま現在、まるで母のように優しく接してくれる蒼井さんに、感謝。

 感謝、感激、雨あられ。

 まあ、今は真夏、すこぶる快晴だけど。

「ケータロ、くだらないこと考えてないで、休みなさい」

「あ、蒼井さん? なぜ僕の思考が……まさか、君も獏なんてオチじゃ……」

「違うよ。けど、あんたの考えていることなんて、お見通しなんだから」

 ニカッと笑う彼女を見て、何だか胸がドキッとした。

「おのれ、間女め……敬太郎さんも、浮気したらぶっころ……うっぷ」

 バカ女は、しなやかにビニール袋に吐き出した。

 そして、俺ももらいゲロを同じくビニール袋さんに吐き出す。

「あんたら、仲良しだね」

「えっ、本当ですか?」

「おい、蒼井さん。冗談でも、やめてくれ」

「私、渚さんのこと、少し誤解していました。あなたは、とても良い人なんですね」

「それはどうも」

「はぁ、散々と吐いたら、何だか甘い物が食べたくなって来ました」

「こら、調子に乗らないの。とりあえず、お昼ころまでは大人しく休んでおきなさい」

「え~、10時のおやつの時間は?」

「子供か、あんたは」

「その通り、この女は、お子さまだ。だから、僕のような大人の紳士とは、相容れない」

「ケータロだって、お子さまでしょうが」

「なぬっ?」

「酒は飲んでも飲まれるなって、知らないの?」

「…………」

 ぐぅの音も出ないとは、このことか。

 読書家の僕の方が、当然ながら多くの言葉を知っている。

 しかし、その数多の宝具を駆使したとしても、恐らく彼女には勝てない。

 蒼井渚、ただの勝ち気でスポーティーな女じゃない。

 こんな稀有(けう)な人材のことを覚えていないだなんて。

 まあ、あのバカ男……いや、獏男にイメージ、記憶を食わせてしまったせいなのだけど。




      ◇




 蒼井さんの言う通り、昼頃までクーラーの効いた自室で大人しくしていたら、だいぶラクになった。

 ちょうど、公営のお昼のチャイムが響き渡るその頃合い。

 ぐぅ~、と虫の音が鳴る。

 その主は、ハッとした顔になり、モジモジとした。

「お、お腹が減ってしまいました」

「そっか。じゃあ、あたしコンビニに行って来るから。何が食べたい?」

「甘くておいしいスイーツなら、何でも」

「ちゃんとご飯も食べなさい」

「ぶぅ~」

 本当にお子さまだな。

 そして、蒼井さんは、まるで母親だ。

「ケータロは、何が食べたい?」

「僕は……」

「まさか、お酒とか言わないよね?」

「言わない、言わない。そこのバカとは違うから」

「天ぷら」

「ぐっ……よし、天そばがあったら、頼む」

「んっ、冷やし麺ね、了解」

 と、蒼井さんが立ち上がり、今度は僕がハッとした。

「ま、待て、僕も一緒に行く」

「えっ? 良いよ、ケータロは病み上がりみたいなもんだから、休んでおきなって」

「いや、でも……この女と2人きりだなんて……」

「嬉しいでしょ?」

「最悪だ」

「天ぷら」

「黙れ、アバ◯レ!」

「こら、ケータロ。仮にも女の子に対して、失礼でしょうが」

「なっ……」

「そうです、そうです~。やっぱり、渚さんは良い人ですね~。どこかの敬太郎さんとは大違いで」

「ぐぎぎ……」

 確かに、今の発言は僕の方に問題があった。

 いくらこの獏女がクソだとしても、それは言ってはいけない言葉。

 紳士たる僕としたことが……

「ハァ、分かったよ。じゃあ、出前にする?」

「さすが、渚さん。次から次へと、良いアイディアです」

「確かに、な」

「どうも。で、何が良い?」

「出前と言えば……やっぱり、お寿司ですかね~?」

「ああ、寿司か。しばらく、食べていないな。僕はもっぱら、日本酒派だけど。寿司に関しては、ビールが合うんだ」

「あ、でもお寿司だと、甘いモノがありません」

「砂糖があるから、それでもぶっかけて食べておけ」

「敬太郎さん、ぶっかけだなんて……さっきから、卑猥です、最低です」

「だ、誰もそんなつもりで言っていない、バカ女!」

「バカって言う方がバカなんですよ、バーカ!」

「お前も言っているじゃないか!」

「天ぷら!」

「そう何度も何度も、同じ手が通じると思うなよ!」

「全身天ぷら!」

「ながっ……この鬼畜め!」

「敬太郎さんの方が鬼畜です! この可愛い私に対して、どうしてそんなひどいことが言えるのですか!」

「お前のなんて可愛くないよ、反吐が出る」

「あ~、言いましたね~? ちょっと、近くにちょうど良い池があるんで、そこの水ぜんぶ抜いて、油池にするんで。そこで敬太郎さんを、ジュージューと天ぷらにしちゃいますから!」

「はん! バカはバカみたいなことしか思いつかないんだな!」

「とか言いつつ、しっかり足が震えていらっしゃいましょ~?」

「こ、これは……武者震いだ、バカ者!」

「そう、あんたら2人とも、バカ者だから」

 蒼井さんの声に、舌鋒鋭く言い合いをしていた僕らは押し黙る。

「だいたい、そんなに騒いだら、おとなりさんたちに迷惑でしょうが」

「うっ……」

 このアパートは、決してボロアパートではないが、学生の身分で借りられるだけあって、やはりそれなりの質。

 だから、あまり大きな声を出すと、隣人からクレームが来るやもしれない。

 そうしたら、僕もまた、あの憎き『リア充』と同類になってしまう。

 それだけは、ごめんだ。そんな屈辱、受け入れられない。

「じゃあ、もうあたしが決めるから」

「「はい、お願いします……」」

 愚かな2人は頭を垂れる他ない。

「……よし、ピザにしよう」

「「ピザ……?」」

「えっ、ダメ?」

「いや、ダメってことはないけど……普段、あまり食べることがないから」

「敬太郎さんは、和風が好みですもんね~」

 と、獏女はどこか勝ち誇った風に言う。

「まあ、知っているけど……でも、前に一緒に食べたことあるじゃん」

「むっ?」

「放課後に」

 蒼井さんの一言に、獏女が硬直した。

「放課後って……もしや、僕と君は同じ学校に通っていたのか?」

「まあ、そうだね」

「そうか……すまない、まるで覚えていなくて」

「許さん」

「ひゃッ……」

「……なーんて、仕方ないよね」

「すまない……」

「でも、大丈夫。あたしはちゃんと、覚えているから。ケータロとの思い出」

「蒼井さん……」

 束の間、彼女と見つめ合っていると、

「……まぐろの目玉って、栄養たっぷりらしいですけど……人の目玉はどうでしょうね?」

 バカ女がまた何か言い始めた。

「私、敬太郎さんの目玉焼き、食べたいな~、うふふ」

「助けてくれ、蒼井さん!」

「あー、はいはい、落ち着いて。木野宮さんも、脅しは禁止だってば」

「違いますよ、渚さん。これは歴とした、求愛行為です」

「どこが求愛だ、ふざけるな! 歴とした殺人行為だぞ!」

「ええ、そうですね」

「認めるのか!?」

「愛するがゆえに、殺したくなる……ねえ、これって文学じゃありません?」

「いや、まあ、文学を愛する者として、理解は出来るが……って、してたまるか! 殺すなら、せめて普通に殺してくれ!」

「普通と、言われましても、分かりません。何せ、殺すのは、敬太郎さんが初めてですから」

「ちょいちょい、2人とも。そんな物騒なワードを言っていると……」

 ピンポーン、と玄関チャイムが鳴って、ビクッとした。

「すみません、枕木警察署の者ですが。近隣の方から通報がありまして、少しお時間よろしいですか?」

 3人して、あんぐりと口を開けた。






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